日常の果てに生まれる非日常⑩
降り積もったばかりの新雪の様に白い華恵の肌。
そこにはっきりと残る傷痕は、まるで雪の上に舞い落ちた一片の紅い椿の花弁の様に鮮やかにーー痛々しく、且つ、どこか毒々しく、見る者の目を惹き付ける。
華恵は、とても愛おしそうに右腕にあの薄汚れた犬のぬいぐるみを抱くと、反対側の手で傷痕に触れながら呟いた。
「ねぇ、こんなの不公平だと思いません?お祖母様も、エンガルも、本当はもっと生きたかった筈なんです」
『コンナノ フコウヘイジャナイ
ナゼ ワタシガ シナナケレバナラナイノ』
まるでテレビの二か国語の放送を見ている時の様に、華恵の声に重なる様に別の誰かの声が、同時に光流の頭に響く。
幼くも毒と害意を秘めたこの声は、声の主の姿こそ見えないけれど、間違いなく先程光流に『サワルナ』と告げたあの声の主が発したものに相違ないだろう。
声が秘める悪意から楓を遠ざける様に、彼女の前に立つ光流。
楓も事態と友人の異常に気付いたのか、やや青い顔をしながら光流の後ろでじっと大人しくしている。
すると、華恵はそんな二人に視線を合わせ、暫しじっと見詰めるとーー不意に満面の笑みを浮かべ、まるで『閃いた!』とでもいう様に胸元で両手をぽんっと打ち合わせた。
「そうだ!ね、光流くん?楓ちゃん?お祖母様とエンガルの為に、その体くれませんか?」
朗らかな笑顔とはかけ離れた凶悪な台詞に、暫しその意図が掴めず光流と楓はぽかんと華恵を見詰める。
だが、華恵の言葉が含んだ真の意図を理解した瞬間、二人共色を失うと同時に、彼女から出来るだけ距離を取る様じりじりと後退を開始した。
すると、華恵は何故二人が逃げようとするのか分からないとでも言う様に、酷く愛らしい仕草で小首を傾げると、口許に人差し指を添え、何やら考え事を始める。
「おかしいですねぇ。楓ちゃんは兎も角、光流くんは何で逃げるのでしょう?」
光流は、緊急時だというのに、心の中で(いやそりゃ逃げるに決まってるだろ!)とつい突っ込む。
げに恐ろしきかな、人間の習性は。
ともあれ、何とか事態を打開出来る策はないものか・・・あれやこれやと思考を巡らせていた光流はあることを思い出す。
そうして、光流はそれを華恵ーーいや、華恵の姿をした何かに気取られない様、敢えて前を向いて彼女を見据えたまま、背後の楓に声をかける。
「・・・なぁ、楓?お前、今玲さんの名刺持ってっか?」
その言葉に、楓ははっと表情を変えると小さく頷いた。
ちなみに、残念ながら光流が貰った名刺は教室の椅子にかけてあるブレザーのポケットに入ったままだ。
だからこそ、楓がそれを持っている可能性に賭けた訳だが。
しかし、それにしても、いつの間にこんなに密着していたのだろう。
楓の頷いた瞬間の頭の感触が楓が、彼女がぎゅっと掴んだ腕越しに伝わってくる。
痛い位に強く掴まれた光流の右腕。
恐らく、その握る力の強さに、制服の下の肌は赤くなっていることだろう。
しかし、今の光流にとってはその痛みと温もりこそが却って有り難く、心強い。
何故なら、彼女の温もりを感じることで、光流は
『自分は一人じゃない。自分の後ろには大切な家族がーー護らなければならない者がいる』
そう、思うことが出来るのだ。
そして、その気持ちが、今にも震えて足から崩れ落ちそうな光流自身を強くし、支えてくれているのである。
「・・・スマホ、あるか?」
光流のその言葉に、楓は再度小さく、しかし力強く頷く。
それに、光流も頷いて返す。
すると、光流の意図を汲んだ楓は、華恵の視界から逃れる様に、そっと・・・怯えて隠れる様な素振りを見せながら、光流の真後ろ、その背中へと姿を隠す。
そこで、楓は制服の胸ポケットからスマホと名刺を取り出すと、ナンバーキーをタップし始めた。
ちなみに、楓のスマホは一切操作音はしない。
実は、楓の携帯は、授業中に教師達にバレずに触れる様、既にサイレントになっていたのだ。
そんな、スマホ操作はお手の物の楓のことである。
恐らくはあと少しで玲に繋がるだろう。
そうすれば、きっと如何にかーーーー
そう、胸の中に希望の火を灯し始めた光流の目の前で、不意に華恵が肩を揺らし、くつくつと笑い始めた。
「・・・なんだ?」
その不気味な様相に、警戒からか光流は身を固くし、片腕を楓を護る様に伸ばす。
そして、怪しい動作や・・・縦しんば隙が生まれたならばその隙すらも、何一つ見逃したりしない様、光流はじっと華恵を見据えた。
するとーーーー
「な、んだ・・・あれ・・・?」
まるで海にうまれる渦潮の様な、漆黒の渦が華恵の頭の直ぐ上に生じ始めたではないか。
光流としてはかなり不本意ではあるが、しかし、先程までの華恵とのやり取りは、ともすればヤンデレな女子生徒とそれに絡まれた哀れな男子生徒とその彼女のラブコメ的会話に見えなくもない。
だが、流石に今のこの状況は非常事態だ。
廊下の真ん中に漆黒のブラックホール擬きが表れる等即校庭に避難になってもおかしくはない。
しかし
「嘘・・・どうして・・・?」
余りの驚きに楓が表情を強張らせる。
何故ならば
「皆、気付いてないのか・・・?」
そうーー周りの生徒達は三人がいる廊下を通っているにも関わらず、一向にブラックホールに見向きもせず、三人の横を素通りしていくのだ。
まるで、それが見えていないかの様に。
それどころか
「あ、ぶつかるっ・・・!」
「人が、すり抜けた・・・?嘘だろ・・・」
一体何時からこうなっていたのか。
三人が空気になったかの如く、その場を通る者達は皆、三人の体や床に置いたままになっている荷物をすり抜けていくのだ。