八
「標的が移動を始めまシタ」
天鈴商店街から少し離れた場所にあるコンビニの駐車場。乗用車の助手席に座る矢弾エナが、目を瞑りながら淡々と報告した。彼女の頭の中では現在、雲雀の現在位置を示す機能が起動していた。
「この移動速度の速さから察するに、どうやら車に乗っているようデス」
「なるほど。ではその車のタイヤをパンクさせて、動きを止めてやる事にしましょうか」
運転席に座る桃花がその手に持っていたのは、ソフトボールくらいの大きさをした黒色の球体だった。感触は非常に柔らかく、しかし機械のようなもので出来ている。
「それを、使うのデスカ?」
「そうですよ。私とエナの戦闘スタイルを活かすなら、これしか方法はありません」
黒いボールを低く投げ上げてキャッチした後、軽く握り締めた。するとそれは控えめな音を立てて破裂し、世界から途端に色を奪った。
二人は車から降り、白黒テレビの中の様な世界を見渡してみる。そこには自分達以外の人間、生物の姿は一切見えず、現実世界そっくりに作られたバーチャル空間に居るような感覚を覚えた。
「成功したみたいですね」
「そうデスネ」
エナの手元に、彼女の身長を優に超す巨大な斧が、その姿を現した。日本国内では決して目にする事は無いだろう。
次に桃花が指を鳴らすと、二人の履いている靴が、数秒の間だけ桃色の輝きを放った。
「……これで、準備は完了です」
「お母サマ。作戦はどうされマスカ?」
エナが問うと、桃花は愉快に笑ってみせ、そして答えた。
「全力を出す。ただそれだけですよ」
「了解デス」
「さて、それでは始めましょうか。楽しい楽しいカーチェイスを……‼︎」
二人が同時に地面を蹴る。ただそれだけで、地面には小さなクレーターが二つ出来上がった。
**
「なんですかこれは……⁉︎」
車窓から流れる景色の異変に気付いた千歌が、表情を驚愕の色に染めた。
三番街に向かっている途中。世界が突然色を失って白と黒だけになり、自分達以外のありとあらゆるものが忽然と姿を消してしまったのだ。
時間そのものも止まっているとさえ感じてしまう静寂さが蔓延する世界の中。千歌の中で芽生えたのは、未知なる現象に対する、絶え間ない不安感と恐怖心だった。
「間違いない。これは『戦場』によるものだ……‼︎」
運転席に座る茶道が、ハンドルを握る手に力が入る。
「茶道さん、知ってるんですか?」
「ああ、よく知っているよ。これをこの世で唯一生成する事が出来て、そしてこれを愛用している奴も知ってるさ……‼︎」
速度を一切落とさないまま、車が左に曲がる。シートベルトをしているから良かったものの、その運転はとても危険なものと言えた。
「ちょ、危ないじゃないですか! 曲がる時はちゃんと減速を──」
「今はそんな事言ってる場合じゃない! 後ろを見てみろ!」
「後ろ? ……なっ⁉︎」
茶道に言われた通りに後ろに視線を向けてみた途端、千歌は無意識に息を呑んでいた。
そこには、合成映像だと思いたくなるような光景が広がっていた。
メイド服を着た少女。そして大きすぎる斧を両手に構えたツインテールの少女。その二人が、この車よりもやや早い速度で、氷上を滑るフィギュアスケーターの様に、舗装された道路を優雅に滑走して追って来ているのだ。
現在速度メーターが示しているのは百キロ。それを考えると、彼女達の速さは、およそ人間の身体で成せるものでは無い。
「か、彼女達も組織の連中なんですか⁉︎」
「『二十二の夜騎士』所属、《女帝》の矢弾桃花と《戦車》の矢弾エナ。正直言って、今一番相手にしたくない二人だよ……‼︎」
車が今度は右折する。確かに曲がる度に速度を落としていたら、あっという間に追いつかれてしまう。
「妹、後ろにキャリーバッグがあるだろ? その中に拳銃がある。それを使って、奴らの速度を少しでも落とすんだ‼︎」
「で、でも私、拳銃はおろかエアガンすら触った事がありませんよ⁉︎」
「その中に入っているのは、引き金を引く事以外のあらゆる手順。つまり標準や軌道計算なども全て自動で行ってくれる初心者にお優しい自動拳銃だ。だからその心配は無い」
「いつの間にそんな便利な拳銃が……」
「まあそれも、今追って来ているメイドが作ったものだけどな……いいから早く!」
「わ、わかりました!」
シートベルトを外す。後ろに置かれた紺色のキャリーバッグを隣の席に置いてから広げた。
「うわ、本当に入ってるよ……」
中には、これでもかと言わんばかりに様々な銃火器が敷き詰められていた。日本は今もこういった物の所持は禁じているので、この街が如何に普通じゃないかを痛感する事が出来た。
銃に関しては何も知らない千歌から見て、最も普通の形をしたハンドガンを手に取る。
「トリガーのすぐ下に、黒いボタンがあるだろ? それを、連中に銃口を向けた状態で押せ。それから電子音が聞こえたらすぐに引き金を引くんだ。至って単純で簡単だろ?」
「簡単ですね、簡単すぎて怖いです……構えとかはどうすれば良いですか?」
「それは反動も最小限に抑えてくれている。だから構えとかは気にしなくていい。自分が撃ちやすいと思った姿勢でやれ」
「わかりました……!」
力強く頷く。窓を全開させ、そこから身体を上半身だけ出した。拳銃を構え、銃口を追っ手二人に向ける。
人に銃を向けるという初めての体験に、緊張感が走る。引き金に添えている人差し指が小刻みに震え始めていた。
ボタンを押す。すると銃は、銃口から最も近い位置に居る生物に必ず命中する様に計算を自動で始め、僅か数秒でそれを終了。電子音を鳴らした。
「いきますっ……‼︎‼︎」
そんな掛け声と共に、引き金を引く。耳を塞ぎたくなる様な音と共に、一発の銃弾が、標的を穿たんと撃ち放たれた。
「──なるほど、こちらの速度を落とすつもりですか。無駄な努力ですね」
余裕を示す微笑みを浮かべる桃花。右手を突き出すと、まるで彼女を銃弾から護ろうとする様に、円形の盾が突如として姿を現し、無慈悲な金属音と共に弾いてみせた。
「なんなんですか……一体!」
千歌が怒り任せに叫ぶ。標準を桃花からエナに変え、ボタンを押す。
即、計算。鳴る電子音。引き金を引いた。
「銃弾なんて、片腹痛いデス‼︎」
エナが、口元に弧を描く。
車の速度。こちらの速度。風。銃弾の速度。それら全てを計算し、どのタイミングで得物を振るえば弾良いのか。その計算を開始させた。それは拳銃の行うそれよりも早く、終わるのに瞬き一つする時間さえ無かった。
斧を握る両手に力を込め、薙ぎ払う。風を切る小気味の良い音と一緒に銃弾が横に両断され、小さな爆発を起こした。
「さて。次はこちらの番ですね」
桃花の両手に、ナイフがそれぞれ四本ずつ現れる。
ただ、それは普通のナイフでは無く、「投げれば必ず当たり」、「必ず殺す」。そして「絶対に撃ち落されない」という不変の特性を持っていた。
「ふっふっふ。名付けて『運命を歪める絶対命中の牙』! 敢えて牙にしてるのがポイントです!」
胸の前で、腕を交差させる。そこから思い切り両手を広げ、車のタイヤに向けて投げた。
「くっ‼︎」
千歌が迫り来るナイフに向けて何度も撃つ。一つ一つに対して計算なんてしている暇は無いし、そもそも撃ち落せないので、彼女のその行動はただ弾を無意味に吐き出させるという愚行に過ぎない。彼女にそれを知る術は無いが。
ナイフはあらゆる法則を無視し、まるで生きているかの様に動きながら、確実に距離を詰めてきていた。
車内に戻り、急いで窓を閉め、シートベルトを締めた。
「茶道さん‼︎」
「わかってる!」
直後、車が大きく揺れた。必ず仕留めるナイフが、その特性通り後ろ二つのタイヤに突き刺さり、パンク。つまり殺したのだ。
隣で未だ眠ったままの雲雀もシートベルトを締めているので、投げ出される事は無い。それでも心配になった千歌は、自分を護るベルトを右手で強く握り締めながら、雲雀のを左手で押さえた。
車はバランスを失い蛇行を始める。茶道がなんとかバランスを保とうするものの、言う事を聞いてくれない。
まともなコントロールを失った車は正面からガードレールに激突。誰が見ても分かる様な凹みを作り、完全に停止した。
この事故を引き起こした二人も、車の近くで止まる。桃花は自分とエナの靴に付与させていた「車と同じくらいの速度で、如何なる道も滑走出来る機能」を解除させた。
「お母サマ。全員無事のようデス」
エナは車の方をじっと見つめてから、淡々と報告した。
「そうですか、それは良かったです。最近のエアバッグは良く出来てますからねぇ」
後部座席の扉が吹き飛び、車内から雲雀を抱えた千歌が出てきた。やや遅れて、運転席から茶道が出て来る。三人とも、奇跡的に無傷だった。
桃花は自分の胸元に手を置き、自己紹介を始めた。
「初めまして、裁川さん。私は秘密組織マテリアル直下戦闘部隊『二十二の夜騎士』が一人、《女帝》の矢弾桃花です。以後、お見知りおきを。そしてこちらが同じく『二十二の夜騎士』の一人、《戦車》の矢弾エナ。私の愛する娘です」
「娘……」
「驚くのも無理はありません。実際、私とこの子に血の繋がりはありません。でも正真正銘私の娘です。何故なら彼女は、私の能力によって生み出された超高性能なアンドロイド。現在の技術力では作る事の出来ない、オーバーテクノロジーの結晶なのですから」
「能力で……作った……⁉︎」
愕然とする。これまでそれなりに強力な異能力を見てきたつもりだったが、彼女のはその中でも群を抜いている直感で判断できた。
「とても強力な能力でしょう? 私もそう思います。ですが出る杭は打たれる。強力故に組織はこの力を恐れ、私に制限をかけました。絶対に組織に逆らえないという制限をね」
黒色の首輪に触れる。千歌はそれが、彼女を縛っているモノなのだと一瞬で分かった。
「私の話はこれくらいにして、そちらも早く名乗って下さい」
「ごめんなさい。生憎私は、おいそれと素性を明かせない立場に居ますから、名乗る訳にはいかないんです」
「……そうでしょうね。裁川家の存在は組織は当然、あの『黒姫』さえ知らない。どんな事情があるかは分かりませんが、きっと名乗れないと答えるだろうなと思いました。なので──」
エナが斧を構える。桃花の両手に、内側にカーブを描いた双剣が出現した。千歌はもう、それに驚かない。
「実験体と一緒に組織に連れ帰り、尋問する事にします」
「実験体……それってまさか、雲雀さんの事を言ってるんですか……⁉︎」
「そうですよ。名前で呼んであげた方が良かったですか?」
「ッ‼︎」
一歩前に踏み出した。
許せなかった。雨宮雲雀を。一人の人間を、そんな風に呼んだ事が。
「待て」
茶道の手が、千歌を制した。
「お前、雲雀ちゃんを抱えたまま戦うつもりなのか?」
「そ……それは……」
無理だ。千歌はもう既に、二人の強さを見ている。もし仮に雲雀を抱えていなくとも、自分にあの二人同時を相手には出来ない。
「じゃ、じゃあどうすれば──」
「漫画とかで良く見るだろう? 「ここは私に任せて先に行け」って奴だよ」
「む、無理です! 茶道さんの能力は戦闘向けでは無いんですよ⁉︎ それに──」
そこで茶道は、顔を引きつらせた。本人は笑っているつもりだが、千歌にはそうは見えなかった。
「そうだな。私も当然、あいつらには勝てないさ。たとえ犬が逆立ちしようともね。でもそれでも、時間を稼ぐ事は出来る。それにここでお前が残ったら、誰が雲雀ちゃんを抱えて逃げるんだ? 残念だが、私に雲雀を運ぶ事は無理だぞ」
「でも向こうは二人ですよ⁉︎ 茶道さん一人じゃ、二人を足止めするなんて不可能です!」
「いいや、出来るさ。私は二人の事をよく知っている。だから二人がそんな事をしないって断言できるのさ。だから行け、妹」
「茶道さん……わかりました。またあとで会いましょう……‼︎」
千歌は雲雀を抱えたまま、目的地に向けて走り始めた。まだ距離はあるが、いけない距離では無い。
「お母サマ、どうしますカ?」
自分達から逃亡する千歌と雲雀の背中を、エナは目で追う。
「聞かなくともわかるでしょう? 私はこうやって、自分を犠牲にしてまで仲間を助けようとする人の決意を、無為にしたくないんです。だから彼女達を追うのは、茶道さんを倒してからにしましょう」
剣を手に持ったまま、桃花は両手を仰々しく広げる。
「それにしてもお久しぶりですね、茶道さん。元気ですか?」
「元気だよ。但しさっきまではな。お前達のお陰で、私の車が廃車になった。お陰で今は憂鬱だよ」
「車の事を嘆いているのですか? それなら安心して下さい。元の空間に影響が起きても困るので、最新の『戦場』には、解除と同時に、それまでに破損した全てのものを修復するシステムが施されているんですよ。だからそこの車もガードレールも、元に戻ります。……どうです? 元気になりましたか?」
「ああ、ほんの少しだけだがな。……お前達に、少し聞きたい事がある」
「なんですか? 答えられる範囲でなら、なんでもお答えしますよ」
「まず一つ。雲雀ちゃんには、何があるんだ」
茶道の質問に対し、桃花は首を傾げる。
「それについては実は何も知らないんです。私達だけじゃありません。他の『二十二の夜騎士』も、多分全員知らないと思いますよ」
「そうか……。もう一つだけ聞かせてくれ。あれから重音は見つかったか?」
重音という名前に、二人は途端に表情を曇らせる。
桃花はおもむろに首を横に振った。
「まだ、見つかっていません。私達が思っている以上に、別世界というものは沢山ありますから」
「……今頃アイツは、何をしてるんだろうな」
茶道はゆっくりと桃花達に向けて歩き出し、胸元から何かを取り出した。
それは妨害電波を纏ったり、飛ばす事を可能とした、警棒のような形をした対異能力者撃退用武器──『無形の死神』だった。
「苦しんでいるのかな? 泣いているのかな? それとも既に、冷たくなっているのかな?」
「……茶道さん。貴女はまだ、諦めてはいなかったのですね。その無意味な復讐を」
警棒を振る。その長さが二倍に伸びた。
「無意味……ね。その通りだ。この復讐は無意味だ。成し遂げたところで、得る者は何一つ無い。アイツが帰って来る訳でも、私の身体が元に戻る訳でも無い。けど‼︎」
薙ぎ払う。桃花達に向けて、決して見る事の出来ない妨害電波をかまいたちの様に飛ばした。
「それでも成し遂げなきゃ、私の気が済まないんだよ!!」
桃花の能力によって巨大な盾が作られ、不可視の攻撃から二人を守った。
「貴女の気持ちは分かりますよ。愛する人を実験中の事故によって失い、貴女自身も永遠に衰えない身体になってしまった。組織を恨むのは何もおかしくありません。
ですが、それでも私は止めますよ。貴女の復讐なんて、見たくありませんから……」
盾が、塵と化して消滅する。妨害電波は、異能力によって生み出された物のも、僅かながら効果を発揮する事が出来た。
茶道は足を止め、構える。
「一応先に言っておきますが、そんな玩具じゃあ、私達に傷一つ負わせる事は出来ませんよ?」
「それくらい知ってるさ。元より、私の目的は単なる時間稼ぎなんだからな」
「時間稼ぎねえ……それも無理なんじゃないですかね?」
「そんなの、やってみないとわからないだろ?」
茶道が笑う。それに釣られて、桃花も頬を緩めた。
「それもそうですね……。エナ、戦闘態勢に移行」
「了解デス」
掛け声を合図に、エナの髪色が桃花と同じ桃色に変化する。瞳の色も兎みたいに紅い輝きを放ち、纏う雰囲気は別人のものとなった。
「貴女に最大限の敬意を表して、全力で倒させていただきますね」
「ああ、来いよ。ここから先へは、絶対に行かせない……‼︎」
三人は、ほぼ同時に地面を蹴った。
そして──。