30.困惑
「マリー、寝る前に俺の部屋へ来い」
「? はい」
いつでも逃げられる、という解放感からか、とても浮かれた気分で夕食の席についた私に、クレスト様から妙な命令が下った。
なんだろう、と首を傾げつつ、目の前の魚のソテーがとても美味しく感じる。いや、いつも美味しいんだけど。
「今日はそんなに楽しかったか」
浮かれ過ぎていたのか、そんな風に尋ねられて私は慌ててこくこくと頷いた。口の中にバターの風味が広がっている状態では声も出せない。
味わって咀嚼し、飲み込んだところで、浮かれ過ぎたと自分を戒めた。
「はい、滅多に見られない訓練風景も見せていただきましたし、エデルさんとも楽しくおしゃべりさせていただきましたし、楽しかったです」
あれ、このお邸から逃げる、ってことは、もうエデルさんとも会えなくなってしまうってことなのかな。せっかく仲良くなったのに。
でも、まぁ、私なんかがいなくても、エデルさんが寂しがるとは思えないし。今までだってそうだったじゃないか、食堂のおかみさんだって、山小屋のミルティルさんだって、お隣のリリィさんだって、私一人がいなくなっても、結局、いつも通りの生活をするだけだ。それと同じ。私がいないと騒ぐのは、クレスト様ぐらいだろう。
これまで、クレスト様に無理やり引き剥がされた結果として別れを受け入れてきたけど、何故か、自分から手放すんだと思うと、惜しくなってきた。
(でも、自由に生きるため、だし)
急に夕食が味気なく感じてくる。
「マリー?」
「はい、なんでしょう」
私の様子を敏感に察知したクレスト様の声に、慌てて返事をする。
「味付けが気に食わないなら」
「いえ、とんでもない! 塩コショウの加減も丁度良くて美味しいですよ?」
危ない危ない。以前、不満そうに食べていたら、あやうく料理長さんが解雇される所だったのを思い出した。その時の不満は、クレスト様に対してだったんだけどな! 詳しい所までは覚えていないけど、あまりに束縛が過ぎていた頃のことだろう。
どうも今日一日色んなことがあり過ぎて、頭の中が整理できていないみたいだ。
今日はもう考えるのをお休みして、いつも通りに過ごすことにしよう、うん。
◇ ◆ ◇
―――と、思っていたのに。
寝巻きに着替えたところで、夕食時のクレスト様の命令を思い出し、上にショールを羽織っただけの格好で彼の部屋の前までやってきた、んだけど。
(なんだろう)
さっき有耶無耶にした、泣いた件について深くつっこまれるのかな。怖いな。まさか、クレスト様が正当に評価されないのが悔しかったとか、エデルさんに優しくされて家族のことを思い出してしまったとか―――言えるわけがない。どんだけ涙腺が弱いんだって恥ずかし過ぎる。
あと、悪いことをしたわけではないけれど、逃げ道を見つけた罪悪感のようなものがあって、そっちの意味でも彼の部屋に入る決心がつかない。
(えぇい、女は度胸!って金物屋のマーゴットさんも言ってた!)
困った時は先人の知恵に従うべし!と気合を篭めてぐっと拳を握り、扉に向かう。
コン、コン
「入れ」
扉の向こうが見えてるんだろうか、部屋の主は。私は別に名乗ってもいないんだけど。
(女は度胸!)
マーゴットさんの言葉を胸の中でもう一度唱えてから、私は扉を開けた。私の部屋よりも倍は広い室内には、ダークブラウンで統一されたソファセットとチェストがある。続き部屋が寝室になっていて、大人三人が寝転がれそうな大きな寝台があるのを知っていた。ついでに簡易的なものだけど浴室も備え付けられているのだ。さすがお邸の主人の部屋である。
「えぇと、何の用事なんでしょうか?」
きょろきょろと部屋の主の姿を探しながら、私は後ろ手で扉を閉めた。
あれ、中に居る、よね?
私はそろりそろりと足を踏み出し、彼の姿を探す。
「こっちだ。早く来い」
その声は、続き部屋の寝室の方から聞こえた。
まさか、今日の訓練で疲れたからマッサージしろとかいう無茶振りじゃないだろうな、と思いつつ、寝室の方へと足を踏み入れる。筋肉のほぐし方なんて知らないよ、私。
クレスト様は寝台に腰掛けていた。
サイドテーブルに置かれた灯りに照らされて、いつも太陽のように光っている金髪は、風呂上りで湿気を含んでいるせいで房ごとにまとまっていて、艶やかなシルクのリボンのように見えた。深い藍色の寝衣は、暑いのか襟元の紐をくつろげている。
「ご用事は、なんでしょう?」
やっぱりマッサージかな。肩を揉むぐらいしかできないんだけど。
そんなことを考えながら、寝台に座ったままのクレスト様に近づく。
「それはいらないだろう」
え、ショールぐらい掛けててもいいじゃないか。だって、こっちは薄い寝巻きなんだから。そりゃ、マッサージに熱がこもって暑くなれば外すけれど。
躊躇したのをどう思ったのか、いきなり立ち上がったクレスト様に腕を取られ、抱き締められた。
「ふぇっ?」
間抜けな声を出すが、抱きしめられていることに変わりはない。
「約束だろう」
ショールを剥ぎ取られると、私は掛け布をめくった中に放り込まれた。
「え?」
自分がどこにいるのか認識するより先に、隣に温かいものが滑り込んでくる。
「く、クレスト様っ?」
抵抗も虚しく、むぎゅっっと抱きしめられる。
「あいつらへの訓練とお前の見学、その対価は『添い寝』だっただろう?」
何ですとぉぉぉっ!
「え、あの、添い寝、ってお昼寝とかの、ですよね?」
「いや、添い寝は添い寝だ」
じたじた、ばたばた、と両手両足で布団の中から出ようとするものの、後ろからぎゅむっと抱きしめられたまま身動きが取れない。
ちょ、ちょっと待った!
私十七歳、あなた十九歳。年頃の男女が一つの布団で寝るとか有り得ないから!
「じっとしてろ」
囁くような低い声とともに、生暖かい風が私の耳に当たる。思わず、ぞわっと鳥肌を立てた。
抵抗しても無駄だと判断し、とりあえず大人しくする。寝入ったら速攻で逃げる! アレなことを仕掛けられても速攻で反撃して逃げる!
しばらく様子を窺っていると、何やら深い呼吸をし始めた。
(寝た? 早くない? 寝たふり?)
試されているのかと思って、それでも大人しくしてみるけれど、特に変わった様子はない。
私はそぉっと身体を離そうとする。だが、その途端、腰に巻きついた腕に力が入った。
やっぱり起きてたか、と身をよじって背中の人物を確認してみても、目を開ける様子はない。
(……まさか、寝たまま?)
もしかして、幼児の抱き人形代わりなのか、これ?
私はクマのお人形か?
寝台から逃げることが叶わない中、私はただひたすらにじっと耐えていた。
―――いったいどれぐらいの時間耐えれば良いのかと考えているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。……と気づいたのは、朝になってからだった。
小鳥の囀る声とカーテンの隙間から差し込む光に覚醒した私は、筋肉のついた固い胸板に顔を突っ込んでいた。
間抜けなことに、目覚めて最初に思ったことが「背中を向けていたはずなのに、何でだろう」ということだった。
恋愛物語などにありがちな、「あれ、何で隣に」からの「きゃあああ(悲鳴)」からの「そうだった、昨夜は(以下略)」という流れにならなかったのは、昨晩散々抜け出そうと足掻いたおかげだろうか。
そぉっと視線を上げると、相手はまだ眠っていらっしゃるご様子。
朝日にきらきらと反射する金髪が眩しいとか、長い睫毛が呼吸とともに震える様子がとか、いちいち鑑賞していられません。
昨日、エデルさんにも言ったけれど、どれほどの美貌を持っていたとしても、ふとした拍子に見惚れてしまうことがあったとしても、やっぱり慣れるものです。
とりあえず今は、寝顔がどうのこうのというより、いかにここを抜け出すかということだと思う。お邸の使用人に見られでもしたら、妙な誤解が付きまとうのは必至。それだけは避けないと。
そろり。
そろ、そろり。
私は寝付いた赤子から離れるよりも慎重に、クレスト様から距離を取った。
私のお腹とクレスト様のお腹に空間ができ、そこに涼しい空気がするりと入り込む。
「ふ、んんっ!」
突然、私の背中から抗いがたい力が私の身体をクレスト様にぎゅむっと押し付けて来た。
犯人はもちろん……クレスト様の手だ。
「……マリー?」
筋肉質な胸板に顔を押し付けた私の名前を、掠れた声が呼びつける。
不本意ながら、私は小さく身をよじって顔を上げた。
そこには、エメラルドの瞳が薄く覗いている。そう、目を覚ましてしまったのだ。
「すみません。起こしてしまいました。私、もう自分の部屋に戻りますね」
「……なぜ」
まだ寝起きで頭がぼんやりしているのか、いつものような冷たい声音ではなく、単にぶっきらぼうな声が私の頭から降ってくる。
「添い寝は、相手が寝たら起こさないように離れるものです。うっかりして私も寝てしまいましたので、それができなかったのですけど」
本当は、あなたが放してくれなかったからなんだけど。
「……いい、まだ……このまま、寝る」
ふぇ?
驚いて目を大きく見開く私とは対照的に、クレスト様の瞼が落ちていった。
「ちょ、このままだと、アマリアさんとかに見つかりますって、何言われるか分からないんですって」
「大丈夫……、俺が……守る」
ちがぁーう!
私の言ったことをこれっぽっちも理解せず、クレスト様は再び夢の国の住人となってしまった。
私がどれだけ力を込めても、背中に回された腕はぴくりともしない。
(どうしろって言うの……、これ)
あとは、クレスト様が起きてから、こそこそと自分の部屋に戻れたらいいな、と期待するしかないようだった。
◇ ◆ ◇
「昨晩はよく眠れた。今夜も頼む」
「お断りします」
朝食の席でのとんでもない提案に、私はこの上ないぐらいの拒絶で返した。
「交換条件だろう」
「何度もするとは言っていません」
取り付く島なんて作ってやるか、とピシャリと跳ね除ける。
今朝は結局、部屋に私の姿がないことに気づいたアマリアさんがクレスト様に報告→添い寝発覚、という最悪の流れになってしまった。
誤解しないで、添い寝だけだからと言い募る私に、アマリアさんを筆頭に使用人さん達は「見れば分かります」と信じてくれた。何を見て判断するのかと聞けば、寝巻きとシーツを見れば分かるのだという。そういうものなんだろうか。
「マリー……」
「何度仰っても承諾できません。そういうことは、どなたかと結婚してから、存分にやってください」
あまりのしつこさに食後の紅茶も断った私は、早々に食堂から退散した。私を追いかけようとしたクレスト様は、ハールさんが「今日は打ち合わせのある日では?」と止めてくれた。ありがたい。
今日はお見送りも辞退して部屋に引き篭もろう。一応、昨日の仮説も実証してみなきゃ。




