一
彼女は、ある化物に恋をした。
そして彼女は、その化物を助けたいと思った。
だから──。
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日常とは、積み重ねられたジェンガの様に、ほんの些細な事で容易く崩れ去ってしまうものだ。
それはいつもと何ら変わりない。名前も知らない誰かが生まれ、知らない誰かが死んだ、ごく平凡で退屈な平日。
絶望的なまでに成績不振で、ほぼ毎日担任から特別補習を受けている裁川千歌は、その日も十八時まで担任と一対一の補習を終え、学校から徒歩十分の場所にある自宅まで歩いていた。
季節は秋。日が沈むのも大分早くなった。あと数週間もすれば、彼女の下校時間には太陽が地平線の彼方へと消え、完全な夜が訪れている事だろう。
明日も補習だ。そう考えるだけで、憂鬱な気分が心を満たす。星の見えない夜空が、マイナスな彼女の気分に追い打ちをかけていた。
道端に転がっていた石ころを蹴る。当然それに意味なんてものは無いが、何かに鬱憤を晴らさずにはいられなかった。
こうして補習を連日受ける羽目になったのは、こうなるとわかっておきながら、勉強をまるでしてこなかった自分の怠惰が原因だ。これに関しては、他の誰の所為にする事も出来ない。
しかし彼女がここまで怠惰になってしまったのは、彼女に振りまいた『運命』が原因と言えた。
左目を覆い隠す黒い眼帯に、包帯を隙間無く巻いた左手で触れる。そして、ため息を吐いた。
自販機の前で足を止めると、鞄から長財布を取り出す。温かい物を飲めば、身体は暖まるし、沈みきった心が晴れると思ったからだ。
この時期から徐々に自販機で見られ始めるコーンスープを購入し、それを両手で包み込むように持った。缶なので最初は熱いと感じたが、次第に慣れていった。
湯気を出す黄色い液体を口の中に流し込む。甘い香りが、鼻孔をくすぐった。
身体中が熱くなり、暗い気持ちも少し晴れた。
この温もりが冷めてしまう前に、家に帰ろう。スープを一気に飲み干して、ゴミ箱に投げ捨てる。この場に姉が居たら注意されるだろうが、今は居ないので気にしない。
石ころを蹴りながら、また歩を進める。薄暗い視界が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
「おや……?」
不意に、足を止める。
道路の隅。冷たい地面に尻をつき、電柱に背中を預けている一人の少女が視界に入った。目は閉じている。
近くまで来て、身を屈ませる。少女はまだ、千歌の存在に気付いていない様子だった。
紫がかった黒のセミロング。整った顔立ちをしていて、膝上まである薄汚れた白い服を纏っていた。
様子を見る限り、酒を飲んで酔っ払っているという訳では無いし、体調不良で倒れている訳でも無さそうだ。
「あの、もしもし?」
「…………」
声を掛けてみるが、反応は無い。顔の前で手を振ってみるが、結果は先程と変わらない。試しに脈を測ってみたが、少し早いものの正常に動いていた。
しかしまだ秋とは言え、夜間は結構冷える。こんなところで眠っていたら間違いなく風邪を引く。それにここ──転雨は昼こそ平和だが、夜になるとその限りでは無い。同性の千歌から見ても可憐な美少女なのだ。このまま放っておけば、悪意ある者によって忽ち何処かへ連れ去られてしまう事だろう。
裁川千歌は善人では無い。少なくとも、本人はそう思っている。
そしてここで見て見ぬ振りをする程の悪人でも無い。少なくとも、本人はそう思っている。
包帯を巻いた手で頭を抱え、息を吐いた。疲労の溜まった身体に鞭打って、名も知らない少女を背中に抱えた。
思わず「重い」と口にしてしまいそうになり、慌てて口を噤む。意識が無いとは言え、こういう事を女性に対して言うのは気が引けた。千歌だって、そんな事を言われたら嫌な気分になる。
**
千歌が住んでいるのは、新築の一軒家だ。姉が株で稼いでいて、この家はその金で建てたものだ。
転雨は東京程では無いものの、土地の値段がそれなりに高い。そこに建てられたものの見事な一軒家だ。値段は聞いていないが、かなり高いという事は千歌も分かっていた。
少女をおぶっているので玄関を開ける事が出来ない。なので、軽く扉を蹴った。
すると向こうから足音が聞こえ、少しずつ大きくなっていった。
解錠の音が二回してから、扉が開く。姿を見せたのは、一風変わった格好をした女性だった。
ウェーブのかかった長い髪を明るい金色に染めていて、その身に纏うのは黄色いラインの入った青色のチアガール衣装。布面積が非常に少なく、へそ出しでスカートの丈がやたらと短い。下にスパッツを履いているので、本人はあまり気にしていない様子。
それにこの服装だと、小さな動作をする度に揺れる豊満な胸が強調されて、同性であっても視線がそこへと無意識に向いてしまう。
彼女は裁川御船。千歌とは少し歳の離れた、実の姉だ。因みに背は、女子高生の平均である千歌よりも少し低い。
「おかえりなさい千歌ちゃん……って、ええええ⁉︎」
満面の笑みで妹を出迎えた御船は、千歌の背負っている見知らぬ少女を見た直後に驚愕し、口元を両手で覆い隠しながら叫んだ。
「千歌ちゃん……遂に誘拐犯に……⁉︎」
「違いますよ! ……事情は後で話すので、とりあえず運ぶのを手伝って下さい」
「わ、わかったわ……」
小さく頷き、千歌から少女を受け取る。
駆け足で廊下を進み、リビングのソファーに寝かせた。
「それで、この子は一体何者なの?」
「それは私にもわかりません……。ただ電柱に凭れかかって眠っていて危険だったので、こうして連れて来た……という訳です」
「なるほど。……千歌ちゃんの判断は正しいわ。こんな可愛い子、襲われない筈がありませんもの。断言できます! それでどうするの? この子」
「目を覚ましたら、事情を話して家まで送りますよ。……私はとりあえず着替えて来ますね。それまで、彼女を見ててくれませんか?」
「わかったわ」
リビングを後にする。階段を上り、二番目に前を通る扉のドアノブを回した。
部屋は整理整頓がきちんとされていて、住み易い環境になっていた。因みに隣の御船の部屋は、これとは真逆の環境だったりする。
鞄をベッドの上に置く。速やかに着替えを済ませ、立ち鏡の前に佇んだ。
そこに写る彼女は、やや派手な柄のシャツに白の短パンと、実に年頃の女性らしい格好していた。眼帯と包帯が、それを台無しにしてしまっている感は否めないが。
「────ッ‼︎」
階下から、聞き慣れない女性の悲鳴が聞こえてきた。
慌てて部屋を飛び出し、リビングへと向かう。
さっきまで眠っていた少女がリビングの隅で、身体を小さくして震えていた。目が覚めたら知らない場所に居たのでパニックに陥っている、といったところだろう。予想していた最悪の事態に比べれば大した事では無かったので、とりあえず胸を撫で下ろした。
「安心して。私達は誘拐犯じゃない。確かに貴女はとても可愛いけど、少なくとも私は千歌ちゃんにしか興味無いから」
御船が、少女に向けてそんな事を言う。千歌も御船の事が好きなので、ああ言ってくれるのは嬉しいのだが、その反面、恥ずかしくて顔がつい赤くなってしまう。
おもむろに顔を上げた少女が、信じられないと言わんばかりの顔をしながら、口を動かした。
「えっ……貴女達、組織の人間じゃないんですか……?」
「組織? ……ううん、全然違うけど」
「……本当……ですか?」
「本当よ。私、嘘は滅多に吐かないから」
「そう、なんですか……あの、ごめんなさい。突然叫んだりして……」
落ち着きを取り戻した少女が、頭を下げる。
「謝る必要は無いのよ? 目が覚めて知らない場所に居たら、誰だって驚いちゃうもの」
千歌は少女の前まで来て、しゃがみ込んだ。
「初めまして。私は裁川千歌と言います。向こうは姉の裁川御船です。貴女は?」
「雲雀……雨宮雲雀です」
「雨宮さん。貴女はどうして、あんな所で眠っていたんですか?」
「疲れていたんです……もう一歩も歩けないくらいにね……」
「なら、電話して親に連絡して迎えに来てもらえば良かったのでは?」
「居ないですよ、親なんて」
「えっ……」
予想していなかった答えに、戸惑いの声を漏らす千歌。
「いや、正確には何処に居るかわからない……と言うべきですね」
「あの。それは一体、どういう意味なんですか?」
「そのままの意味です。私は五年程前に母親に売られて、組織の実験体になっていたんです。だから今、親が何処に居るかなんて知らないんですよ」
「そうだったんですか……。あの、因みにさっきから出ている組織ってなんですか?」
千歌の質問に対し、雲雀は表情を曇らせながら、答えた。
「貴女は、『異能力』って知っていますか?」
「異能力……」
息を呑む千歌。組織という単語からなんとなく察してはいたが、実際に口にされると驚いてしまう。
異能力。漫画やアニメなどでも頻繁に見かける、人智を超えた特殊能力の事だ。人々はこれを存在しないフィクションの産物だと思うだろうが、実在している。この転雨という都市からすれば、珍しくも無いが。
「私が捕まっていた組織『マテリアル』は、その異能力に関する研究を行なっている組織なんです。私はそこから逃げて来ました。それで途中で力尽きて、あそこで眠ってしまったんです」
「姉さん、知ってますか?」
振り返り、背後に居る御船に視線を向ける。御船は首を縦に振った。
「ええ、知ってるわ。転雨を拠点に活動する、異能研究組織マテリアル。数え切れない程のイレギュラーが住むこの都市で、多分最も巨大な組織よ」
「……あ、貴女。どうして組織の事を知っているんですか? やっぱり仲間なんじゃ……」
「違いますよ。姉さんは単に、転雨の裏事情に詳しいだけです」
「流石に『黒姫』ちゃんには負けちゃうけどね」
「は、はあ……」
「……とりあえず、何か温かい物でも飲みますか? 身体はまだ冷えているでしょうし」
雲雀をとりあえずソファーに座らせ、ホットココアを出した。インスタントのものだが、味は中々だ。
息を吹きかけ、少しだけ冷ましてから一口飲んだ。そして一言。
「美味しい……」
「それは良かったです……。これまでの話を纏めますが、雨宮さんはマテリアルという組織に捕まっていましたが、最近なんとか逃げる事に成功。けれどその途中で力尽きてしまった……という事ですね?」
「はい、大体そんな感じです。……追っ手に見つかる前に貴女に見つけてもらったのは幸運でした。少し遅れたけど、お礼を言わせてください。ありがとうございます……」
ココアの入ったカップをテーブルに置いてから、深々と頭を下げた。
「……そんな恩人に言うのもなんですが、実な無理を承知で一つ頼みたい事があるんです。聞いてもらえますか?」
「いいですよ」
「その、私の妹を……まだ組織に捕らわれている妹を、助けてくれませんか?」
組織から妹を救う。それはつまり、その組織と対立するという事を意味していた。
「あの……警察、じゃ駄目なんですよね? 私達に頼むって事は」
その質問に、雲雀は小さく頷く。
「警察は多分、組織の息がかかってると思います」
千歌が御船の方へと向く。
二人に両親は居ない。なのでこの家での決定権は、姉の御船にある。
「私は別に構わないわよ? でも、千歌ちゃんは良いの? 残りの時間はなるべく平和に過ごしたいって言ってたのに……」
「確かにそう言いましたけど……それでも、困っている人を自分の都合で見捨てるなんて事、出来ませんよ……」
自分は善人でも無ければ、悪人でも無い。彼女自身はそう思っているが、実際は違う。
彼女はどうしようもないくらいに、お人良しなのだ。
「……わかりました。貴女のその頼み、引き受けましょう」
「本当ですか⁉︎」
まさか引き受けてくれるとは思えなかった雲雀は、素っ頓狂な声を上げる。
「はい、本当です」
「あ、ありがとうございます……‼︎ でも、本当に大丈夫……なんですか? 相手はかなり巨大な組織なんですよ?」
「心配する必要はありませんよ。姉さんはともかく、私は普通の人間ではありませんから」
「普通の人間じゃない? 貴女は一体……」
「その事については、ごめんなさい。何も教えられないんです。……でもこれだけは言えます。私達は今から、貴女の味方です」
「……裁川さん」
「私の事は、千歌で良いですよ。私も貴女の事を雲雀と呼びますから……あと、敬語も要らないです」
「わかり──ううん、わかったわ」
敬語を使いそうになったところで首を横に振り、本来の口調に戻した。
「じゃあ、千歌さん……改めて言わせて。ありがとう」
雲雀から告げられた感謝の言葉に、千歌は思わず頬を緩めた。
「どういたしまして」
一章完結までは、投稿が早いです。