東京の冬
その昔、パリにボリス・ヴィアンというマルチ・タレントがいたんです。
トランペット奏者でもあり、フランスへのジャズの普及にひと役かっていたようです。
私には、ヴィアンはデカダンでスノッブなイメージがあります。
この掌篇では、そんなヴィアンの作品名を、なるべくたくさんちりばめてみました。
ヴィアンの人生に関係している事象もスパイス的に入れました。
東京にも、冬にも、関係ないです。
ドアを開けると、そこにボリス・ヴィアンがいた。
愛用のトランペットをしまうところだった。
ヴィアンは椅子に座っていた。
「今日はもう吹かないぜ」
心臓が抜かれそうに痛いからな、ヴィアンは言った。
「さっきまでダリウス・ミヨーがいたんだけどな。紹介してやれなくて残念だ」
「ミヨーなら、オレも会ってみたかった。もっと早く来ればよかったか」
オレは言った。
愛用のトランペットをクロスで拭きながら、ヴィアンが言った。
「そろそろ違う楽器も試したい。テナー・サックスに興味ありだ」
「テナーをやるなら、ヤスアキ・シミズの『北京の秋』というアルバムが最高にかっこいいぞ」
オレはヴィアンに教えてやった。
「どこかで聞いたことのあるタイトルだ」
ヴィアンは言った。
「そう言えば、北京には、赤い草が生えているらしいぜ」
ヴィアンはトランペット・ケースの蓋を閉じた。
「ちょっと歩いてみるか」
ヴィアンのあとについて、オレは階段を上がった。
外に出た。
深夜のパリは不思議なことにまったく人がいなかった。街中が寝静まっているようだった。
すると突然、裸の女性の一群が嬌声を出しながらヴィアンに近づいてきた。
「冗談じゃない。逃げるぞ」
ヴィアンは走り出した。仕方ないのでオレも走ってついていく。
「彼女たちには判らないんだ」
ヴィアンは言った。息が切れそうだった。
「つらそうだぞ。もうまいたようだから、少し休もうぜ」
「そうか・・・」
ヴィアンは心臓が弱かった。
「あんなに騒いだら、安らかに寝ている奴らもみんな起きちまうよ」
ヴィアンらしい言い回しだと思った。
「アンダンの騒乱じゃねえんだから、もう少し静かにしやがれってんだ」
すると、ヴィアンは右胸を右手で押さえてしゃがみ込んだ。
「おい、心臓なら左胸だぞ」
「おっと、そうだった」
ヴィアンは左胸を左手で押さえた。とぼけたヤツだ。
「最近、忘れっぽくていけねえ。まだ39だっていうのに。まだオレはくたばりたくないってんだ」
そのまま少し休んだあと、ヴィアンはまた歩きだした。少し先に墓地が見えてきた。
「40になる前に、死んじまうつもりなんだけどな」
「物騒なこと言うんじゃねえよ」
「もしオレがくたばっちまったら」
ヴィアンは言った。
「この墓地のどこかに埋めてくれ」
「なんでオレが?」
「おまえだっていつかくたばる。おまえが先なら、オレが埋めてやる」
「そうか。そういうことなら引き受けてやるよ」
「おまえもオレも、死の色はみな同じなんだぞ」
ヴィアンは何か思うところがあるようだった。
「オレが先になったら、オレの墓に唾をかけろ」
「いくらオレたちの仲だって、そんなことはお断りだ」
「何言ってんだ」
ヴィアンは少し怒ったようだった。
「おまえがそうしてくれれば、オレは人狼になって蘇れるんだ」
「へえ。それは面白そうだな。乗ってやるぜ」
「あの世からのみやげに、メドゥーサの首でもとってきて、おまえにやるよ」
「そんなものいらねえよ」
オレたちはまだしばらく歩いた。
「クロエのことなんだが」
ヴィアンは言った。
「もう危ないらしいんだ」
「だったらこんなところで悠長に歩いてる場合じゃねえだろが」
ヴィアンは薄ら笑いを浮かべて、こういった。
「肺の中に睡蓮の蕾ができたんだ。現代医学じゃお手上げさ。オレにはどうすることもできやしない」
確かに、そんな病気は聞いたこともない。
「ジャン=ソオル・パルトルの著書にも書いてあるぜ」
「何がだ?」
「うたかたの日々はもう終わり、だってよ」
目の前に開いたドアがあった。
「じゃあな」
ヴィアンは目を閉じて片手をあげた。そのまま来た道を戻っていった。
もう片方の手は、トランペット・ケースを大事そうに抱えていた。
オレは昔ヴィアンから聞いた言葉を思い出していた。
「北京にも、秋にも、関係ねえよ」
ヴィアンはそううそぶいていた。
だからヤスアキ・シミズのアルバムを教えてやったのに。
オレは思っていた。
オレはドアを閉じた。
ヴィアンは39歳でなくなりました。40歳までに死ぬ、と言ってたらしいです。
使ったヴィアン作品は以下のものです。
心臓抜き
北京の秋
赤い草
彼女たちにはわからない
アンダンの騒乱
ぼくはくたばりたくない
死の色はみな同じ
墓に唾をかけろ
人狼
メドゥーサの首
うたかたの日々
活動報告も、是非ご覧下さい。