第十三話 チャンス
『二年二組』
翔太が入って行く教室のプレートが、茜の目に飛び込んでくる。
白いプレートの黒い文字を、茜は穴のあくほど見つめて記憶した。
始業直前、教室の前は生徒達でごったがえしている。
翔太の姿が教室の中に消えたのを確認すると、茜は教室前までダッシュして行った。
「あの……」
ちょうど教室に入ろうとしていた、一人の女生徒に声をかける。
カールしたお下げ髪が揺れて、彼女が振り返った。
「何?」
大きな瞳で見つめられ、戸惑いながらも、茜は素早く教室を覗き込んだ。
「あ、あの人……あの人の名前教えて下さい!」
自分の席に着こうとしていた翔太の背中を、夢中で指さす。
「……今、椅子に座った子?」
「は、はい!」
茜の顔は、湯気が立ちそうなくらい、真っ赤になる。
「……小笠原翔太よ」
一呼吸おいて、彼女は素っ気なく答えた。
けれど、大きな瞳は興味深げに茜を見つめていた。
「おがさわら・しょうた」
茜は扉の影から熱い視線で、翔太を見つめ、彼の名前を声に出して繰り返す。
「翔──あの子に何か用?」
ぼーっと突っ立つ茜に、彼女は聞いた。
「あ……いいえ、別に……」
「そう」
翔太に目がくぎ付けになっている茜を横目で気にしながら、彼女は教室に入ろうとする。
「あっ、あの!」
茜は思わず大きな声で、彼女を呼びとめる。
「小笠原さんには彼女がいるんでしょうか!?」
確認しておきたかったこと。
知らなきゃならなくて、でも、知りたくないような……。
茜は声をうわずらせながら、叫んでいた。
茜の声に、彼女はビクッとして立ち止まる。
側にいた生徒達も茜の方を見てざわめく。
一瞬の静寂。
「……分かんない……」
彼女は振り向かず、そう答えると、足早に教室に入って行った。
「わぁ、あんた、その質問まずいよ」
茜がドキドキしながら立っていると、他の女生徒達が近寄って来た。
「えっ?」
訳が分からず、茜はキョトンとした目で見つめ返す。
「あんたが聞いた子、翔太の彼女なんだから」
「はぁ……?」
「そうそう、翔太と千尋は幼稚園の時から付き合ってるカップルよ」
「二人は婚約してるらしいから」
「えっ!! えぇっ!」
徐々に事態が飲み込めてきて、
頭をハンマーで殴られたような衝撃が、次第に茜を打ちのめしていく。
「……婚約者がいたなんて……しかも、その彼女に話し掛けたりして……!」
茜はがっくりとうなだれ、倒れ込むように、扉にもたれかかった。
──そんなのあり!? 私の初恋は三日で終わりなの? 今までの苦労は? 学校までサボったのよ! 美容院とコンタクトレンズで消えたお小遣い……全て無駄だったのぉー!
声に出してそう叫び出したい衝動を、茜は必死で抑えた。
扉にしがみつき、茜は肩を震わせる。
「でも、さぁ、最近の二人なんかおかしくない?」
打ちのめされた茜の横で、女生徒達はしゃべり出す。
「よね。キスどころか、全然口も聞いてないし」
「千尋は大輔君に乗り換えようとしてるんじゃない?」
「あの二人のラブラブを見なくて済むのはいいけど、大輔君を千尋にとられるのは嫌よね」
「うん、うん」
「翔太と千尋、ついに別れるかぁ〜」
笑いを交えた彼女達のお喋りは続く。
「だからぁ、あんた、今がチャンスだよ」
じっとうなだれていた茜は、突然肩を叩かれる。
「……チャンス?」
「そうそう、今なら翔太はフリーだよ」
「翔太も寂しい毎日を過ごしてるようだし、告るなら今ね」
「小笠原さんに、告白……?」
茜はようやく顔を上げる。
一つ年上の先輩達は、にこにこしながら、茜を見ていた。
興味本位な彼女等の笑顔が、茜には救いの女神の笑顔に見えてくる。
一度地獄に突き落とされ、今また天上から救いの光りが降りてきた。
──小笠原翔太さんと私が恋人に……!
茜の頬がまたポッと染まり、顔に笑みが戻ってきた。
その時ちょうど、始業開始のチャイムが鳴り始める。
そのチャイムの音さえ、茜には希望の鐘の音のように思えた。




