九
千歌は白黒の世界を走り続ける。息はもう既に切れ、すぐにでも立ち止まって身体を休めたい衝動に常に駆られていた。
それでも彼女は、決して立ち止まろうとはしない。目的に向け、その足を動かし続けた。
「──目標補足、デス‼︎」
背後から、今聞きたくない声を耳にした。
走りながら振り返ると、こちらに向かって跳躍し、斧を振りかざしているエナの姿があった。
「くっ……‼︎」
横に飛ぶ。その直後、さっきまで千歌の居た位置に斧が振り下ろされた。あと少しでも遅れていたら、手遅れになっていた。
「安心してください、最初から殺すつもりはありません。今のは避けてくれると百パーセントわかっていマシタ」
「茶道さんは、どうしたんですか……?」
「茶道サマは私とお母サマとの戦闘に敗れ、そして捕まりました。あとは貴女と、雨宮雲雀サマだけデス」
「あの人を捕まえて、どうするつもりなんですか……」
「心配には及びません。茶道サマは離反したとはいえ、私達の尊敬する先輩デス。手荒な真似は絶対にしないデス」
「なら、メイドの人は……?」
「お母サマなら、先に本部に戻りマシタ。茶道サマを本部に受け渡す為でもありますし、こういう場面では一対一の方が燃えますノデ」
「そんな理由で……」
隙をついて逃げられないだろうか。そう思ったが、相手は高度な技術で出来たらしいアンドロイド。そんな隙を作ってくれるとは思わなかった。
どうすればいい。雲雀を抱えたまま戦うのは無理だ。
「私は、貴女サマと全力の勝負を所望しマス」
「全力の、勝負?」
エナが表情を一切変えずに頷く。
「そこで一つ、簡単なルールを設けマス。
……私を見事、機能停止にまで追い込む事が出来れば、貴女サマの勝利。逃げてくださって結構デス。
貴女サマが気を失った時点で、私の勝利。雨宮雲雀サマと貴女サマを、組織本部へと連れて行きマス。
決着が着く前に『戦場』の効果が切れレバ引き分け。今回は退きまショウ。……どうデス?」
「随分と律儀なんですね。私と貴女は敵同士だというのに」
「私とお母サマは、たしかに『悪人』デス。デスが、『悪党』では無いのデス」
エナは斧を手元で一回転させてから、構えを取った。
「さぁ、早く始めまショウ?」
千歌は近くにあった店へと入る。当然ながら誰も居ない。いつも沢山の人で賑わっている所に誰も居ないと、感じる寂しさは普通よりも大きい。
入口近くのソファー席に、雲雀を寝かせる。こんな状況になってもまるで起きる気配が無い。
「行って来ますね、雲雀さん」
聞こえている筈も無いのに、千歌は雲雀に向けて呟いた。
店を出て、再びエナと対峙する。
「ごめんなさい、少し待たせてしまいましたね」
左腕に巻いた包帯を外し、紫色のそれを露わにさせる。
「それは……‼︎」
腕を見て何かに気が付いたのか、エナが初めて表情の色を変えた。
「どうやら、これに気付いたみたいですね……」
本当は、彼女の前で外したく無かった。しかしこの力を行使しなければ彼女には絶対に勝てないだろうし、彼女はこちらの全力を求めている。隠したままにするのは、少し罪悪感があった。
左目を覆っていた眼帯を取る。その瞳の色はエナと同じく、紅い光を宿していた。
「……なるほど、そういう事でしたか……‼︎ 道理で情報が秘匿されている訳デス!」
エナの声は恐怖しているというよりも、興奮していた。まるで自分より強い敵に遭遇した戦闘狂の様に。
「化物。貴女サマを一言で例えるのに、これほどぴったりな言葉がありませんネ」
「そうですね。自分でも、それよりも自分に似合う言葉は無いと思いますよ。……こちらも準備、出来ました」
「了解デス。それでは始めましょうカ……」
「……」
全身に意識を集中させる。
勝利を掴む為には、一切の油断も許されない。許してくれない。
だから今は他の事なんて一切考えずに、目先の勝利の事だけを考える。
「いざ尋常に、勝負デス‼︎」
エナの足下が爆発。普通の人の目ではまず捉えられない速さで、千歌との距離を一瞬で詰めた。
高速で薙ぎ払われる斧。間一髪のところで上半身を反らし、これを避ける。
次にエナは、薙ぎ払った後の勢いを利用して斧を持ち上げ、叩きつける様に振り下ろした。千歌は命中する前に態勢を立て直し、これもなんとか躱す。
エナは得物である斧を手放すと、互いの息がかかる距離まで接近してきた。
「デス!」
「ッ‼︎‼︎」
プロのボクシング選手でも恐らくは見切れないであろう速さの一撃を、千歌は全力で受け流す。
「デス、デスデスデスデスデスデスッ‼︎‼︎」
後退りしながら、エナの目にも留まらぬのラッシュを確実に受け流し、時には避ける。一撃でも身体に入れば、即終了と考えてもいい。
その時、背中が何かに触れる。攻撃を受け流す事ばかり考えていたので、壁際まで追いやられていた事に、今更になって気が付いた。
エナは最初から、これを狙っていたのだ。
「しまっ──‼︎」
「──死ッ‼︎」
エナは腰を落とし、千歌の腹部目掛けて全力の一撃を放つ。
「がッ‼︎」
少しでも気を抜けば意識が飛んでしまうくらいの強烈な衝撃が、千歌の全身に迸る。口から血を吐き出した。
千歌の身体はコンクリートの壁を突き破り、オフィスの壁に激突した後、ようやく止まった。
「今ので終わったかと思いましたガ、まだ意識はあるみたいデスネ。流石は『化物』、と言った所でしょうカ」
コンクリート壁に出来た巨大な穴を潜り、転がっていた瓦礫の上に左足を乗せる。
「ぐっ……化物は、そっちも同じでしょうよ……」
痛みと苦しみで顔を歪めながら、必死に言葉を放つ。
もし自分が普通の人間の身体だったなら、今の一撃で腹部に大きな風穴が出来て絶命していた。エナの持つ力は、その見た目からは想像出来ないくらいに化物染みていた。
先程受けたダメージは、もう治り始めていた。あと数秒もすれば完治するだろう。
千歌は、人間離れした驚異的な回復力を持っている。つまりエナが勝利するには、一撃で彼女の気を根こそぎ持っていく程の威力を放てる攻撃を仕掛けるか。もしくは持久戦に持ち込む必要があった。
千歌は立ち上がり、左腕を突き出す。そしてその手の平から、紫色に輝くレーザーが放たれた。
「ッ⁉︎」
エナは瞬時に身を動かして直撃は避けたものの、右頬を掠めてしまった。
血が流れ出てきた傷口に、そっと手を触れる。そして笑った。
「「よくもやってくれたな」……いや、「よくぞやってくれたな」、の方が良いでしょうカ?」
呟いてから、踏んでいた瓦礫を蹴り飛ばす。
千歌の左腕が輝きを増した。そしてその手で、飛んできた瓦礫を受け止める。
「名も無き残骸に命ずる……我が敵の身を穿て!」
瓦礫を紫色の光が包んだかと思えば、エナに向けて飛んだ。
エナは自分に返ってきた瓦礫を、腕を軽く振って砕いた。
「今のは、異能力では無いデスヨネ?」
「どうして……わかるんですか?」
「異能力を使う時だけ発せられる、特殊な電波を感知する能力が、私に備わっているからデス」
「つまりさっきの力を使った時に、それを感知出来なかったから、異能力じゃないと判断した訳ですね」
「正確には、私の頬を掠めたレーザーもデス。……それは一体、何なのデスカ?」
「……聞かなくても、貴女はもうわかってるでしょう?」
エナは首肯してから、言葉を紡ぐ。
「それは異能力の原点であり、万物の頂点である『神』のみが持つ事を許された力──『神力』デスね? 貴女サマは、どうやってその力を手に入れたのデスか?」
**
『戦場』によって展開された別空間で千歌がエナと奮闘している頃。
家に残った御船は、一人で居るのも寂しいからという理由で、親友とまではいかないがそこそこ親しい人物を家に招いていた。
「どうやったらこんな風に壊れるんだ……」
玄関の惨状を見ながら、クーニャは呆れ気味に零した。
腰辺りまで伸びた銀色の髪。赤い瞳をしている。茶道と同じくランドセルが似合ってしまう程に幼い容姿をしていて、コスプレショップで購入した何かのアニメの制服の上に、サイズがまるで合っていない白衣を羽織っている。
「まあ、色々あったのよ。色々ね」
出迎えた御船が、笑って誤魔化した。
「お前達は今、一体何に巻き込まれているんだ?」
それに対してクーニャは、ため息を吐いてからそう返した。
「それは、今から話すわ」
今日雲雀が腰かけていた席に、クーニャが腰を下ろす。そして彼女と向かい合わせになるように、御船が腰を下ろした。たとえ誰であろうと、千歌の席には自分以外は座らせないと、御船は心の中で勝手に決めていた。
「……なるほど」
そう呟いてから、クーニャはホットココアを一口飲んだ。
御船は彼女に、雨宮雲雀の事やマテリアルの事。そして『二十二の夜騎士』の襲撃の事など、包み隠さず全て話した。
「千歌ちゃんらしいでしょ? 赤の他人の為に組織を敵に回すだなんて」
「でも大丈夫なのか? あの力は、使えば使う程、千歌を人間から遠ざける。残り僅かの時間を更に縮める事になるんだぞ?」
クーニャは全て知っている。巨大な組織さえ知らない裁川家の正体も、千歌が一体どんな存在なのかも。
「それに組織にあの力の存在が気付かれれば、いずれ奴らの耳にも入る。そうすれば、残された時間すら平和に暮らせなくなるぞ?」
「そうね。千歌ちゃんのやっている事は、自分の首を絞める謂わば自殺行為。あの子はそれを重々承知している。承知した上で、赤の他人を助けようと決めた。私に、あの子の決意を無為にする資格なんて無いわ」
真剣な面持ちで言う御船に、クーニャは鼻を鳴らした。
「……まったく。千歌はまるで、漫画やアニメの主人公だな。自分の事をまるで考えない。悪く言えば異常者。良く言えば、英雄だ」
**
「貴女サマは、どうやってその力を手に入れたのデスカ?」
エナのその問いに、千歌は笑って返すしか無い。
これ以上知られたら、自分の命が狙われてしまう事を知っているからだ。
「ま、いいでしょう。私が勝てば、全てわかる事デス」
足元に転がっていた、先程よりも小さな瓦礫を手に取り、投げつける。千歌はそれを、左手の平から放つレーザーで灰に変えた。そこから前進し、エナへと近付く。
「……誰が貴女サマをそんな闇鍋状態にしたのか知りませんが、随分と悪趣味デスヨネ」
「私も、その意見には賛成ですよ。確かに『彼女』は、悪趣味です」
左手の平を上にし、浮かび上がった紫色の球体を両手で左右から挟み、潰す。そこからゆっくり開くと、球体は片手剣の形へと変化を遂げていた。
エナの居る位置までおよそ五メートルというところで、足を止める。紫に輝く剣を両手で構えた。
「それが貴女サマの得物デスか。ならば私は──」
彼女が右腕を突き出すと、これまた大きなハルバードが瞬時に現れた。それを何度も両手で回してから、構えを取る。
「これを使うとしマス」
「ずっと疑問だったんですが、それ、どうやって出してるんですか? 貴女は異能力者じゃないですよね?」
「簡単な話デス。特定の武器なら、念じるだけで作る事が出来る。そういうプログラムを、お母サマに組み込んでもらっているんデス」
「そういう事ですか。……本当、便利ですよね。貴女のお母さんの異能力」
「褒めても何も出ませんよ? さ、時間もあまり無いデスし、続けましょうカ」
エナが突進する。千歌も地面を蹴り、二人の武器が激突。高らかな金属音が、建物全体に響いた。
鍔迫り合いの末、競り勝ったのはエナ。千歌は態勢を崩しそうになったが、後方にジャンプし、距離を取った事で追撃はなんとか免れた。
「デス!」
今一度距離を縮め、ハルバードを素早く、一切の隙も無く振るうエナ。対して千歌はそれを弾き、受け流し、かわしていく。背後に気を配る事を忘れない。
エナが、力の込めた薙ぎ払いを放った。千歌はそれを、バックステップでかわす。
お互いの距離が少し離れたところで、エナはハルバードは手放す。手元から滑り落ちた途端、それは瞬く間に消滅した。
相手が自ら武器を手放しても、千歌は警戒をまったく緩めない。
「貴女サマに一つ、お母サマの得意技を見せてあげまショウ‼︎」
彼女の手元に新たに現れたのは、内側に弧を描いた小型の双剣。先程、矢弾桃花が持っていたのと同じ物だ。
エナは駆け出し、一気に距離を詰める。右手に構えた剣を振ろうとした。
千歌がそれをかわそうと身を動かしたタイミングで、エナの剣が消滅。ハルバードになった。
「そんな……‼︎」
突然リーチの短い物から長い物に変わったので、千歌の今行っている回避行動では回避しきる事が出来ない。
自分の身体を無理やり動かし、迫り来る一撃を剣で受け止める。
そこでハルバードが消滅。千歌はバランスを崩し、身体が前のめりになる。その隙を狙ってエナは身を屈め、手元に再び出現させた双剣を彼女の腹部に突き刺した。
「ぐっ……が‼︎」
背中を突き破り、血に濡れた剣先が生えてきた。さっき受けた重い痛みとは違う鋭い痛みが、電撃を受けたかのように全身に伝う。
「うあああああああ‼︎‼︎」
千歌は獣の如く咆哮しながら、エナの身体を両手で突き飛ばす。
「はあ……はあ……」
突き刺さった剣を自力で引き抜き、放り投げる。流れ出た血液が、味気ない地面を赤く彩った。
傷口は既に塞がり始め、痛みも引いてきていた。
「その驚異的な回復力と、赤い瞳。やはり貴女サマは吸血鬼。もしくは狂人族の力も持っている様デスネ」
エナが話している内にダメージは完全に回復。剣を構えた。
「本当はやりたくありませんけど……仕方ありませんね」
剣を投擲する。エナがそれを剣で弾く。
千歌が、エナに向けて駆け出した。
エナは出現させた十本のナイフを投げる。それら全てを、千歌は左腕で全て弾いていく。
距離が縮まったところで、千歌がエナの顔面を狙って左手で殴りかかる。
エナが手元の剣を消し、ハルバードに変更。千歌を切り落とそうとした。
しかしそこで、千歌の左手が開く。
「なッ……‼︎」
ハルバードの刃が到達するその前に。左手からレーザーが放たれた。
直撃する寸前にエナは眼前に盾を展開したが、一瞬で融解。彼女の顔の右半分を貫き、破壊した。
「ガッ、ガ……‼︎」
「はあああああああッ‼︎‼︎」
開いた手を閉じ、拳をエナの頬にめり込ませる。そのまま後方へと吹っ飛び、この建物を支えている柱の一つに背中を強く打ち付けた。
殴った手を軽く振る。わかってはいたが、感触が生身の人間のものでは無かった。今はもう治ったが、石を殴った時みたいに痛かった。
「ガ……ガガガガ……」
人の言葉では無い、機械が故障したような音。エナの全身を走る青白い電気。その光景が、彼女の身体が機械で出来ている事を、千歌は改めて思い知らされた。
エナの右目は完全に故障。おまけに頭の中にあった言語機能も破損した。
だがまだ、彼女は死んではいない。
「くぁwせdrftgyふじこlp;‼︎」
立ち上がる。ハルバードを構え、こちらに向かってきた。
もう一度レーザーを放つ。
「ガガガガガガ‼︎」
エナはそれを簡単にかわし、振りかざす。
千歌は左腕でその一撃を受け止め、流し、エナに左手で殴りかかる。
ハルバードが消滅。千歌の拳が開く前に受け止め、彼女の腕に膝蹴りを食らわせた。
「あああああ‼︎」
悲鳴を上げる千歌。腕は曲がってはいけない方向へと捻じ曲がっていた。すぐに治るとは言えど、骨が折れる痛みには耐えられない。
「デス……」
激痛で膝を屈しかけている千歌に一拍で接近。そしてラッシュを浴びせる。
「デスデスデスデスデスデスデスデス‼︎ ──死ッッ‼︎‼︎‼︎」
最後にさっきのお返しとばかりに千歌の顔面を殴り飛ばし、背後の壁にクレーターを作った。
「デス、デス、デス」
故障した顔半分を押さえる。今は痛覚を遮断させているので痛みは感じないが、それでも視界に違和感はあった。
「がっ、は……ッ‼︎」
天井に目を向けたまま、口から血反吐をぶちまける。
傷は幾らでも塞がる。骨も完全にくっついた。しかし、失った血を取り戻す事は出来ない。これ以上戦えば間違いなく気を失い、敗北が決定する事だろう。
ゆっくりと、エナが近付いてくる。足音が大きくなっていく。
もう、駄目か。千歌の頭が勝利を諦めかけていたところで、エナの足が止まる。
そして突然。視界が白い光に包まれた──。




