三
裁川千歌の通う蕾霰学園は、共学の私立高校だ。
偏差値は少し高め。最寄り駅が徒歩十分と、交通の便は非常に良い。何より校舎が非常に綺麗であり、かつ広大。全国の高校と比べてみても、校舎の良さは五本の指に入るだろう。これ目的で進学を決める生徒も決して少なくはなく、少子高齢化社会だというのに、入学希望者は依然として増え続けていた。
二階にある、二年C組の教室。
窓際の席に座る千歌は、窓の外に見える青空を、ぼーっと眺めていた。
「何か見えるの?」
前の席に座っている女子生徒が、身体をこちらに向けて尋ねてきた。肩口で切り揃えられた、澄んだ水色の髪をした彼女は、霧島アヤカ。笑顔の絶えないクラスのムードメーカーであり、数少ない千歌の友達でもあった。
「別に何かが見えるから外を見ている訳じゃ無いですよ。ただ心が凄く落ち着くんです。空を見てると」
「へー。千歌ちゃん、なんだか詩人みたいだね」
「……そうでしょうか?」
千歌にとって、学校とは非常に退屈で、嫌いな場所だ。必修なのかと疑ってしまうくらいに殆どの教師は睡眠魔法を唱えて来るし、放課後にはマンツーマンの補習が待っている。唯一の良い事と言えば、こうして親しい友人と他愛無い会話をする事くらいか。
……それに今日は、いつもより嫌な事が一つだけ多かった。だからか、憂鬱な気分が普段より一段階強かった。
「千歌ちゃん、今日も補習なんだよね?」
「ええ、残念ながら。早くこの地獄から解放されたいです」
「でもこれって、勉強しなかった千歌ちゃんの自業自得だよね?」
「そうですね。私がしっかり努力をしていれば、こんな事にはなりませんでした」
「ほらやっぱり」
「ですが、だからと言ってこれから努力をするつもりもありません」
「どうして?」
キョトンとした顔をして首を傾げるアヤカ。
「するつもりが無いからです」
何の迷いも躊躇いも無く、キッパリと千歌は言い放った。
「それって、数学で二次関数とか習ってもこの先使わないから意味無いだろって事?」
「それもありますが、勉強。つまり未来の自分が快適に暮らせる為に必要な努力そのものに、全く意味を感じないんです」
「……うーん、よくわからないなぁ」
腕を組み、眉を顰める。
彼女が理解出来ないのも無理はない。この感情は、千歌と同じ境遇に陥った者にしか理解出来ないだろう。
例えばそう。三日後に交通事故に遭って死ぬと、『死神』に告げられた人……とか。
「でもさでもさ! 努力って大事だよ? 努力って、何かを得る為に一生懸命になる事でしょ? そういう気持ちになれないと、大抵の人間は駄目になっちゃうだろうし、社会で生きていけないと思う……。だから努力する事を大人になる前に覚えておく必要があって、その為に学校は存在すると思うんだ……って、これはアヤカの勝手な考えだけど」
後ろ髪をかき、苦笑する。
「とにかく!」
ビッと千歌を指差した。
「いつまで経っても努力をしない人間は、社会的にも生きていけず、最終的には肉体的にも生きていけなくなっちゃうんだよ!」
「…………ごめんなさい、途中から聞いてませんでした」
「ズコー‼︎」
あまり正直過ぎる千歌の告白に、アヤカは擬音を口にしながら大袈裟に椅子からずっこけた。
「そこは聞いててよぅ‼︎」
席に座り直してから、アヤカは涙目で抗議を始める。それに耳を傾けながらも、頭は他の事を考えていた。
アヤカには申し訳ないが、やはり自分の為に努力をしたいとは思えなかった。彼女の事は好きだが、努力をしろと自分を叱る彼女の事は、この上なく嫌いだった。
自分は悪くないのに責められている。そんな理不尽な思いを受けている気分になるから。
喋り疲れたアヤカは、肩を上下させ、乱れた呼吸を整える。そして千歌の好きないつも彼女に戻った状態で、視線を窓の外へと向けた。
「……ねえ、千歌ちゃん」
「なんですか?」
「千歌ちゃんはさ、空を見てると心が落ち着くって言ったよね?」
「言いましたね」
「アヤカは寧ろ、段々恐怖心が芽生えてきたよ。空を見てると、人間がとてもちっぽけな存在に思えてくるもの」
普段はただの明るい女子高生なのに、こういう時は少し変わった事を言う。それが霧島アヤカという少女だ。先程の努力の話といい、何処か人とは変わった感性を持っているのだろう。
「貴女も詩人ですね。アヤカさん」
「そ、そう? 照れちゃうなー」
千歌の言葉に対し、ほんの僅かだけ頬を紅潮させた。彼女の喜ぶ顔は、薄暗い千歌の気持ちを、ほんの少しだけ明るく照らしてくれていた。
ポケットに入れていたスマホが鳴る。取り出し、通知の内容を確認した。
「誰からメール来たの?」
「姉さんからですよ」
「もしかして、弁当とか忘れちゃった?」
「そんなまさか。弁当はちゃんとありますよ」
嘘を吐いてないと証明する為に、鞄から黒と白のチェック柄の布巾に包まれた、小さめの弁当箱を取り出した。
「……あれ?」
その途中。千歌はある違和感に気付いた。いつも持っている筈の物が、一つだけ無かったのだ。
「どうかしたの?」
「いや、どうやらハンカチを忘れたみたいです……」
忘れ物なんてする訳が無い。それらしい事を自信満々に言った一時間くらい前の自分を、思いきり殴ってやりたい。千歌は、そんな叶わぬ願いを心の内で願った。
始業開始を告げるチャイムが鳴り響く。アヤカが慌てて姿勢を正した。千歌も視線を前の扉の方へ向ける。
教室の戸を引き、一人の女性が入ってきた。薄汚れた白衣を纏い、腰まで伸びた黒髪は手入れを怠っているのかボサボサだ。
菅原加奈子。このクラスの担任だ。担当教科は科学。
「よーしみんな席に着けー。今日も元気に出席をとっていくぞー」
教卓の前に立ち、持っていた出席簿を開いた。
二年C組の生徒数は三十五名。その内男子が十五で女子が二十と、数は女子の方が多かった。
「……はぁ、もう疲れた。そして眠い」
出席をとり終えてから、菅原は深々とため息を吐いた。左肩を軽く揉みながら、腕を回す。
「いやー実は先生徹夜してしまってな、今はとっても眠いんだよ」
言い終えてから欠伸する。少し遅れて、大きく開いた口を片手で押さえた。
「どうして徹夜したんです?」
恐らくはクラスの大半が少しだけ気になった事を代表して口にしたのは、印象に残らないくらい地味な容姿をした少女、鈍色斬歌だった。
「昨日出た新作のゲームをやり込んでたんだよ。……みんなは買ったか? 『フェアリークエスト11』」
そこから菅原は、フェアリークエストシリーズについて語り始めた。このシリーズやゲームに興味のある人は笑いを交えながらしっかりと聞いていたが、そうでない人は一時限目の準備をしたり、ブックカバーの付いた本を読んでたりしていた。
アヤカはゲームにあまり興味は無いが、前者。一方で千歌は、菅原からは見えないようにスマホを操作する後者だった。
『了解しました。では、昼休みの時間に屋上で』
画面を見ずに、しかも一つとして誤字脱字の無い文章を打ち終わり、送信する。
アヤカには先程、姉からのメールだと伝えたが、実際は違う。
千歌にメッセージを送ったのは、確かに姉だ。
しかしそれは千歌の姉である御船では無く、病的なまでに霧島アヤカを溺愛している、アヤカの姉だ。
**
その頃。千歌の姉である裁川御船は、昨日とはまた色の違うチアガール衣装に着替え、リビングのソファーに腰を下ろしていた。
「どうしてチアガールの衣装を着てるんですか? 物凄く気になるんですけど」
隣に座る雲雀が、テレビに向けていた視線を御船に向ける。彼女の纏う衣服は、寝間着と同じく千歌から借りたものだ。
「え? だって可愛いじゃない。雲雀ちゃんも、可愛いと思った服を着るでしょ? 私はそれがチア衣装なの」
「そんな理由ですか……」
「そんな理由です。……ま、冗談ですけど」
「冗談なんですか‼︎」
強い突っ込みを入れる雲雀に、御船はクスクスと微笑を零した。豊かな胸に手を当てる。
「千歌ちゃんって、眼帯に包帯と少し目立つ格好をしてるじゃない? そんなあの子に向けられる視線を少しでも減らす為に、私はこうして目立つ格好をしているのよ」
自分が変な格好をする為に妹を利用している様にも聞こえなくは無いが、雲雀は彼女がそんな人間であるとも思えない。だから、その言葉を信じる事にした。
「……妹想いなんですね、御船さんは」
「勿論よ。姉が妹を愛するのは、海が青いのと同じくらい当然の事なんだから」
「いや、流石にそれは無いと思いますけど……」
「でも雲雀ちゃんも好きでしょ? 妹の事」
「そりゃまあ……この世にたった一人しか居ない妹なので……」
脳裏に、妹の笑顔が思い浮かぶ。昔からよく喧嘩をしていたが、かと言って嫌いにはなれなかったし、近くに居ないと、底知れぬ寂しさを覚える。それくらい、雨宮雲雀にとって、妹は大切な存在なのだと言えた。
「ほらやっぱり。妹を嫌う姉なんて、姉として失格よ。姉は妹を守る為に生まれたと言っても過言じゃ無いんだから!」
それは流石に言い過ぎでは無いだろうか。そう思ったが、否定する気にもなれなかった。
「あの。少しだけ、失礼な質問をしても良いですか?」
「構わないわ。私、デリカシーの無い男の発言を前にしても笑顔を崩さないくらいには、失礼な言葉に強いから!」
両手でガッツポーズを取る。それだけで、二つの弾力の丘が揺れた。
「その……恥ずかしく無いんですか? そんな格好で外を出歩いて」
「恥ずかしい? そんな感情は、とうの昔に捨ててきたわ。でなきゃ、恥ずかしさのあまりに死んでしまうわ」
「じゃあ、目立つけど露出は控えめなコスチュームにすれば良かったんじゃないですか?」
「それは論外よ。これ以上私に似合う服装は無いし、他のにするとキャラが被っちゃうかもしれないから」
「き、キャラが被る?」
言っている意味がよくわからない。まさか知り合いに、ゴスロリ衣装を普段から身に付けている人でも居るとでも言うのだろうか。
そう思っていたら、ほぼそれと同じような答えが返ってきた。
「だってこの街には、メイド服やゴスロリ服。ナース服を私服として着ている変わり者が居るんだから」
いつからこの街は巨大なコスプレ会場になってしまったのだろうか。そんな事を思いながら、雲雀は「なるほど……」と言葉を返すのだった。