十
マテリアル本部は、医療施設の他に沢山の施設が存在しており、関係者が『超小型都市』と呼んでいる程だ。
矢弾桃花によって捕えられた茶道は、本部にある収容施設に連れて来られていた。
収容施設は複数の部屋に分けられていて、茶道が入れられたのは一〇五。
他の部屋には、人身売買組織──『マンドラゴラ』から購入した、実験体のストックが居る。
室内にあるのは安価のパイプベッド一つに、簡易トイレ。窓は無い。脱走を防ぐ為に最新鋭の監視カメラが二台も取り付けられている。幸いにもエアコンがあるので気温に問題は無いが、それでも数日も居れば嫌になり、ここから出たくなるに違いない。
「まるで刑務所だな。何も悪い事をしていないのに、変な罪悪感が湧いてくる」
ベッドの上に寝転がりながら、何も無い天井をじっと見つめる。
御船の妹は、無事に逃げ切れたのだろうか。自分は殆ど時間を稼げなかったので、申し訳ない気持ちで一杯だ。
それでも、敵数を一人減らしたのだ。彼女の勇気は決して無駄では無い。
「無意味な復讐……ね」
あの時桃花の言っていた事を思い出す。
自分は、この組織にいつか復讐してやろうと考えた。愛する人を奪い、自分達から老いを奪ったこの組織を。
だが彼女を取り戻すには、この組織の力は必要不可欠。復讐しようにも、手が出せないでいた。そのもどかしさを少しでも和らげる為に、メイド喫茶を開き、平和な日常を過ごしていた。
しかし今日。裁川千歌が抱えた事情に関わった事で、忘れかけていたもどかしさを思い出してしまった。
「失礼します」
部屋の扉が開く。入ってきたのは、桃色の髪をしたメイドだった。
「桃花か。何の用だ?」
身を起こし、後ろ髪を掻き毟る。
「調子はどうですか。頭が痛いとかは、ありませんか?」
「別に。至って健康だよ」
「それは良かったです」
笑顔で言ってから、ベッドの上に腰を下ろす。パイプの耳障りな軋音がした。
「茶道さん。質問があります」
「なんだ」
「もし。もし重音さんを助け出す方法があると言ったら、貴女はまた組織に戻ってくれますか?」
「……なんだと?」
眉を顰める。桃花は彼女の反応を見てから、続けた。
「先程、お母さんから無理やり聞いたんです。組織が二十二の夜騎士を動かしてでも、雨宮雲雀を捕えたかった理由を」
「それと今の質問に、何の因果関係があるんだよ?」
「ディザイアレス」
その単語一つを耳にしただけで、茶道の背筋は一気に凍りついた。
「当然、知っていますよね? 欲望への返答という意味で、『欲望への返答』」
「…………勿論さ。この組織に居た以上、その名前を知らないのは下っ端か、相当な馬鹿くらいだぞ」
「ディザイアレスの完成は、この組織の最終目標です。それが完成した時、私達は勝利したと言ってもいいでしょう。
ここからはお母さんから聞いた話なのですが、つい最近、完成の目処が立ったんですよ」
「な、完成だと……⁉︎」
思わず叫ぶ。桃花は唇に人差し指を添え、「静かに」と小声で呟いた。
「……ディザイアレスを完成させるには、一人の少女を『核』とし、一人の少女を『鍵』とする。そして百人もの異能力者を生贄にする必要があります。組織はこれまで、『核』と『鍵』に相応しい素体を見つける事が出来ませんでした。ですかつい先日、偶然にも見つかったんですよ」
「まさか、それって……」
茶道には心当たりがあった。『核』と『鍵』が誰なのか、瞬時にわかってしまった。
「雨宮、雲雀か……‼︎」
「その通りです。雨宮雲雀は『鍵』。そして彼女の妹である雨宮瑠璃は『核』です」
「……なるほど。だから組織は彼女を追うのにお前達を使っているのか……でもそれほど大事な存在なら、簡単に脱走出来ない様にしていた筈だろ? どうして簡単に逃げられたんだよ」
息を吐きながら、首を横に振る桃花。
「それが、まだわからないんです。茶道さんの言う通り、組織は二人が絶対に逃げられないようにしていました。それなのに、何故か逃げられてしまいました。
本部に侵入者が入った痕跡はありませんし、組織内部に彼女の逃亡を手助けした人物が居るとしか、考えられません」
桃花は茶道の顔を見つめながら、手を取った。
「このごたごたが終われば、ディザイアレスが完成、起動します。そうすれば、別世界に飛ばされてしまった重音さんを助ける事が出来るし、貴女は失った老いを取り戻す事が出来る。……だから、組織に戻って来ませんか? 私は茶道さんや輝夜さんと、敵対したく無いんです」
「…………」
目を逸らす。彼女の提案は、茶道にとってあまりにも魅力的なものだ。
最初は嘘を疑ったが、桃花は平然と嘘を吐ける性格では無い事を知っている。
二人の少女と、百人の異能力者。それらを犠牲にするだけで、全ての願いを叶える事が出来る。自分には、一切のデメリットが存在しない。
誰かの犠牲によって成り立つ幸福はおかしい。そう思っていたし、今でもそう思っている。
けれど人間は、自分の望みの為ならば、容易く他者を蹴落とす残酷さを持っている。
頭に思い浮かぶのは、今日初めて出会った雨宮雲雀の顔。話したのは僅か数十分だったが、印象はとても良かった。機会があればもっと話したいとさえ思った。
そして次に。彼女が愛していた女性──安中重音の顔が浮かび上がった。
その天秤は、一瞬で傾く。
自らが抱く愛の為に、誰かの笑顔を。幸せを、踏み躙る決意をした。
「わかった。お前の言葉を信じよう……」
「……ありがとうございます、茶道さん」
結局のところ彼女は。老いを失い、異能力を持った裏世界の住人だとしても、所詮はただの人間なのだ。
**
ゆっくりと目を開く。その先に広がっていたのは白黒の世界では無く、慣れ親しんだ元の世界だった。周囲を沢山の人の声が、雑音の様に耳に届く。
立っている場所も、ビルの中では無く、歩道のど真ん中だった。
「どうやら……引き分けだった様ですね……」
つい先程まで、自分は確かに矢弾エナと交戦し、そして敗北寸前まで追いやられていた。
しかしそこで時間切れ。どうやら『運命』は、千歌に味方をしてくれたらしい。
「複雑な気分ですね……嬉しいような嬉しくないような……」
外した筈の包帯も眼帯も付いている。
ここで今更ながら、自分が人を背負っている事に気が付いた。
戦う前。飲食店に置いてきた雨宮雲雀が、自分の背中に居た。何故こうなっているのかはよくわからないが、手間が省けたので良しとした。
目指している研究所まで、ここから大体徒歩十分。今はめっきりと数を減らしてしまったデパート『ナカシマ』の、地下から入る事が出来る。三番街は地下街が多く、そういった施設も地下にある。穴を掘り過ぎて陥没してしまわないか心配だ。
一人を背負ったまま歩くというのは、他の人に比べてどうしても目立ってしまう。だからといってここで雲雀に起きてもらって、また「手術なんて嫌だ!」と言われても困る。
よく目を凝らさないと何も無いと錯覚してしまうくらいに透明な自動扉を潜り、店内に入る。今日は平日だというのに、客の数はそれなりにあった。
エスカレーターに乗り、地下に下りる。
地下には幾つかの飲食店がある。夕飯時までまだ一時間はあるので、人の姿はあまり無かった。
周囲を一度見渡してから、潰れて今は営業していない飲食店の中に、足を踏み入れる。
店内にはまだテーブルなどが置かれていて、埃一つ無いくらいに綺麗だった。まるで誰かが、毎日欠かさず掃除をしているみたいだ。
店の構造は、メイド喫茶『かさぶらんか』に少し似ている。
厨房に入り、奥にある扉を開けると、その先には道があった。灯りは無く、五歩先さえ、暗闇で見る事が出来ない。
その道を歩く事数分。突然道が、夜から朝になった様に明るく照らされた。
目前に、鉄製の扉が現れる。
扉の前まである程度近付くと明かりが点く。そういう作りになっているのだ。
そして明かりが点いてから一分経過するまでの間に、ある事をしなければ、扉は開かない。これも、そういう作りになっているのだ。
「月光に見惚れ、己の姿を改めよ」
呪文の様な言葉を呟くと、扉の向こうから解除音がして、おもむろに開かれた。
「──その声は、千歌さんですか?」
扉の先。薄暗い小さな部屋に居た女性は、回転チェアに腰掛け、コーヒーの入ったカップを片手に尋ねてきた。
緑を基調とした和服をその華奢な身に纏い、その上に白衣を纏った不自然極まりない格好。日本人形と同じくらい。いや、それ以上に美しい黒髪が、腰まで伸びている。
容姿は中学生くらいだが、年齢は茶道と同じ三十三。彼女も同じく、「老い」を失った一人だ。
月華輝夜。それがこの小さな研究所の、小さな主の名前。
「こんばんは、輝夜さん」
「珍しいですね、こんな所に来るなんて。しかも一人でなんて」
「はい。輝夜さんに用があったんです」
「私に?」
端にあるベッドに雲雀を寝かせる。
「彼女の体内に、発信機が埋め込まれているんです。輝夜さんには、それを取り戻して貰いたいんですよ」
輝夜はコーヒーをテーブルの上に置くと、お腹周りを締める帯に挟んでいた扇子を手に取り、開いた。それで顔の下半分を隠す。
「なるほど。ですが私に、一体何の利益があるんですか?」
「ある、と言いたいところなんですが、正直言って皆無に等しいんですよね……」
「そうと分かっていたなら、どうして来たんです? 私は千歌さんの様な、利益が無いどころか不利益しかないのに、それでも困っている人に手を差し伸べる『正義の味方』じゃないんですよ?」
「……信じているんですよ」
雲雀の寝顔を見据えながら、言葉は輝夜に向ける。
「信じる?」
「輝夜さんを」
優しい言葉は、その大半は人を励ます。
だが時に、人を責める事がある。優しいが故に、タチが悪い。
「…………ズルいですね」
微笑んでから、言葉を紡ぐ。
「わかりました。良いですよ、どうせ暇でしたから。それに利益が無いからと言って、それをやらない理由にはなりませんからね」
「……あ、ありがとうございます‼︎」
深々と頭を下げる。輝夜は赤くなった顔を、扇子で隠した。
**
「今から始めるので、千歌さんは向こうの部屋に居てください。見てていいものでも無いでしょうし」
ビニール手袋を嵌め、マスクを付けた輝夜が、千歌に言う。
「じゃあ、終わったら教えて下さい」
「わかりました」
輝夜の返答を聞いてから、千歌は寝室に入った。室内はとても殺風景で、女性の部屋とはあまり思えない。が、輝夜の性格を知っていれば何も、不思議には思わない。
「暇潰しに、何しましょうかね?」
独りでに呟いた。
「──さて……始めましょうか」
千歌が部屋に行ったのを確認してから、輝夜は自分に言い聞かせる様に呟いた。
テーブルに置いていた固定電話が鳴る。あまりにタイミングの悪い着信に輝夜は最初無視してやろうかと思ったが、結局出る事にした。手袋を一旦外し、マスクをずらす。
「もしもし、月華ですが」
『──久し振りですね、輝夜さん』
「ッ⁉︎」
表情が強張る。
その声は、『二十二の夜騎士』の一人。《女帝》の矢弾桃花によるものだった。




