1話 俺と幽霊
怪奇現象なんてフィクションだけが取り扱うものだと思っていたけど、こうも自分の前に現れてしまったら否定することなんてできない。あるいはこれは俺だけがみている幻覚で、俺の頭がおかしくなったのかもしれないが、自分の判断で「俺の頭がおかしくなった」なんて決断は下したくない。
そして怪奇現象の話は他人に話しづらい代物だ。友達なんかに「昨日UFOみたんだぜー」だとか「俺って河童に会ったことあるんだよね」なんて言ったら電波系と揶揄されること間違いなしだ。
だから言えないけど・・・けど声を大にして言いたいことがある。それは・・・「幽霊は本当にいるんだぜ!」
・・・自分で言ってもおかしい気がする。実際に昨日までの俺ですら幽霊の存在を疑っていた。だけど本当にいるんだ。何故なら俺の部屋には幽霊がいるからだ。
学生服を着た女子校生幽霊が俺の眼前にいる!
カーテンの隙間からほのかに陽光が部屋の中へと差し込んできている。日差しは暖かく、「もう朝ですよ」と言いながら俺の身をやさしくゆすっているようだった。いつも通りの平凡な朝を象徴するように小鳥のさえずりがどこからか聴こえる。
両手の人差し指で両目を擦り、覚醒を促す。目がぱっちり開いたところで、目線を時計へと移す。8時ちょうどだ。今日もいつもと同じ時間に起床した。
日差しこそ暖かいもののまだ4月の上旬の朝だ。朝はまだ気温が低く、少々肌寒いから布団から出るのに少し抵抗があったが、もう8時だからしょうがなく布団から出ることにする。一度大きく伸びをして体全体に朝だと告げる。思わず「ふぅあ~」と気だるい声が漏れてしまう。
のっそのっそとゾンビのような動きをして、覚醒直後の気だるい体を使い、冷蔵庫の前へと向かう。
冷蔵庫を開けて、中になにがあるかを物色する。おっ、ハムがあるな・・・。冷蔵庫からハムとマーガリンを取り出す。食パンにマーガリンをまんべんなく伸ばしていき、その上にハムを一枚乗せる。
インスタントコーヒーを作り、パンとコーヒーという簡単な朝食を摂る。テレビをつけて朝の情報番組をチェックする。朝の情報番組もこれといった大きなニュースがないようで、和やかに進んでいく。
朝の情報番組を見ることで、世間を賑わせているものごとが分かるし、トレンドなんかも分かる。最近はインターネットの普及によって、情報の取捨選択ができる世の中になった。その結果、偏った情報しか持たない人もいるけど、俺は朝の情報番組をみて、各分野からまんべんなく情報を手に入れている。
『今日は映画公開日ということで、特別ゲストに主役を務めました、俳優の渡瀬良二さんをお招きしています』
テレビの中の20代後半ほどの女性アナウンサーがニッコリとした顔で、元気よく渡瀬という俳優を紹介する。渡瀬という俳優は、髭の生えた高身長のダンディーな30代後半ほどの俳優だ。きっちりとグレーのスーツを着こなしていて、主婦層に絶大な人気がありそうな感じが見て取れる。
『本日公開のゴースト、いったいどのような映画なのでしょうか?』
女性アナウンサーが渡瀬に対して質問をする。女性アナウンサーは常にニコニコしている。見ている人を元気にさせる。朝の番組にはピッタリな女性アナウンサーだ。
『アパートで独り暮らしをしていた男の部屋に幽霊が現れて、その男と幽霊の戦いを描いた物語になっています。そのアパートで独り暮らしをしている男が主人公の新永で、私がその新永役を演じています』
へぇ・・・あんまりおもしろくなさそうな映画だな。幽霊と戦うって・・・。幽霊なんて出てきても怖くないでしょ。それならよっぽど生きた人間の方が怖いわ。そもそも俺は幽霊の存在を疑っているからな。だって一回も見たことないし、たまにテレビとかで心霊映像や心霊写真なんかの特集をやっているけど、ああいうのを見させられてもなんとも思わない。一回テレビで幽霊が出て、インタビューとか答えてくれるなら信じてもいいけど。
朝食を食べ終えて、食器を片付ける。朝はやらなければいけないことが多い。朝食を食べ終わってからまずは歯を磨く。そして顔を洗う。あとはちょっと髪を整えて、髭を剃る。寝間着からその辺に置いてあった白いパーカーと暗いブルーのジーンズへと着替える。まだ少し気温が低いから下着だけになると寒い。着替え終わったら、学校で使うものを鞄に詰め込んで家を出る支度をすべて済ませる。
テレビでは占いコーナーをやっていた。おそらく占いコーナーで興味を持たない人はいないだろう。「占いなんて当たらねーよ」なんて思っている人でも、テレビで占いをやっていたら少し気になってしまうはずだ。
『今日一番運勢の悪い運勢の方は、牡羊座のあなたです・・・』
女性アナウンサーが申し訳なさそうに紹介する。牡羊座って・・・俺じゃねーか。
「牡羊座のあなたは、あり得ないと思っていた出来事が現実で起きるかも・・・今日一日お気をつけて!」
あり得ない出来事が現実で起こるか・・・しかも最下位ってことはマイナス的なことだよな。まあテレビの占いなんてどうせ当たらねえよ。適当にサイコロを転がして決めてるんだぜ、多分。
テレビや照明を消して、8時30分にはアパートを出る。今日は快晴の空が広がっていた。日中は気温も5月上旬並みになるらしい。
自転車に乗り、通っている専門学校へと向かう。9時の授業開始に間に合うように8時50分には学校に着いておきたい。いつもと同じ8時30分なら大丈夫だろう。
自転車の重いペダルを漕いで、いやいやながら学校へと向かう。学校のことを考えるのも嫌だし、なにか別のことを考えよう。
とっさに出てきたのは、さっきのテレビの占いのことだった。あり得ない出来事が現実で起きると言われても皆目見当がつかない。おそらく全国のあの占いをみた牡羊座の人も、こんな悶々とした気持ちなんだろうな。あんまり変なことが起きませんようにと思いながら学校へと向かう。
桜が散って、地面にピンク色のじゅうたんが完成する4月の上旬。俺はこの春から専門学校の2年生になった。俺の通う科は2年制だから、あと1年間学生生活を楽しむことができる。逆に言えば俺の青春の猶予は残り1年で、それからは社畜生活が待っているということだ。
学生用玄関から学校に入り、階段を上がっていく。3階にある教室に入って、自分の席へ座る
「おはよう」
「はよー」
隣の席の男と軽い挨拶を交わす。この科は男ばかりで女の子なんて全然いない。右を見ても左を見ても男だ。
「なあ一瀬、知ってるか?後藤のやつ、もう内定もらったんだってよ」
隣の男、武田が話題を振ってくれた。後藤が内定か。どうでもいい話題だなぁ・・・就職活動の話なんてしたくないんだけど。まあ振られた話題だし、ちゃんと言葉は返しておこう。
「内定って4月で出せるのか?8月から解禁みたいな話じゃなかったっけ?」
「そんなことはないみたいだな。事実上の内定ってのを企業があらかじめ出しているみたいだ。それで正式な手続きを8月以降に行う。そういうシステムらしい。後藤は「就活は後に回しておくほど面倒くさくなるから速攻で決めて、あとは遊んだ方が楽できるよ」なんて嫌味ったらしく言ってたわ」
後藤が言ったという言葉が自分の心にグサッと突き刺さった気がした。もう2年生だから今年中には就職先を決めなければいけないんだけど、俺はまだなにもしていない。
だってやりたいこともないし、得意なこともない。おまけに働きたいという労働意欲すらない。そんな俺が就職なんてできるのだろうか?高校を卒業してすぐ働くというビジョンが見えなかったからとりあえず専門学校に来たけど、俺が来年の今頃はどこかしらの会社に勤めているなんていうビジョンも見えない。
専門学校ではパソコンを使って設計を支援するソフトの勉強をしている。パソコンは私生活でもよく使うから、パソコンを使う業務ならなんとかなるかもと思って進路をこの学校に決めた。だけど思いのほか苦戦している。なぜなら、私生活でパソコンを使うと言ってもやることなんてネットサーフィンとネットゲームくらいだ。16進数ってなんだよ?それ覚える必要あるのか?
16時までいつも通り退屈な授業を受けた。1日中パソコンとにらめっこをしなければいけないから目がものすごく疲れる。機械設計を勉強しているから頭も使う。目と頭、両方を酷使している。非常に健康に悪いような気がしてならない。
放課後は友達とカラオケやパチンコなんかに行ったりすることもあるけど、今日は金曜日だから1週間の疲れをとるために早く帰ろう。
帰り際にアパートの近くにあるコンビニにいつも通り寄る。今日の夕飯の弁当と缶チューハイとエロ漫画を購入するためだ。最初はエロ漫画を買うことに抵抗があったけど、何回も買っているうちにいろいろな心を失ってしまった。今ではバイトの女子校生に対して、エロ漫画の表紙を見せつけるようにしてレジに置く。その背徳感がたまらないのである。仕事だと割り切ってドライな対応をする子や、顔を紅潮させてビックリする子、いろんな子がいるもんだ。
コンビニから出ると、俺の目にはオレンジ色の空が飛び込んできた。朝は東にあった太陽が今は西に沈んでいく。夕日が街をオレンジ色に染めていく。
昔は夕焼け空を見上げるのが好きだった。けれど今は夕焼け空をみると哀愁という言葉が浮かんでしまう。
夕焼け空には青春と哀愁の二面性が存在する。
例えば夕方の部活動なんてまさに青春だ。夕焼け空のなかで白球を追いかける高校球児なんてまさに青春の真っただ中にいる。だがその反面、1人ぼっちで河川敷に座っているときの夕焼け空はなんだか悲しい。
大手検索サイトで「青春」と画像検索すると、夕焼け空の画像が出てくる。「哀愁」で画像検索しても夕焼け空の画像が出てくる。
青春の終わりころに見る夕焼け空は、とてつもない哀愁を放っている気がする。なにかしたいんだけど、なにもできない自分のもどかしさが哀愁の原因だろうか。
今日も、夕焼け空を無意識に見てしまい、感じたくもないのに哀愁を感じてしまう。俺の青春時代はもう終わりか・・・。今年で20歳、もう好き勝手に生きることなんかできない。そう考えるとほんとうに悲しい。
なんだかどっしりとした疲れに見舞われながら、アパートへと帰宅した。開錠して扉を開ける。
「ただいま・・・」
いつもの癖でつい口から出てしまう。アパートに1人暮らしをしているはずなのに。誰かが俺の帰りを待っているわけでもないのに。
「おかえり」
「えっ?」
思わず口からは不意な驚きの声が出てしまった。俺の体は一瞬だけ金縛りにあったように、まったく動かなくなった。
いつもと違い、今日は俺のただいまに声が返って来た。女の子のやさしい声が部屋中に響く。だけどその声はなにか今にも壊れてしまいそうな、震えた声にも聞こえた。
なんで俺の部屋から女の子の声が聞こえてくるんだ・・・?俺には合鍵を渡すほど親密な関係の女の子なんていないし、学校に行くときにちゃんと施錠したはずだ。じゃあ女の子は一体どこから入ったんだ?そもそも女の子なんて俺の部屋に存在するのか?テレビを消し忘れたのか?あるいは俺の空耳か?
おかえりという言葉を聞いただけで数々の疑問が頭の中に浮かぶが、答えに直結することはない。いったい俺の部屋には何が存在するんだ?右足を一歩前に出すことさえ躊躇し始めた。
だがいつまでも玄関で立っているわけにもいかない。とりあえず中に入って、何がどうなっているのか、この目で、耳で、確認しよう。
一瞬、自分の目を疑ってしまった。俺の目に飛び込んできたのは、制服を着た、女子校生がテレビを見ながら体育座りをしている姿だ。どこに驚いたかというと、俺の部屋に当たり前のように女子校生がいたことではない。その女子校生の体が、半透明に透けていたことだった。
「ぎゃあああああああああああああ!?」
眼前の幽霊を見た俺は、みっともない叫び声を挙げながら大きく後ろ側に倒れて尻もちをつく。
「おかえり、人の顔を見て叫び声をあげるなんてひどくない?」
だが眼前の彼女はお構いなしに俺に話しかけてくる。それが当たり前のように。
「えっ・・・?ええ?透けてる!?」
ダメだ・・・これ以上言葉が出てこない。今起きていることが俺には理解できていない。いつも通りの平日を過ごして、家に帰宅しただけなのに。なんで今日の朝にはいなかった幽霊が俺の部屋に住み着いているんだ?これが占いで言っていた、あり得ないことが起こるってことか?
「ん?なに透けてるって」
なにって言われても・・・あなたの体が透けているんですけど・・・。そんなすっとぼけられても困ります。
とりあえず深呼吸をして落ち着こう・・・。大きく息を吸い込んで、吐き出す。3回繰り返すと、ちょっとだけ平常心を取り戻せた気がする。
「お前は一体誰なんだ。ここは俺の部屋だぞ。なに勝手にテレビまで見てくつろいでるんだ」
「・・・・・・・・・そっか」
ボソッとなにかを呟く、けど俺には聞き取れなかった。
「私は結菜、見てのとおり幽霊です」
彼女は立ち上がって俺の方を向き、簡潔に自己紹介をした。彼女の名前は結菜というらしい。そして幽霊だということをとうとう自白した。体が透けている以上幽霊であることは間違いないと思ったが、まさか本当に幽霊がこの世界に存在するなんて。
そういえば占い、絶対当たるわけがないなんて思っていたけど、当たってしまったなぁ。まさか自分の眼前に幽霊が現れるなんて思ってもみなかった。
結菜はチラチラと俺の顔をみて、様子をうかがっている。だから俺も結菜の姿をじっくりと見る。整った顔立ちをしている。目や鼻や口など顔のありとあらゆるパーツがまるで高級レストランの料理のようにバランスよく配置されている。左目の下にある泣きぼくろもいいアクセントを醸し出している。
顔は整っているからよく見ると美少女だけど、パッと見だと地味な感じの女の子だ。黒くて長い髪を二つ結びにしている。短すぎず、長すぎないスカート丈や、黒タイツなんかも、普通の女子校生を連想させる。身長は俺の目算だと160cmくらいだろうか。女子校生の割には大きいのではないだろうか。胸は大きくもないし、小さくもなさそうだ。制服は茶色のブレザータイプの制服だ。この辺りではみたことない制服だな。
結菜の姿を何度見ても、その身体の先には俺の部屋が透けて見える。明らかに普通ではない気配が彼女を取り巻いている。いったい結菜の身には何があったんだろう。結菜のことを訊くのは少し億劫だが、訊かなければ話が進まない。
「なあ、どうして幽霊になったのかわかるか?」
真面目な口調で、結菜に問いかける。結菜も俺の目をよく見て、俺の話に耳を傾けた。なにか俺の思考すら読もうとしているような、強い目力を感じる。
「・・・・・・うん。鮮明に思い出せるよ。あの時のことは」
結菜は少し時間を置いてから話を始めた。
「雨の降っている学校帰りのことだった。気がついたら私の前に大型トラックがあって、何も言えずに私は死んだの」
淡々と、自分の死に際の話を聞かされた。・・・事故死か。自殺だったり事故死だったりした方が、未練を抱えて魂だけがこの世界に残るなんてことがあるらしいけど。本当にそんなことあるんだな・・・。
「ほかになにかある?」
結菜はさらなる質問の催促をしてきた。自分を売り込んでいるんだろうか。
「ああ、いっぱい訊きたいことはあるんだ。君はさっき自分のことを幽霊といった。もちろん体は透けているし、俺も君のことを幽霊だと思って接している。じゃあなんで俺には君の姿が見えるんだ?」
「それは私も分からない。死んでから3年ぐらい経ったけど、私の存在に気がついて、私とこうやっておしゃべりができた人っていうのはあなたが初めて。今まで私が外の世界をうろついても誰一人として私を見る人はいなかった。けど半透明の私の姿をみて、あなたは驚いた。その時はちょっと嬉しかった」
「つまり、今は俺だけが君の存在を認識しているということか」
「そういうことだね」
なんでだろう。俺ってほかの人より霊感が強かったりするのか?いや、今まで幽霊なんて見たことなかったし、幽霊否定派の人間だった。そんな俺の目の前になぜ幽霊が現れたんだ。まさか朝の情報番組の占いの強制力?そんなバカな。
「あと、なんで俺の部屋にいたんだ?」
俺が最初に見た結菜はテレビの前で体育座りをして、テレビの画面を注視している姿だった。なぜ数あるアパートの部屋の中で俺の部屋を訪れたのか。
「それは、あなたが私の存在に気がついたから。少し前にあなたはどこかで私の存在に気がついたの。だからあなたの家に来てみた」
結菜の存在に気がついた?心当たりがない。けどたまに誰かに見られているんじゃないかと思って後ろを振り返るっていうのは誰しも一度経験したことがあるだろう。たまたま振り返った時に結菜がいたのか?
「なんで俺だけが君に気づくことができたんだ?この世界には70億人という人がいるのに」
結菜は黙ってしまった。それもそうか、自分にすら分からないのだろう。なぜ自分は死んだのにもかかわらず、なおこの世界に居続け、魂だけの自分の存在に気づく人がいるんだということを。
「ほかにはそうだなぁ・・・そうだ、この手に触れてみて」
右手を前に出して、幽霊が俺の、生きた人間の体に触れることができるのか検証してみる。彼女がおそるおそる手を出して、俺の手に触れた。
「冷たいな、お前の手」
何故だろう、思わずそんな言葉が出てしまった。普段はそう感じても、相手を傷つけるような言葉は可能な限り口には出さないのに。彼女の手は本当に冷たかった。なにか心にどす黒いものを抱えているようだった。触れてはいけないなにかに触れてしまった気がした。
「そうかな。私の体温低いのかな」
「そもそも幽霊に体温なんてあるのか?」
「わからない」
幽霊が分からないんじゃ、誰もわからないな。一応手と手が触れ合った感覚はあった。不思議な幽霊だ。
「ってことは俺からも触れるのか?」
「試してみてよ」
今度は彼女が手を出す。
「手だけじゃわからないからおっぱいでいいか?」
「・・・・・・ばか、じゃないの?」
彼女は顔を真っ赤にした。とれたてのいちごを見ているような錯覚に陥った。
「すまないけど、俺はバカなんだ。けど君の姿がみれる、君の存在を知っているのはここにいるバカだけなんだ」
「・・・・・・・・・」
結菜は顔を真っ赤にしたまま、黙ってしまった。言った俺も恥ずかしくなるからあんまり照れないでほしい。
「まあいいや、手を触ってみるか」
彼女の右手に触れる。しっかりと触っているという感触が俺の手から、脳内に情報が伝達される。相変わらず結菜の手は冷たい。けど、よく触ってみるとどこか懐かしい気もする。
「なんで幽霊なのに触れるんだろう?俺以外の人に触れた経験はある?」
「うん、私の存在に気づいてくれる人がいるかなと思っていろんな人に触ってみたけど、すり抜けちゃって誰も気づいてくれなかった。あなたが初めて」
あなたが初めて、なんて言われるとちょっとドキッとしてしまう。
「・・・触りすぎじゃないの?」
気づいたら数分触っていたようだ。結菜は相変わらず顔を真っ赤にして、照れ隠しをするように言葉を発する。
少しばかりの静寂が流れた。それは時間にするとどれくらいなんだろう。ほんの一瞬かもしれないし、永遠なのかもしれない。俺はその間にいろいろ考えた。結菜はどうしてここに来て、これからどうするのか。結菜も真剣になにかを考えているようだった。
その間、すべての物事が停止した気がした。すべての人の足が、地面を蹂躙する自動車が、地球を回る風が、惑星の公転さえ、停止した気がした。ここは俺と結菜だけが存在する世界。
2人だけの世界が俺の眼前には広がっている。音を発するものはなく、俺は頭の中で今自分に起こっていることを1つ1つ確認していく。きゅうりを一枚ずつ丁寧に輪切りにしていくように。
次は今後のことについて考える。目先のことなんてわからないことばかりだけど、それでも考えなければいけない。
やがて、俺の中で1つの答えがまとまると、すべての物事はまた動き始める。
「居場所・・・ないんだろ?」
「・・・うん」
「だったら、ここにいろよ。俺がお前の話し相手になってやるから」
こんなくさい言葉を言うような男じゃないんだけどな・・・俺は。けど自然にそんな言葉が出ていた。このセリフは前にも一回言ったことがある気がして、すんなりと口から出てきた。俺はこの子の力になってやりたいって思った。普段はまったくやる気のない俺が。
「ありがとう」
不器用な笑顔で感謝の言葉を口にした彼女は、その後顔をくしゃくしゃにして涙を流した。それはどんな意味を持った涙なんだろう。嬉しいから?悲しいから?俺には彼女が涙を流した明確な理由は分からない。気づいたら彼女を、結菜を抱きしめていた。結菜は俺の胸の中で泣き続けた。たくさんの涙を流した。それは夏の夕方に降る強い一時的な雨のような涙だった。晴れの日に強い雨が降ったところで、傘を持っていなくてはなにをすることもできない。だから俺が結菜を抱きしめて傘の役目になる。彼女の心の中にあった痛みが涙を通じて俺の心に突き刺さっていく。たくさん苦労をしたんだろうな。
こんな俺で・・・格好悪くて、弱くて、頼りない俺でいいんだったら君を幸せにしたい。
こうして俺と幽霊は出会った。