二
妹を組織から救出するまでの間、雨宮雲雀は裁川家に居候する事になった。千歌達はずっとここに居ても良いと言っていたが、流石にそこまでさせて貰う訳にもいかないので遠慮した。
そもそもこの家は、たった二人で暮らすにはあまりにも広すぎるし、部屋も大分余っている。一人や二人を急に泊める事に、何の問題も無かった。
借りた部屋の、借りたベッドの上で、雲雀は目を覚ます。外から聞こえてくる小さな鳥の声が、気分を晴れやかにさせてくれた。
今身に付けている暖色の寝間着は、千歌が普段着用しているものだ。サイズが合っていて助かった。
「おはようございます、雲雀さん」
扉が開き、千歌が入ってきた。身に付けているのは黒を基調とし、白いネクタイを胸元に添えたセーラー服。彼女の通う蕾霰学園の指定制服だ。そしてその上に、エプロンを着用している。
「おはよう……朝、早いのね」
「はい。朝食と、自分の弁当を作らないといけませんからね」
言いながら、遮光カーテンを思いきり開ける。優しい太陽の光が、これまで夜の様に薄暗かった室内を明るく照らした。今が朝なんだと今一度実感する。
「御船さんって、料理出来ないの?」
昨日の晩御飯も千歌が作っていた。雲雀は今のところ、姉の御船がキッチンに立っている姿を一度も見ていない。
「出来ますよ。私よりも断然上手いです。でも姉さんは朝が苦手なので、朝食だけは私が代わりに作るんですよ」
「へぇ、しっかり役割分担出来てるのね。……私なんて全部お母さんに任せっきりだったから、家事も料理もまるで駄目なのよね」
「女性は……特に結婚願望のある人はなるべく出来てた方が良いですよ。世の中の男性はみんな、女性は家事と料理が出来て当然! とか思ってるんですから」
「流石にそれは無いと思うけど……」
「そういえば昨日聞き忘れていたんですが、雲雀さんって何歳なんです?」
「十七歳よ」
「……永遠の?」
「違うわよ。来年でちゃんと十八になるわよ。そこらのアイドルと一緒にしないで頂戴」
「ごめんなさい。十七って聞くと、どうしても「永遠の十七歳」っていう言葉が思い浮かんでしまって……」
「そういう貴女は、今何歳なのよ」
「私? 私は永遠の十七歳ですよ」
さも当然のように言う千歌。この流れなので恐らくは冗談だと思うが、変に説得力があって、何も言い返す事が出来なかった。
「朝食はもう少しで出来上がるので、リビングで座って待ってて下さい。私は姉さんを起こしてくるので」
「わかったわ」
手すりをしっかりと掴みながら、一段ずつゆっくりと降りていく。目が覚めたと言え、まだ少しだけ眠気は残っているので、最善の注意を払う必要があった。
リビングのテレビが点いていた。流れているのは、十数年間ずっと放送し続けている有名な報道番組だ。
「……懐かしいわね」
組織に捕らわれていた時は、ありとあらゆる娯楽を禁止されていた。壁も。床も。天井までもが白かった空間の中で、あまりに退屈な日々を過ごして来た。そんな悪夢と比較してみると、今この瞬間は、気を抜けば涙が溢れ出てしまうくらいに幸せで、尊いものだった。
握り締めた拳に、力を込める。穏やかな日常は、妹を絶対に助け出すという雲雀の決意を、より強いものに変えさせた。
しばらくしてから、千歌が二階から降りてきた。その少し後に、御船が降りてきた。金色の長い髪は爆発でもしたのかと疑うくらいにボサボサで、目は半分閉じていた。
「おはようございます、御船さん」
「あー、うん……おはよう、雲雀ちゃん……」
生気の無い間延びした声。聞いているこっちも眠たくなってくる。朝が本当に弱いようだ。
御船は雲雀の隣の席に腰かけると、大きく口を開いて欠伸をし、それから目を擦り出した。
「千歌さん」
台所に居る千歌に、雲雀は声を掛ける。
「なんですか?」
「御船さんって、歳は幾つなの?」
「二十二ですよ。もう少しで二十三になります」
「成人してたの⁉︎」
驚きのあまりに声量が上がる。隣の御船が驚いて、身体が跳ねた。
「姉さんはれっきとした大人ですよ。確かに容姿は、ある一点を除いて少しだけ子供っぽさが残ってますけど……」
ある一点と言われて、雲雀の目線が御船の豊かな胸に向けられる。肉体的成長に必要な養分が、全てその膨らみに行ってしまったのだろうか。
「意外と歳が離れてるのね、驚いたわ。てっきり二、三歳程度の差だと思ってたから」
「………昔はそれくらいでしたけどね」
「え、今なんて言ったの?」
「出来ましたよー」
聞こえなかったのか。それとも聞こえていて敢えて聞かないフリをしたのかはわからないが、千歌は雲雀の問いかけを無視しして、料理をテーブルの上に運び始めた。
トマトなどが入った色鮮やかなサラダに、だし巻き卵。味噌汁に焼き魚。そして主食のご飯。朝食に相応しいメニューだ。
食欲をそそる香りが、抱いていた疑問を記憶の隅へと追いやる。合掌していただきますの合図をする時には、既に気にもしなくなっていた。
「……美味しい」
だし巻き卵を一つ食べてから、率直な感想を零す。五年間まともな食事をさせて貰えていなかったので、舌が感じる美味のハードルが極端に下がっていた可能性も否定は出来ないが、とにかく美味しかった。
「いやぁ。私なんて、まだまだですよ」
雲雀と向かい合わせに座る千歌が、照れ隠しに笑う。
「そんな事無いわ。このレベルなら、胸を張って料理上手って言えるわよ」
「そ、そうでしょうか?」
「雲雀ちゃんの言う通りよ。こんなに美味しい朝ご飯を食べられる私は、相当な幸せ者だわ!」
「ほら、御船さんもこう言ってるじゃない」
「……あ、ありがとうございます……」
顔を真っ赤にしながら俯いた。その可愛げのある仕草に、御船はほんの少しの間だけ見惚れていた。
「ところで雲雀ちゃん」御船が口を開く。「今日は何処かに行く予定とか、あったりする?」
「予定、ですか? 特に無いですよ……そもそも組織に狙われてるんですから、外に出るつもりなんてありませんよ」
「確かにその通りだけど、五年振りに外へ出られたのよ?行きたい場所の一つや二つくらい、あるんじゃないかしら」
雲雀の箸を持つ手が、ピタリと止まった。
「無い……と言ったら嘘になりますね。でもそういう場所には、妹と二人で行くって心に決めてるんです。だから妹を助けるまでは、何処にも行くつもりはありません」
「そうだったの……ごめんね、変な事を言ってしまって」
「別に気にしてませんよ」
御船は、千歌の方に視線を向ける。
「千歌ちゃんは『黒姫』ちゃんへの依頼、よろしくお願いするわね」
「わかってますよ。……あまり気は進みませんけど」
「あの、昨日も言ってたけど『黒姫』……って、一体誰なの?」
雲雀の問いに答えたのは、隣に座る御船だった。
「転雨で一番と言われている情報屋の名前よ。勿論これは偽名だけれど」
「情報屋……その人なら、マテリアルについて色々知ってそうですね」
「だから千歌ちゃんに、あの子へ調査を依頼して貰うの。でも千歌ちゃんは、『黒姫』ちゃんの事があまり好きじゃ無いのよ」
「だって仕方ないじゃないですか。彼女、一々癇に障る事を言ってくるんですから」
「ほらね? ……因みにあの子は『危険区域』。つまり転雨の危険人物の一人としても数えられているのよ」
「うわぁ、凄いですね……その『黒姫』って人」
「私と千歌ちゃんは普通の住人じゃないからこうして関わってるけど、雲雀ちゃんは極力関わらない方が良いわ。関わっても碌な事が無いんだから」
「はあ……」
「ごちそうさまでした」
朝食を他の二人よりも早めに食べ終えた千歌は、何も載っていない皿とお椀を持って、台所へと向かった。
「雲雀ちゃん」
千歌が居なくなったのを見計らって、御船が声を上げる。雲雀は口にしていた魚を少し急いで飲み込んでから、「はい」と相槌を打った。
「千歌ちゃんの事、どう思ってる?」
「なんですか? その修学旅行の夜にする恋バナみたいな質問……」
「良いから。答えて?」
顔は笑っていたものの、瞳は全く笑っていない。それを目にしていた雲雀の背筋が、恐怖で確かに凍った。
「えっと……とても優しくて、良い子だと思います」
「それだけ、なの?」
「あ、あと、どうして眼帯を嵌めて包帯を巻いてるのかは気になりました」
「……やっぱりみんな気になるわよね。あの眼帯と包帯は」
息を吐きながら、肩を落とす御船。
「病気とか怪我でもしているんですか?」
雲雀の考えに、首を横に振って否定した。
「千歌ちゃんは至って健康よ。目の病気でも無ければ、怪我をしている訳でも無いわ」
「じゃあ、なんで……」
「あまり詳しい事は事情があって言えないけど、簡潔に言うなら……そうね」
少しばかり逡巡した後、御船はゆっくりと口を動かした。
「千歌ちゃんは、そもそも人じゃないのよ」
「…………え」
誰もが一瞬で意味を理解出来る、とても簡単な言葉。けれど雲雀は、その言葉の意味を一瞬だけ理解出来なかった。
「意味がわかりません……誰がどう見たって、彼女は人間じゃないですか……」
そうだ。頭から角は生えていない。臀部から尻尾は生えていないし、背中から羽は生えていない。間違い無く、誰が見ても等身大の『人間』という生物だ。
「そうよね。私の目にも、一人の人間に見える……。でも彼女が私達と違う存在であるというのは、紛れも無い事実なのよ」
「……」
顔を見る限り、冗談を言っている様には思えない。けれど、本当の事であると信じたくも無かった。
「朝からごめんなさい、変な話をしてしまって……。今のは忘れちゃって良いから」
忘れても良い。そう言われて簡単に忘れられる程、雲雀の頭は馬鹿では無いし、どうでも良い話でも無かった。
知り合ってからまだ一日も経過していないが、裁川姉妹はただの一般人では無いという事がわかった。
本当のただの一般人に比べれば、妹を助けられる可能性は格段と上がる。そう考えると、自分は非常に運に恵まれている。二人には申し訳ないが、そんな気がした。
学校に行く準備を整え、玄関へと向かう千歌。そんな彼女を見送る為に、御船と雲雀も後に続いた。
「ハンカチとティッシュは持ったかしら?」
「勿論です。もう高校二年生ですよ? 忘れたりなんかしませんって」
「そういう油断が、失敗を生むのよ? 千歌ちゃん」
「単に姉さんが心配性なだけですよ……。それじゃ、いって来ます」
『いってらっしゃい』
御船と雲雀の声が重なる。まるで自分も彼女達の家族みたいだなと無意識に思ってしまい、少し顔が熱くなった。
「さ、為すべき事を為すとしようかしら」
千歌が扉の向こうに消えてから、御船が腕を上に伸ばした。ようやく完全に目が覚めた様だ。
「そういえば、御船さんは何の仕事をしているんですか?」
「株よ。これでも私、大株主なんだから」
両腰に手を当て、誇らしげに胸を張る。ただでさえ大きな胸が、余計に強調された。
「今日は株価をチェックしつつ、マテリアルの情報を集めようとかしら」
ソファーに腰を下ろし、タブレット端末を操作し始める。
「ごめんなさい、私の自分勝手なお願いで面倒ごとを増やしてしまって」
「雲雀ちゃんが気にする必要は無いわよ。助けを求めたのは雲雀ちゃんだけど、その手を取ったのは千歌ちゃんなんだから」
「……千歌さんは、良い人ですよね。見ず知らずの人を助けたいと思えるなんて……まるで、物語の主人公ですよ」
「主人公……ねぇ」
憂いを帯びた瞳で、真っ白な天井に取り付けられた、一定速度で回り続ける三枚羽のシーリングファンを見据えた。
「あの子は、どちらかと言えばラスボスよ」