第十九話 初めての喧嘩
すっかり葉桜になった桜の木の葉が、微風を受けてサワサワと揺れている。
翔太と茜は、校庭の隅に植えられている桜の木の下で、お弁当を広げていた。
「桜の花が咲いていたら良いのに……。そしたら、お弁当ももっと美味しいですよね」
茜は、葉桜になった桜の木を見上げる。
「でも、夢みたいです。小笠原先輩と一緒にお弁当を食べられるなんて」
ほんのりと頬を桜色に染めながら、茜は微笑む。
「来年は、ここでお花見しながら食べようよ」
「えっ! 本当ですか!?」
茜は視線を落とし、マジマジと翔太の横顔を見つめる。
「て、ことは……て、ことは、来年の春まで、私と先輩はずっと一緒にお弁当食べてるってことですよね!?」
「うん。ここの桜、満開になったら綺麗なんだ」
翔太は頭上の桜に目をやる。
去年の春。
入学したばかりの翔太と千尋は、昼休みになると毎日ここに来ていた。
満開の桜の木の下で、お花見気分で食べた弁当。
今年は桜の花が早く咲きすぎたし、一度もその機会がなかったが……。
「でも、私。桜が咲いてなくても、先輩と一緒にお弁当を食べられるだけで、すっごく幸せです」
茜ははにかみながら、弁当を口に入れた。
「お昼はいつも本を読みながら、一人で食べていたし……。好きな人と一緒にお弁当を食べるなんて、思ってもみなかったです」
「あのさ、この前の返事だけど……」
翔太は桜の木を見上げたまま、話しを切り出す。
「返事?」
「えっと、この前の君の告白の」
「こ、告白……」
茜は、ごくりとつばを飲み込む。
屋上での出来事を思い出し、茜の心臓は早鐘のように打ち出す。
今思い返しても、自分にとっては、かなり大胆な行動だった。
「OKだから」
ガチガチに緊張している茜に、翔太はサラリと言ってのけた。
「え……?」
「茜ちゃんと付き合いたい」
「……」
翔太は茜に視線を移して、微笑んだ。
──茜ちゃん? 茜ちゃん……先輩が私のこと名前で呼んでくれた!
茜は喜びのあまり、失神してしまいそうだった。
「……いいかな?」
固まってしまった茜を見ながら、翔太は言った。
「もっ、もちろん! もちろんです!」
茜は思わず大声で繰り返す。
「私、小笠原先輩の彼女になれるんですね!」
「うん」
「でも、先輩。あの……いいんですか? 先輩、彼女がいたって聞いたんですけど」
上目遣いに翔太を見ながら、恐る恐る茜はたずねる。
「千尋とは、今は付き合ってないんだ……」
はっきり『別れた』とは言えなかった。
まだ、千尋と決別宣言をしてはいない。
今は、『付き合っていない』というのが、正確な答えだった。
「翔太、話しがあるんだけど」
桜の木の下で茜と一緒に弁当を食べ、浮かれ気分で教室に戻って来た翔太は、戻るなり、千尋に声をかけられた。
千尋は自分の席に着いている。
机の上で指を組み、組んだ両手をじっと見つめていた。
「何?」
千尋と喋るのは久しぶりのことだった。
「実は、僕も話しが──」
「あの子に返事したの?」
翔太が言い終わらぬうちに、千尋は続ける。
「あの子と付き合うことにしたの?」
顔を上げ、千尋は翔太を睨む。
「僕もその話。ついさっき、茜ちゃんに付き合いたいって返事した」
翔太が微笑むのを見て、千尋はバンッと机を叩き立ち上がった。
「何でよ? 何でOKするのよ!」
大声を上げる千尋に、教室中の生徒達が一斉に注目する。
「何でって……千尋と僕はもう付き合っていないし、千尋には望月君が──」
「それって、私たちは『別れた』ってこと!? 婚約解消って訳?」
千尋は怒りで体を震わせ、瞳を潤ませる。
「千尋は僕より、望月君が好きなんだろ?」
分かっている。
自分勝手な言い分なのは、充分分かっている。
大輔に気持ちが傾いているのも事実。
けれど、翔太に彼女が出来たことに対する隠しようのないジェラシー。
翔太とは離れたくない気持ち。
「翔太は私と別れたい訳ね!」
思いがけず、千尋の瞳から涙が零れた。
「分かったわ。別れてあげるわよ! あたしだってその方がいいから!」
心の声とは裏腹に出てくる感情的な言葉。
「別れたいのは千尋の方だろ!」
千尋の涙に戸惑いながらも、翔太は声を荒げる。
千尋を怒鳴りつけたことなど、今まで一度もなかった。
「その方がお互いのためさ! 僕達ずっと一緒にいすぎて、全然まわりが見えてなかったもんな!」
「こっちだって、せいせいする! 今までいつも翔太に合わせてあげてたんだから! なりたくもないクラス委員だって、翔太のためにわざわざなったんだからね!」
「クラス委員たって、千尋は何もしてないじゃないか! いつも仕事をサボってさ!」
「何よ!」
お互い、つかみ合いの喧嘩になりそうなくらい、ヒートアップした時、救いの鐘のように始業のチャイムが鳴り響いてきた。
二人のやりとりを興味深げに凝視していたクラスの生徒達は、ひとまずホッとする。
だが、今後の展開には、興味津々の様子で二人に注目していた。
千尋と翔太は、興奮したあまり肩で息をしながら、乱暴に椅子に座った。
十年間、一度もしなかった『喧嘩』。
その喧嘩で、二人が決別宣言をするとは、お互い思っても見なかった。