十一
ちょい百合シーンがあります。ご注意を
おかしい。
千歌が違和感を覚え始めたのは、彼女がこの部屋に入ってから一時間後だった。
長いから、という訳では無い。扉の向こうから、物音が一切聞こえて来ないのだ。千歌は聴力や視力が人より優れているし、この部屋の壁に防音効果があるとも思えない。
だからこそ、物音一つ聞こえないのはおかしいのだ。
本来なら、もう少し早く気付けていた。だが彼女は、少しだけ気が緩んでいたのだ。エナとの戦いを終え、辿り着く場所に辿り着いた事で、安心しきっていたのだ。
それがマズかった。
「そ、んな…………」
そこには誰も居なかった。部屋の主である輝夜も。
ベッドで横になっていた雲雀も。
ふと、テーブルの上に何やら書き置きがある事に気が付いた。手に取って、目を通す。
そして気が付いた。この事態の重大さに。
『ごめんなさい』
普段達筆な輝夜が書いたとは思えないミミズの這った様な字で、短くそう書かれていた。
**
五十分前。
『久し振りですね、輝夜さん』
思わぬ電話の主に、輝夜は困惑する。
月華輝夜もまた、茶道と同じ元マテリアル構成員。そして、組織を恨んでいた。
「何の用ですか?」
動揺している事を相手に悟られない様に、平然を保ちながら尋ねる。
『重音さんを救える。そう言ったら、貴女は組織に戻ってきてくれますか?』
「……馬鹿にしてるんですか?」
『まさか。私は真剣に聞いているんです』
桃花の事は苦手だ。彼女は普段から楽観的な性格をしていて、真剣な時とふざけている時の違いがわからない。
『ディザイアレス。ご存知ですよね?』
その単語を聞いただけで、輝夜の全身の血の気が引いた。
「ディザイアレスですって⁉︎ ……まさか、完成したとでも言うの……⁉︎」
『正確には、完成させる為の要素が全て揃った……というのが正しいです。……今は、何者かの手によって、起動と制御を行う『鍵』が脱走してしまいましたが』
ディザイアレス。それは名前の通り、人の願い。即ち欲望を叶えてくれる万能の人工女神。その力を使えば確かに、輝夜が愛した女性である重音を助ける事は可能だ。
『もう一度聞きます。マテリアルに戻る気はありませんか?』
喉を鳴らす。彼女の誘いを断る理由は、彼女には無い。
「……わかりました。とりあえず仕事を終えたら、そちらに向かいます」
『その仕事とは、発信機の切除の事ですか?』
「なっ……どうしてそれを知って──」
『どうしてって、発信機が取り付けられているからですよ。……彼女こそが、ディザイアレスの『鍵』だからです』
「……」
『彼女を、気付かれないようにこちらに連れて来て下さい。これも、重音さんの救う為です』
その言葉を最後に、桃花は電話を切った。
受話器を置いてから、輝夜はため息を吐いた。
振り返り、一度も会話した事の無い可憐な少女を見据えた。
彼女にきっと罪は無いのだろう。けれど無慈悲な運命は、彼女から平和を奪うのだ。
次に、自分の寝室がある方を見る。
「ごめんなさい……千歌さん」
今にも泣きそうな声で、そう零した。
たとえ愛する人を助ける為であっても、誰かの思いを裏切るというのは、とてつもなく心を痛める最低最悪な行為だ。
引き出しに入っていたノートの一部を切り取り、殴り書きでメッセージを残す。これを書けば千歌が本来よりも気付くのが早くなる可能性があったが、それでも書かずにはいられなかった。
書き置きをテーブルに置く。なるべく物音を立てないように雲雀を担いで、研究所を後にした。
それから五十分後。ようやく千歌は部屋から出てきた。
**
蕾霰学園から少し離れた場所にある高層ビル。そこは小説や漫画などを出版している『レイジング文庫』の本社となっている。表面上は、だが。
「助かりましたよ、音弧さん。お陰で楽に着く事が出来ました」
ビルの前。雲雀を背負った輝夜は、目前に居る猫耳を生やした少女に、軽く会釈をした。
「料金は後日お願いします。それでは」
猫耳の少女はそう言ってから、その姿を一瞬で消した。輝夜はそれに何の驚きも見せずに、ビルの中へと足を踏み入れた。
ロビーは広々としていた。床は白い大理石で出来ていて、鏡の様に反射するくらいに輝いている。天井も高い。
「月華輝夜です」
眼鏡をかけた無愛想な受付嬢に名前を告げる。
受付嬢は手元にある受話器を手に取り、口を開いた。
「天罰様。月華輝夜様がいらっしゃいました。お通ししますか? ……はい、了解致しました」
受話器を置き、視線を輝夜に向ける。
「許可が降りました。今こちらに天罰様が向かっておりますので、しばらくお待ち下さい」
数分後。入口から見て左斜め前にあるエレベーターホールから、ナース服を着た栗色の髪をした少女──柊天罰がこちらに来た。
「お待ちしておりました、輝夜様。『鍵』は私が預かりましょう」
「あ、ありがとうございます」
一旦下ろした雲雀を、天罰はお姫様抱っこで抱える。
「それでは、参りましょうか」
エレベーターに乗り込むと、輝夜は一階と最上階のボタンを同時に押した。こうする事で、エレベーターは上では無く存在しない事になっている地下に向かう。
「天罰さん……本当に、ディザイアレスは起動するんですか?」
下降している間、居心地の悪い静寂を紛らわせる為に、輝夜が天罰に尋ねた。
「しますよ、絶対に」
天罰はほんの僅かに、口元の端を上げた。
**
デパートを後にした千歌は、歩きながらスマホを操作し、霧島清廉に電話を掛けた。
『取引、やっぱり今日にして欲しいんでしょう?』
こちらが一言喋る前に、清廉がこちらに聞いてきた。しかも図星。一瞬だけ呼吸が止まった。
「ど、どうしてそれを……」
『私を誰だと思ってるのかしら? 今の貴女がどんな状況にあるのかくらい、手に取るようにわかるのよ? ……そうね、二十三時に際公園に来なさい。そこで取引よ』
「わかりました……」
『……悔しいかしら?』
煽る様な清廉の問い。スマホを持つ手に、自然と力が入る。
「悔しいに、決まってるじゃないですか。私は今、最高に不機嫌です」
『……一つだけ聞くわ。雨宮雲雀とその妹を助けたら、貴女は間違い無く組織の上層部に知られてしまう。そうなったらどうなるか、わかっているわよね?』
「わかってますよ。……どうせ私は長くありませんし、誰に使われる事になっても構いません。それを喜んで受け入れます」
『そう……』
『貴女って本当に、自分の事が大嫌いなのね』
その言葉の後に聞こえたのは、終了を告げる虚しい電子音だった。
**
輝夜がマテリアル本部に来る少し前。
『戦場』による別空間で千歌と戦闘を繰り広げていたエナは、時間切れによる強制解除と共に退去。自分の足で本部へと帰ってきた。
顔の右半分を失い、数秒毎に全身に電気を走らせているエナのその姿は、人間的に例えるなら、「とても痛々しかった」。
エレベーターを降りて、廊下をしばらく歩く。そして桃花と二人で使っている部屋に入った。
「おかえりなさ──っ⁉︎」
ベッドの上に座っていた桃花が、エナを見るなり表情を変え、焦燥しながら駆け寄って来た。
「だ、大丈夫ですかエナ‼︎」
右の頬に手を当てて、涙ぐみながら叫ぶ。痛覚を遮断しているので痛くないし死ぬ事も無いというのに、桃花は本気で自分の事を心配してくれる。機械では無く、一人の人間として。一人の娘として見てくれる。
エナはそれが、心底嬉しかった。
「ガガ、ガガガガ……」
「言語機能が壊れているんですね……待っててください、すぐに治してあげますから……」
桃花が目を瞑ると、エナの欠損した部位が一瞬で修復された。彼女の異能力で、失ったパーツを新しく作ったのだ。
「話せますか?」
「お……母、サマ?」
しっかりと話せる。桃花は安堵の息を漏らした。
「危ないところでした……壊れている範囲がもう少し広ければ、記憶機能も破壊されていましたよ。幾ら私でも、記憶は作れませんからね……」
「心配をかけて、ごめんなサイ」
「エナが謝る必要はありませんよ。貴女を一人で戦わせたのは、私なんですから」
そう言ってから桃花は、エナの唇に自分の唇を重ねた。エナはそれを拒むどころか受け入れ、舌を絡ませた。
矢弾桃花はエナを愛しているし、エナもまた桃花を愛している。その愛を確かめ合うために、接吻するのは何も不思議な事では無い。
この光景を見て「おかしい」と感じる人も少なからずは居るかもしれない。だが誰も、その愛を否定する権利は無い。二人の幸せを、糾弾する権利は何処にも無いのだ。
永遠にも感じられた数秒の後、口を離す。二人の間に、銀の橋が出来た。
「ふふ、ご馳走様でした」
身体を離してから、ベッドで横になった。エナも近くに寄る。
「……はぁ。それにしても裁川千歌さんには、後でたっぷりと礼をしないとですね」
「お母サマ。実は彼女の事で、分かった事がありマス」
「分かった事……なんですか?」
「彼女は何者かの手によって改造を施された、謂わば『合成獣』デス」
**
本部において、最も深い場所。関係者はそこを『深域』と呼称し、そこにディザイアレスの『核』。つまり雨宮瑠璃は幽閉されている。
無数の機械とコードによって出来た大樹──通称『セフィロトの樹』が、『深域』の中心に佇んでいる。そしてその中に、雨宮瑠璃は居た。
「なんとも悪趣味だな……」
見上げながら、茶道は顔を顰める。こんな気味の悪いモノに『セフィロトの樹』なんて名前を付けた人は、何を思ってそう名付けたのだろうか。
「貴女もそう思う?」
茶道の隣に居た女性が、尋ねる。
茶色い髪。耳にはピアスを嵌めていて、服装は黒いシャツにホットパンツ。その上に白衣を羽織っている。長身で、彼女と並んでいる茶道の小ささが、余計に際立った。
梅木沙知。組織に所属する研究員であり、『二十二の夜騎士』を従えている女性だ。
「セフィロトの樹っていう名前は、呼出家の現当主様が付けたのよ。この樹に成る果実を食らう事で、神に等しい存在になれる。異能力者を神に等しい存在と仮定するならば、確かにそのネーミングは可笑しくは無いわね」
「神に等しい存在ね……。異能力なんかじゃ、等しくはなれないと思うけどな」
「同感だわ」
その時エレベーターが着き、扉が開く。中から出て来たのは、月華輝夜と柊天罰だった。
「さ、茶道さん……⁉︎」
輝夜は見知った人物を見るや否や、目を見開いた。そして恐る恐る尋ねる。
「……もしかして貴女も?」
「ああ……。お前と同じだ」
扇子で顔の下を隠し、苦笑いする。
「……これじゃあ御船さんに、嫌われてしまいますね」
「仕方がないさ。私達にとって大事なのは、重音なんだから」
「……そうですね。彼女以上に大切なモノなんて、きっとありません」
天罰は抱えていた雲雀を、床の上にゆっくりと置いた。
それから、口を開く。
「梅木様。ディザイアレスの完成は、いつ頃に出来ますでしょうか?」
「貴女が望むなら、今からでも可能よ」
「なら、すぐにでも準備に取り掛かって下さい。……私はこれで」
踵を返し、天罰は開いたままのエレベーターに乗った。扉はゆっくりと閉まり、上昇を始めた。
沙知は白衣のポケットからスマホを取り出し、口元に添える。
「零式。本部内に居る全ての『二十二の夜騎士』に伝えて頂戴。これよりディザイアレスの発動、及び準備に入る。各自準備を進めなさい……とね」
『──了解』
スマホを戻す。両手を広げながら、セフィロトの樹を仰ぎ見た。
「これで……これでようやく叶うのね……。私の夢が。みんなの平和が‼︎」
『…………』
茶道も輝夜も、無言で機械の集合体を見つめる。
「ん、んん……」
そしてようやく、雨宮雲雀が目を覚ました。