第十話 出会いは突然に……
──焦りすぎた! 沖縄旅行の話まで出してさ。
翔太はすっかりしょげかえり、放課後の廊下を歩いていく。
傾きかけた日の光りが、廊下の窓から差し込み、翔太の影を長く映している。
──けど、千尋、冷たすぎるよ。あんな千尋初めてだ。
千尋とは午後から全く口を聞かなかった。
思い出すたびに、じわっと目頭が熱くなってくる。
もう少しで、皆の前で大泣きしそうになった。
──後で電話して、千尋に謝っとこ。沖縄旅行は二人きりで行くわけじゃないくて、家族と一緒で、もちろん部屋は別々だし……。
翔太はポッと顔を赤く染める。
──千尋とは婚約してるんだし、僕だって千尋と同じ部屋に泊まってみたい。
いつもラブラブな姿を見せつけながらも、実はキス以上すすんでいない。
──同級生にはもうとっくに初体験済ましてる奴だっているんだけどなぁ……。
翔太と千尋は、幼稚園の時から何も発展していない。
いわゆる、プラトニックラブ。健全な青少年の交際。
と、クラスメイトに話しても、誰も本気にしなかった。
──もしかして、そこが原因? もっと強引に迫った方がいい? 千尋も望んでいる?
いや、僕と千尋は結婚式を挙げた後、結ばれるんだ!
翔太の顔は真っ赤に染まる。
千尋はいつも言っていた。
新婚旅行は、白い砂浜とエメラルドグリーンの海が広がる南の国。
高級リゾートホテルに泊まって、一晩中愛し合う。
……で、ハネムーンベイビー。
今時のカップルらしからぬ夢を抱いている翔太と千尋。
翔太の妄想は広がる
だが、次の瞬間、頭の中には大輔の姿が浮かんでくる。
千尋の隣りにいるのは、大輔。
ウェディングドレスを着た千尋にキスするのも。
南の国の浜辺にいるのも。
リゾートホテルで愛し合うのも……。
「違う、違う、違う! 千尋の相手は僕一人!」
大輔の姿を、必死で頭の中から消し去る。
「そうさ、千尋も明日にはいつもの優しい千尋に戻ってる」
翔太は自分に強く言い聞かせ、図書室へ向かう階段を上がっていく。
明日授業で使う地図の準備を、教師に頼まれていた。
クラス委員の仕事だったが、千尋はすっぽかして先に帰ってしまった。
「えーと、世界地図は……」
人気のない、薄暗い図書室。
学校の図書室は結構広く、本の数も多かったが、翔太は今までほとんど来たことがなかった。
試験前に、時々千尋と利用したくらいだ。
キョロキョロと本棚を見て回り、ようやく地図のコーナーを見つけた。
「わ、あんな高いとこにある」
目当ての地図は、本棚の一番上の段にあった。
手を伸ばしても届かず、取り出すには、脚立が必要だ。
翔太が脚立を探しに行こうとした時、一人の女生徒が、危なっかしげに脚立を持って、移動しているのが見えた。
──なんで、あんな高い場所にヘッセの本が置かれてるの!? 有名作家の本はもっと取り出すい場所に置いてくれなきゃ。
茜はムッとしながら、本棚を見上げた。
──毎年、春にはヘッセの『春の嵐』を読むことにしてるんだから。あれを読まなきゃ、私の春は始まらない!
本棚の一番上の段の、一番左端にお目当ての本を見つけ、茜はうっとりと見つめる。
──今年もヘッセの世界に浸るわ。幸福の意義とは何か……クーンと一緒に考えよう。
茜は、ガタンと脚立を揺らす。
──あぁ、でも……高い所って苦手なのよね……。
ほんの数十センチの脚立だが、強度の高所恐怖症の茜にとっては、数十メートルの高さに感じられる。
その上、バランス感覚も鈍いため、しっかりと地に足をつけていなければ、ふらついてしまう。
茜は、強度の運動音痴でもあった。
躊躇しつつ、長い時間、脚立に半分足をかけたまま、茜は本棚をじっと見上げていた。
「とってあげようか?」
意を決して、茜が脚立に両足を乗せた時、誰かの声が聞こえた。
「え……?」
見下ろすと、人の良さそうな少年が、茜を見上げ微笑んでいた。
「あ、いえ……」
ごく普通の男子生徒。
年上で、大人っぽくて、落ち着いた男性ではない。
むしろその反対で、子供っぽくて中学生くらいにしか見えない男の子。
茜の理想とは、ほど遠い。
なのに、何故か、茜の瞳は彼にくぎ付けになっていた。
──何? この感覚……?
「僕がとってあげるよ」
彼は、なかなか降りようとしない茜の側に近寄って来る。
「あっ、いいえ! だ、大丈夫です!」
思いがけず大声を出し、自分でも慌てた茜は、足に余計な力が入り、バランスを崩す。
グラグラと揺れる脚立。
「キャー!」
ビルの屋上から落ちるかのような衝撃を覚え、茜の頭はクラクラと回る。
本当は、床上三、四十センチの高さなのだが。
側に来た彼が、とっさに両手で脚立を押さえ、茜の落下は避けられた。
「すっ、すいません!」
茜は脚立から飛び降り、大きく頭を下げる。
胸がドキドキしているのは、落ちそうになったから。
茜はそう思ったけれど、
胸のドキドキは、床に下りても続いている。
「どの本?」
彼は、素早く脚立に足をかけて、茜に聞いた。
「……あ、あの、一番左の端の『春の嵐』です」
見下ろす彼と、もう一度目があった瞬間、茜は直感した。
──これって、一目惚れ……? これが恋……?
「はい」
ぼーっと突っ立っている茜に、彼は本を手渡した。
本のことなど、もうどうでも良かった。
「脚立、借りるね」
彼は、脚立を持って、足早に去っていく。
──優しい人……私のために本を取ってくれるなんて。
しっかりと本を胸に抱き、茜はその後ろ姿をじっと目で追う。
彼が手を貸してくれたのは、ただ単に、早く脚立が欲しかったから、とは思わなかった。
茜は彼のことを、突然目の前に現れた「白馬の王子様」だと信じる。
彼の名前が小笠原翔太、ということさえ、その時はまだ知らなかった。
ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』は、今まで二回か三回読んだような記憶があります。どんな物語だったかは、ほとんど覚えてないんですが…^^; 良い作品だったことは覚えてます。今回、タイトルも使わせてもらったことだし、もう一度読んでみようかな、と思っています。