日常の果てに生まれる非日常⑨
「あっ・・・。徳永、大丈夫か?」
ぶつかった拍子によろめく華恵を慌てて支えようと手を伸ばす光流。
しかし、華恵はそんな光流を穏やかな仕草で制しながら、
「はい、私のことならばお気遣いなく。今のは完全に私の不注意ですから」
と、告げるとぶつかった相手に向き直り、「本当にすみませんでした」と頭を下げた。
余所見やお喋りに夢中になっていて廊下で生徒同士がぶつかってしまうことは多々ある為か、或いは華恵の誠実な態度が良かったのか。
相手の女生徒は「別に良いよ、今度は気を付けてね」と笑って手を振り光流達とは反対の方向に去っていく。
それを見届けると、楓は少しだけオーバーな仕草で、華恵と比べると平らに程近い胸を撫でながら「あー、変な人じゃなくて良かったね」と口にする。
その余りな言い種に、光流としては、
(いや、今のは如何見ても余所見して歩いてた僕達が全面的に悪いだろ)
と思うが、此所で迂闊に突っ込んで当り散らされても正直迷惑なので、敢えて口には出さず、胸の中にしまっておくことにした。
既に疲労のピークを迎えてしまっている光流としては、これ以上精神的・肉体的労力を消費させられる厄介事は出来る限り避けて通ろうと決め込んだらしい。
と、光流の隣にいた楓が不意に屈み込む。
華恵が先程ビニールバッグから落とした物を拾ってやるつもりなのだろう。
勿論、それはクラスメート兼友人としては至極当然な行為の為、光流も楓と同じ様に屈むと、丁度目の前に落ちていた、薄汚れた茶色い何かに手を伸ばす。
先刻は気付かなかったが、その茶色い物体は、かなり年季の入った犬のぬいぐるみの様だ。
それを見て、人には、成長しても決して捨てることが出来ない『子供の頃の思い出の品』を肌身離さず持ち歩く者がいる、と以前テレビ番組で聞いたことを思い出す光流。
あのテレビ番組では、そういった状態や品物のことを『安心毛布』と呼んでいた様な。
そこまで思い出すと、光流は
(何時も無邪気に振る舞っている様に見える徳永にも、意外と繊細な所があるんだなぁ)
と一人妙に納得する。
(差し詰め、これが徳永にとっての安心毛布ってところか)
胸中でそう呟きながら、ぬいぐるみの前足にあたる部分をむんずと握る光流。
すると
『サワルナ』
吉乃のものとは明らかに違う、幼い少女の声が光流の頭に直接強く響く。
しかも、今回のは先程までの吉乃のものとはかなり違い、言葉から敵意が溢れだしている。
それと同時に
「・・・・・・っ??!!」
まるで金属片でガラスの板を滅茶苦茶に引っ掻いたかの様な耳障りで不愉快この上ない音が光流の脳内に、強く木霊する。
その余りの不快感と、耐えきれない音の奔流に、光流は思わずその場に膝をついた。
そうして、無駄だとは理解しているがそれでも堪らず両手で耳を塞ぐ。
瞬間、光流の手から落ちる犬のぬいぐるみ。
と、同時に
「消え、た・・・?」
光流を襲っていた謎の音も綺麗に聞こえなくなる。
と、屈んで徐にぬいぐるみに手を伸ばしながら、華恵が光流ににっこりと微笑み、告げた。
「もう・・・エンガルを落とすなんて、酷い人ですねぇ。光流くんは」
その言葉とーー何より、その笑顔の奥の一切輝きのない、濁り切った澱の様な華恵の眼差しに、光流は一瞬で恐怖を覚える。
(何時もの徳永じゃねぇ・・・)
何時からこうだったのか。
或いは前からこうなのを隠していたのか。
何が切っ掛けで、如何してこうなったのか等今の光流に思い返す余裕はないが。
これだけは確実にわかる。
今の華恵は明らかに普通の、何時もの華恵ではない。
しかし、床に落ちた華恵の他の荷物を拾う為、華恵の後ろにいた楓はそんな華恵の豹変に一切気付かず
「ちょっと、光流くん、何してるの!私達友達なんだから、手伝ってあげなきゃ!」
そう言いながら、床に落ちた時についたのであろう、犬のぬいぐるみの埃やゴミを払ってやろうと手を伸ばす。
「駄目だっ!!」
思わず鋭くそう叫ぶと、楓の腕を掴み、ぬいぐるみに触れるのを阻止する光流。
「えっ?ちょっと、行きなり如何したの?」
状況が全く理解出来ていない楓は、若干不満そうな表情で光流を見上げて来る。
だが、光流の表情が余りに・・・今まで見たことがない位鬼気迫るものであった為か、口に出しかけていた文句を飲み込むと、渋々引き下がった。
「あら、楓ちゃんまで、エンガルを見捨てるんですかぁ・・・?お二人とも、本当に酷い人達ですねぇ・・・」
虚な、光の一切宿らない瞳でそう言うと、何がおかしいのか、口許に手を当てくすくす笑い出す華恵。
血の気の引いた青ざめた表情でそんな華恵を見つめながら、光流はあることを思い出していた。
(エンガル・・・そう言えば、前に徳永から聞いたことがあるな・・・)
楓が覚えているかは定かではないが、光流はエンガルという名前に聞き覚えがある。
それは
(確か、あの事故で死んだ犬の名前じゃなかったか・・・・・・)
そうーー実は奇しくも一年前、光流と家族が交通事故に遇ったあの日、あの時、全く同じ時刻に全く違う場所で華恵も酷い交通事故に遇い、祖母と・・・彼女を庇った愛犬を亡くしているのだ。
その、彼女を身を挺して庇った犬の名前こそが
「・・・エンガル」
華恵の事故やエンガルについて思い至った光流が、ぼそりと小さく口に出す。
すると、それが聞こえたのか、華恵はゆっくりと口許に形の良い三日月を描き、にたりと笑みを浮かべた。
開け放たれたままの廊下の窓から冷たい風が吹き抜け、華恵の柔らかで長い髪を揺らしていく。
その刹那ーー風で前髪が靡いた瞬間、光流は確かに見た。
華恵のその額に、未だくっきりと真紅の大きな傷跡が残されているのを。