夢見る生贄(ひつじ)の視る現実(ゆめ)は⑥
「おっまたせー!」
早食い選手権も真っ青な驚異的なスピードで朝食を完食した楓が、未だ反芻中の山羊の様に口をもごもごさせている光流の襟首を掴み、半ば引き摺る様にしてアパートのフローリングの廊下を駆け抜け玄関に駆け付ける。
扉の上部に取り付けられた美しいステンドグラスを通して、朝の陽の光がまるでプリズムの様に様々な色を伴って降り注ぐ其処には、
「そんな、待ってなんていないですよ。楓ちゃん」
そう告げると、二人に向かって優しく、まるで麗らかな仲春の陽射しの様に柔らかな微笑みを浮かべる、愛くるしい美少女がいた。
この穏やかな春の風の様な雰囲気を湛えた少女こそ、先程光流達三人が話していた渦中の人物、『華恵・クリスティーン・徳永・ステュアート』だ。
彼女は先刻達郎が話していた様に、光流と楓のクラスメートでもある。
そして、教室内の座席も光流を挟んで三人共横一列に並んでいる為、掃除当番や遠足、体育祭等で何か班を作る際には三人共同じ班になることが多く、必然的に会話をする機会も増え、今では週に2、3回はこうして、朝三人一緒に登校する程の仲になったという訳なのだ。
最も、光流は若干・・・いや、かなり、強引に楓に付き合わされている節もあるのだが。
しかし、それは無理もない。
諸君、想像してみて欲しい。
女子が二人、仲睦まじくお喋りをしながら、たまには手を繋いだり、じゃれあったりしながら登校しているその中に全てを諦めきって悟りの境地にでも辿り着いた様な、埴輪か土偶の様に遠く虚ろな目をした男子が一人混ざっているのである。
かなり強烈な違和感を感じはしないだろうか。
とは言え、光流には楓に逆らう気等毛頭ない・・というかアパートに入居してから現在までに渡る数々の苦いーたまに痛いー敗北の歴史から既にもう諦めの境地に達してしまっている訳で。
例え、一緒に登校している姿を誰かに見られて囃し立てられようと、学園一の美少女である華恵のファンから大量に不幸や呪いの手紙を送り付けられようと、最早既に慣れっこなのである。
(それに、楓の全力の腹パン程痛いもんはないしなぁ)
要するに、茶化されたり嫌がらせを受けるのは嫌だ、けれども、生命の危険を伴う攻撃ー超物理ーよりは良い、という心境なのだ。
と、そんな光流の、今度は襟首ではなく前で結んだネクタイが強く引っ張られる。
「ぐぇっ」
若干締まる首に思わず悲鳴をあげる光流。
昨夜の夢の中の出来事が鮮明に脳裏にフラッシュバックする。
やや青ざめ始めた光流の様子に気付いているのかいないのか、楓は何時もの明るく、しかし強い口調で言った。
「何ぼーっとしてるの。ほら、早くいくよ!」
楓は光流のネクタイをまるで馬の手綱の如く握ったまま、片手でドアを押し開けた。
目の前に溢れる、眩しい位の陽光。
今日は雲一つない快晴らしい。
冬の空気は澄み渡っていて、かなり遠くまで見渡せる。
特にこの高台にあるアパートからだと富士山も遠く、正面に見えることがあるのだ。
だからこそ、この坂は富士見坂とも呼ばれている訳だが。
と、楓の隣にいた華恵が残念そうな声で呟いた。
「あーあ。今日は笠がかかっちゃってますね~」
言われて光流も、光流のネクタイを握っていた楓も思わずその手を緩め、富士山の方向を見てみる。
其処には確かに、山頂の一番良い部分に笠の様に雲がかかってしまっている富士山の姿があった。
生憎、此方が快晴でもあちらの天気は違うらしい。
まぁ、当然と言えば当然か。
楓もやや残念そうに「そうだねぇ」というと、しかし、直ぐにまた溌剌とした笑顔に戻り「ま、明日晴れたら良いよね!」と告げる。
華恵もまた、その豊かな、腰まであろうかという長く伸びた、綿の様にふわふわとした柔らかそうなストロベリーブロンドの髪を冬の風に揺らし、1000万分の一の確率とも言われる、まるで紫の薔薇の花をそのまま閉じ込めたかの様な紫の瞳を優しく細め、楓の言葉に小さく微笑むと、「そうですね」と呟いた。
そして、戸締まり等をする為に残った達郎に元気よく「行ってきます」と告げると、光流達は穏やかな陽光を全身に浴びながら、上野にある学園へ向けて歩き始めた。
ーーーー其処で惨劇が、まるで一度堕ちたら二度とは這い上がれない、恐怖と悲しみで満ちた奈落へと誘う闇の様に、口を開けて待っているとも知らずに。