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32.誘拐

(やっぱり、逃げないと……)


 手燭の薄暗い灯りを頼りに、私は転移の魔術陣を慌てて描いていた。


 いつも以上に会話の弾まない夕食後、クレスト様のこと考えてますよアピールに励んだ結果、鎖に繋ぐという物騒な状況を何とか回避した。

 ただし、それは大きな代償と引き換えだ。二度目の添い寝である。


 前回の二のてつを踏むまいと用意したのは、昏睡こんすいの魔術陣。相手が寝入った所に貼り付けて発動。上顎うわあごに貼り付けて隠し、舌で発動とか、何それって思う。だって、陣を描いた紙越しに相手の肌を舐め……いや、深く考えるのはやめよう。そんな思いまでして失敗したらどうしようと思ったけど、成功して良かった。本当に!


 いつまで魔術陣が効いてくれるか未知数なので(唾液だえきで発動させたことないし)、とにかく急げと自室に戻って転移の魔術陣を描いている。


 両腕の魔術封じの腕輪については、力尽くで破壊することも考えたけど、どんな反動があるかも分からないのでお師さまに相談することにした。

 目指すはウォルドストウの更に先、お師さまの庵である。

 夜中の内にお邸を出て、できれば王都も脱出したい。

 路銀はどうしよう。徒歩で行ったらどれくらいかかるだろう。王都から出た後で、仕事は探せるかな。


 ……あれ、なんだこれ。


 転移の魔術陣を描く手が震えている。

 大事な記号がぐにゃりと潰れた。これじゃ発動なんてしない。失敗だ。

 二度、三度と息を整えても、余計に心臓がドクドクと鳴っているだけだった。

 胃のあたりが冷たく感じる。きゅうって痛い。


「なんで……」


 思わず声に出してしまったのは失敗だった。自分でも信じられないぐらいに弱々しい声だった。

 今、やらなきゃいけないのは、必要な魔術陣を描いて、夜着から着替えて、クレスト様に押し付けた昏睡の魔術陣の効果が切れる前にお邸を脱出することだ。

 弱音なんて吐いている暇はないし、悩んでいる暇だってない。


―――そのはず、なのに。


「ちょ、冗談、じゃない……」


 なんで、ここでクレスト様の顔が出てくるの?

 分かってる? このままじゃあの人に監禁されるのは間違いないのよ!

 そうしたら魔術も研究できないし、ろくな外出も期待できない。

 なんでこんな時に、ほだされてるのっ! というか、そもそも、ほだされてるの、私?


 自分の心が信じられなくなった。

 まさか、監禁されてもいいとか思っていないと信じたい。

 いや、監禁されていいなんて思ってない!


(思うのは―――)


 私が逃げたら、クレスト様がどう思うか。どれだけショックを受けるか、ということ。


(だから、それが『ほだされる』ってことだってば、私!)


 うあぁぁぁ、と頭を抱える。逃亡にあたって一番の難敵が自分とかありえない。


バタン


 突然、私の部屋のドアが開いた。

 まずい、クレスト様がもう起きた。

 逃げられない。そう思った後に湧き上がった感情は焦燥か安堵か。

 ただし、扉を開けた人影を目にするまで、だけど。


「―――誰?」


 見たことのない男達が、そこに居た。



 ◇  ◆  ◇



 冷たい。


 手を後ろに縛られたまま、部屋に転がされている私は、床に接している右半身からじわじわと身体が冷えるのを感じた。

 視線の先には剥き出しの木の柱と白い漆喰しっくいの壁。半地下のこの部屋には残念ながら窓もない。あるのは部屋の片隅に置かれた木箱に詰められた工具類、一組の簡素な机とイスだけだ。


 王都の北にある山脈、その麓にこのお邸はあった。南向きの斜面に建てられているため、入り口からまっすぐ奥に進んだ先は、一階でありながら地下室のような造りになる。

 どうしてここまで自分の居場所を把握しているか? それは、クレスト様のお邸からここまで、ずっと起きていたから。


(普通、意識を失わせるなり、目隠しするなり、逃走されてしまうことを考えて手を打つものじゃないの?)


 拉致されること、三回目。こんな状況に慣れてしまったのか、冷静に分析できる自分が少し悲しい。


 でも、油断はできない。

 なぜなら、拉致した相手がこれまでとは異なるからだ。その目的すら不明。


 お邸に侵入した複数の男達によって、私は手と口を拘束され、彼らの操る馬に荷物のように括り付けられて運ばれた。

 窓のない部屋じゃ、朝日が昇ったのかも分からないし、うっかり夕方に転寝をしてしまった私の体内時計は狂っているし、あれからどのぐらいの時間が経ったのかは分からない。


 それでも、確実に言えることはある。


(血相変えて、私のこと探しているんでしょうね)


 私なりに抵抗した際に、部屋にあった裁縫箱をひっくり返してしまった。『逃亡』なら部屋が荒れているのは有り得ないから、何かあったと察してくれるだろう。―――そうでなくても探すんだろうけど。


 あぁ、ため息をつきたいのに、口を塞がれた状況ではそれもできない自分がもどかしい。


 ちらり、と目線を上げれば、簡素なイスに座っている私を誘拐した男その一が、大きな口を開けて欠伸をしていた。黒髪黒目のその男は太い腕で乱暴に浮かんだ涙を拭うと、ついでとばかりに腕をぐるんぐるんと回した。さらに首をコキコキと鳴らす。

 朝が近いのかな。それとも、もう朝日が昇っているのかしら。すっごく眠そうだ。


(今後に備えて、私も少し寝るべきなのかしら……)


 邸内の軟禁状態が続いていた私は、はっきり言って体力がない。足が自由になっていると言っても、目の前の男一人、倒せるわけもない。

 私はゆっくりと目を閉じた。


ガンガンッ


 突然の振動に、びくぅっと私の身体が跳ねたけれど、目を開けた私は、自分以上に驚いた男がイスを蹴飛ばす勢いで立ち上がるのを見た。


「ドゥバ、開けろ」


 どうやら、この振動はノックの音だったらしい。

 ドゥバと呼ばれた男は慌ててドアを開ける。その向こうに立っていたのは、ドゥバと同じく黒髪黒目の男。兄弟だろうか、顔立ちがよく似ていた。ちなみに、アジンと言うらしい。私をかどわかした時に、もう一人のトリーと呼ばれた男と三人で指示を出し合っていたので憶えている。


(まぁ、三人とも見分けがつかないんだけど)


 首に黒いスカーフを巻いているのがアジン、何もつけていないのがドゥバ、耳に金環をつけているのがトリーと憶えてみたものの、装飾品がなければおそらく見分けがつかないだろう。


「お嬢様。こちらです」


 アジンが手を差し伸べて入り口から退くと、私の視界にはこの場所にえらく不似合いな人物が姿を現した。

 薄い桜色の手袋は絹。同色のドレスは甘い印象ながら、濃いピンクのリボンが胸元とウエストに飾られていて全体のイメージを引き締めている。施された刺繍も見事で『お嬢様』という呼び名に間違いはなかった。

 年は私よりも上だろうか。藍色の瞳はやや吊り上がった目元との相乗効果で冷たい感じだが、結い上げられた赤毛が見事なこともあって、勝気そう、というのが第一印象だ。

 そんな彼女の総合的な評価は、綺麗ともかわいい、とも言えない、「普通よりはちょっと上?」ぐらいなのが残念と言えば残念だ。


「……間違いないわ」


 私を見下ろした彼女が、吐き捨てるように呟いたのを聞いて、驚きを隠せなかった。だって、私、この人のこと知らないし。


「話があるの。立たせなさい。あと、しゃべれるようにして」


 手にした深緋色の扇を私に向けると、ドゥバさんが私の腕をぐいっと持ち上げて無理やり立たせ、ついでに口の戒めも解いてくれた。

 私はと言えば、ついまじまじと目の前の『お嬢様』を見つめることしかできない。

 状況から言えば、この人が私を誘拐した人だ。けれど、さっぱり見覚えがない。まさか、人違いでもされたとか?


「自分の置かれた状況が分かってないみたいね」


 絶対的優位を確信しているのだろう、彼女は私を哀れむように微笑んだ。


「あなた、目障りなの。消えてもらうわ」

「……」


 目障りとはどういう意味なのか、と考え込む私に、ぐいっと扇が突きつけられた。どうやら、目線が彼女から外れてしまったのが気に食わなかったらしい。扇で顎を動かされた。


「冴えない髪の色、暗い瞳、荒れた手。……本当に身の程を弁えない方は見苦しいこと」


 生まれ持った色を侮辱されても言い返す気が起きないし、薬師生活で手が荒れているのも指摘通りなので、私は反論もしなかった。

 私の思考回路が残念なのか、目の前のお嬢様には特に恐怖も感じていない。不機嫌なクレスト様の方が何倍も怖いし。

 ただ、このお嬢様の意向によってはアジン、ドゥバの二人が動くには違いないので、じっと我慢を決め込むことにした。


「どこの平民か知らないけど、勝手が過ぎるんじゃないかしら?」

「……」

「っ! 何とか言ったらどうなのっ!」


パシィン


 左頬がジンジンと熱い。いや痛い。さっきまで床につけて冷え切っていた右頬だったらよかったのに、と場違いなことを考えた。

 意外と扇で叩かれるのは痛いもんだ。でも、クレスト様に首を絞められた時に比べれば、うん、大丈夫。


「申し訳ありません。あなたのおっしゃる通り、私はどうしてこの場所に連れて来られたのか、全く分からないものですから」


 できるだけ怒らせないように、と下手に出る。食堂の給仕をしていた時と同じだ。相手を客と考えればいい。


「ふふっ、それもそうね。教えてあげるわ」


 お嬢様は私の対応に満足したのか、ようやく理由を口にした。


「次期バルトーヴ子爵に手を出しているかと思えば、氷の貴公子様と同じお邸に住んでいるなどと、どういうことなの? 身の程を知りなさい!」


 私は大きく目を見開き、そしてがくり、と項垂れた。


 とんだとばっちりだったようです。

 私、悪くないもん!


 うー、あー、と奇声を上げながら意味もなくごろごろ床を転がりたい気分もするけれど、そんなことをしている場合じゃない。

 とりあえず目の前のお嬢様の目的が分かった以上、私の交渉の方向性は、だいたい決まったと言っていい。


「私が、あの方々の目の前から消えれば、それで良いのでしょうか?」

「物分かりは良いようね。行く先も用意してあるわ。あなたを引き取りたいと言う方がいるの。身元もしっかりした魔術師の方よ」


 ……あれ?


「わたくしがあなたの処遇をどうしようか検討していたら、快く引き取るとおっしゃって……」


 ま、魔術師、ですか?


「その方がいなければ、そこらの山奥にぽい、だったわね。感謝なさい?」


 私を「快く引き取る」魔術師と言われて、思い浮かぶのは二人。


 一人はお師さま。

 一人は、考えたくないけれど人形『マリー』のことを知るあの魔術師。


 ただ、身元がしっかりしている、という話から察するに、おそらく協会に属している後者なんだろうな、としか思えなくて。


 それは、非常に、辞退を申し上げたい。


 下手すればクレスト様の危惧していた「死なない程度に血を抜かれ続ける」という地獄のような生活が待っている。

 さらに突き詰めて考えてみると、その魔術師の所へ引き取られるとすれば、住むのは王都だ。クレスト様はカルルさんと再会するかもしれない状況を、目の前のお嬢様は見過ごすんだろうか?


 私は、項垂れた頭をゆっくり持ち上げ、上目遣いでお嬢様を見つめた。


「あの……」

「なぁに? まさかわたくしの提案を断る気なの?」

「いえ、その……確かに、私、自分の身の程もわきまえず、お二方につきまとってご迷惑をかけていたのだと思います」


 彼女に言われたことをそのまま肯定して見せると、とても満足そうな表情を浮かべて頷いた。


「それで、私、お邸に置いてくださったクレ……、いえ、氷の貴公子様、にお手紙を差し上げたくて。ひと時の夢を見せてくださった感謝と、二度と会うこともないし、見かけても声をかけないで欲しいことを、お伝えしなければ、と」


 名前を言おうとしたら、すっごく睨まれたので、氷の貴公子、と笑ってしまいそうな二つ名で言い換えるしかなかった。

 呼び方の件を除けば、私の真摯な(?)申し出を、お嬢様は嬉しそうに頷いて聞いていた。


「良い心がけじゃない。―――アジン、紙とインク。ドゥバ、縄を解いてそこに座らせて」


 目を見合わせてアジンとドゥバが頷き合うと、二人はそれぞれ動き出した。私はさっきまでドゥバが座っていたイスに座らされ、アジンはドアの向こうに走って行ってしまった。


「念のため、縄を解くのはアジンが戻ってからです、お嬢様」

「今更、そんな反抗もしないでしょう? 随分と聞き分けの良い子だわ」

「―――お嬢様」

「好きになさい」


 残念ながら、まだ手を縛る縄を解いてはもらえないようだが、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせた。アジンが戻ってくる前に、手紙の文言だけはきちんと考えておこう。


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