表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/75

3.新しい生活

 私の暮らしは全く別のものに変わってしまった。

 朝はふかふかの布団で目を覚まし、メイドのアマリアさんによって洗顔から着替えまでの『朝の支度』をさせられる。お師さまと二人、毛布になってくるまって寝ていた日々や、手櫛で四苦八苦しながら髪を編んでいたことが懐かしい。

 私は、お師さまとの最後の会話を思い出す。



 ◇  ◆  ◇



「そして、二つ目。―――マリー、この仕事が終わったら、という話を覚えていますか?」


 顔を上げてお師さまの黒い瞳を覗き込んだ途端、余興の準備をしていた時の会話が脳裏をよぎった。

 私は小さく頷くと、後ろから抱きしめるクレスト少年の腕を力ずくで剥ぎ取った。少し離れて欲しいとお願いすると、意外にもクレスト少年は素直に従ってくれる。


「ブレスレットのお返しになればいいんですが」

「そんな風に考えたことはありませんよ」


 お師さまは、私がきちんと理解していることを分かってくれたのだろう。微笑んで先を促してくれる。

 きっと、後ろで見ているクレスト少年は慌てて止めに来るだろうから、素早く終わらせないと。

 小さく息を吐いた私は、ポケットから小刀を取り出すと、一息にその小刀を首元に向けた。

 クレスト少年の制止の声が聞こえた気がしたが、そんなことはどうでも良かった。


「どうぞ、お師さま」


 黒い糸の束は、私から切り離された途端、全く別物に見えるから不思議なものだ。手にした長い髪は、かつて自分の頭に付いてたものだと分かっているけど、改めて見るとちょっと怖い。そして頭がとても軽い。

 そんなことを考えていたら、動転したクレスト少年の手によって、私は問答無用でお師さまから引き離されてしまった。

 お師さまへの最後の言葉は「どうぞ、お師さま」となった。別れにしては随分と味気ないが、まぁ、そんなものなのかもしれない。



 ◇  ◆  ◇



 あれから切り揃えられた髪の毛は、うなじを隠すにも足りないほどの長さしかない。

 あの時、クレスト少年にどんな感情が浮かんだのかは知らないが、とてつもない怖い目をお師さまに向けていたのだけは覚えている。


「マリー、何を考えているんだ?」


 いけない。朝食の最中だった。

 目の前で優雅にナイフとフォークを扱う美少年の前で、お師さまに関わる話題は禁句となっている。何度か、お師さまとの暮らしや、お師さまがどれだけスゴイ人なのかを口にしたが、途端に怖い顔になるんだ、このお坊ちゃんは。


「今日は何をして過ごそうかと考えてました」


 このぐらいが無難な答えだってことも、ここでの暮らしで学んだ。


「そうか、俺は残念ながら今日は一日、外出する予定だ。いい子で待っていてくれ」


 交渉の場で父上さんであるところのアルージェ伯が口にした通り、坊ちゃんが何かに執着したことは初めてだったらしく、邸で働く使用人からはまるで珍獣のような目で見られた。

 ここで暮らし始めた当初は、こういった彼の発言一つ一つに使用人が目を剥いて驚いていたけれど、一ヶ月経った今はもう、慣れたもんだ。


「そうなんですか。では今日は読書をして過ごすことにします」


 私はいつも通り、今日の予定を申告する。

 坊ちゃんが不在の場合、私は朝食の際に一日どういった行動を取るのかを伝えなくちゃいけない。下手に曖昧なことを言ったり、または予定外の行動をしたりすると、この坊ちゃんに面倒なぐらいに問い詰められてしまう。

 坊ちゃんが邸に居る時はもっと面倒で、ずっと坊ちゃんと一緒にいることを求められる。坊ちゃんが剣の鍛錬に行っている親戚の家であった話に付き合わされたり、坊ちゃんが家庭教師を呼んで勉強している時にも傍らにいることをお願い(という名の強要)されたり、正直、息が詰まって仕方がない。

 遊び相手にしては随分と過保護だと思うけど、坊ちゃんも責任を感じているのかもしれない。何しろ、お師さまから自分の手元に無理やり引き取ったんだから。でも、たった二歳年上なだけなのに、まるで親鳥のように抱え込まれてもなぁ。


「マリーは本当に本が好きだな。帰りに新しい本を買って来よう」


 これも何度となく繰り返された質問で、たとえ坊ちゃんに「どんな本がよいか」と尋ねられても、私は素直に「魔術の本が欲しい」と口にしちゃダメだ。お師さまに繋がる言葉は全てタブーだから。

 それがどれだけ些細なことでも、お師さまに繋がるキーワードを口にしてしまえば、この坊ちゃんはいかにお師さまが非道な振る舞いをしているのか、この暮らしがどれだけ幸福なものか、それこそ自分の外出を取りやめてまで懇々と諭してくるんだ。正直うっとうしい。


「マリーは邸の本を全て読みつくしてしまったのではないか? 今度はどんな本が読みたい?」


 ほらね。予想通りの流れで質問が飛んで来た。

 私はまだ坊ちゃんに投げつけたことのない単語を、恐る恐る口にしてみる。


「その、実は、刺繍に少し興味があって―――」


 お師さまと一緒にいた頃、仕事のたびに羽織っていたローブを思い出す。あのローブだけじゃなく、ほとんど全ての持ち物を処分されてしまったけど、それでも、ローブにちまちまと刺繍を施していた日々を忘れたわけじゃない。

 さぁ、坊ちゃんはどう判断する?


「確かに、歴史や経済などの本ばかりでは偏ってしまうな。そういった趣味も必要だろう」


 お、セーフだったっぽい。

 私はこっそり胸を撫で下ろした。


「刺繍の教本と道具を探して来よう。あぁ、それとも教師を見繕った方が良いか」

「い、いえ、とんでもない。本と道具だけでも十分です!」


 私が慌てて遠慮すると、微かに笑った坊ちゃんは「お前は本当に欲がない」と呟いた。


 朝食を終えて坊ちゃんを見送ると、私のヒマな一日が始まる。

 遊び相手と言っても、使用人と兼任だろうと思っていた私は、初日から裏切られた。

 食事の片付けも、掃除も、率先してやろうとすれば、使用人から止められた。一度、無理を言って庭を掃かせてもらった時なんて、それを知った坊ちゃんが庭師のおじいちゃんを解雇しようとしちゃって、それを慌てて宥めて止めたという逸話まで作り上げる羽目になってしまった。

 どうにもあの坊ちゃんは、私を何もできない人形にしたいらしい。せっかくお師さまの下で磨いた掃除や料理の腕も、このままでは錆び付いてしまう。

 坊ちゃんは、私が使用人とお喋りするのも気にいらないみたいで、若いメイドさんと髪飾りについて話していたところに、ひどい叱責をくらったことだってある。確かその時は、坊ちゃんに喜んでもらうためにこっそり相談していたとか何とか苦しい言い訳をして、事なきを得た。(最終的に、直接俺に聞けというお達しはいただいたけど。)もちろん、それ以来、その若いメイドさんとは一言も話せてない。

 私は、すっかり慣れ親しんでしまった書斎に足を運んだ。このお邸そのものが三男であるクレスト坊ちゃんに与えられたものらしく、書斎に並ぶ本も、クレスト坊ちゃんの好みもしくは彼の教育のために揃えられた本ばかりだ。

 歴史や経済、体術、剣術などあからさまに貴族の男性向けの本が並ぶ中に、刺繍の本が混ざることを考えると、少しだけ笑いが込み上げてくるというもんだ。


「さて……と」


 私は本棚の前で仁王立ちになった。何を読もう?

 しばらく考えた末、ずっと気になっていた『護身術百選~降りかかった火の粉は自分で払え!~』を手に取った。坊ちゃんからは顰蹙を買いそうな本だけど、万が一のことを考えて、とか適当な理由で言いくるめよう。うん。言いくるめられると信じたい。

 私は時折、実際に身体を動かしてみながら、じっくりと本を読み進めて行った。



―――結果を言うと、残念ながら、言いくるめることはできなかった。


「そんな危険な目には遭わせない」

「俺が守る」

「不安なら邸の警備を倍にする」


 などなど、坊ちゃんは私の選んだ本がお気に召さなかったようで、ひどくご立腹の様子。


「それほど心配であれば俺の外出について来い」


 これには困った。ついて行ってどうするんですか。ずっと隣に控えてる? いやいや、まさか馬車の中に放置とか?

 とりあえず、歴史や経済の本に飽きてきたのだという落とし所で何とか納得させた。ちなみにあの本は没収された。

 こんな結果が予想できていたなら、何故あの本を読んだことを報告したのか?という疑問を感じる人もいるかもしれない。

 答えは簡単。偽ることができないから。

 夕食の席で、私は坊ちゃんに今日一日の行動が予定通りだったことを報告しなければならないのだ。報告を拒否すれば、それこそ鬱陶しくも、いかに私のことを心配しているかを切々と語られて諭されてしまうわけで。

 さらに、私の報告にウソがないことを、使用人の口からも報告される。ぶっちゃけ監視されてるんじゃないかな、私って。

 貴族の女性って面倒なものだね。この国の淑女の皆様方には自由がないみたい。身内から監視されるのも、私からすればすごく窮屈だけど、生まれた時から続いていれば、気にならなくなるものなんだろうか。



 ◇  ◆  ◇



 翌日、予定通りに庭を散策していた私は、とある木の前で立ち止まった。

 庭師のおじいちゃんか、見習いの少年か、背中に視線を感じる。

 でも、私は木を見上げるのを止めない。

 思うことはたった一つだ。


(―――登りたい)


 お師さまと暮らしていた工房は、山の中腹にあった。近くに桃やリンゴの木が植えられていて、木に登って熟した実を取るのは私の役目だった。

 あの木の上から眺める風景は、絶景だった。

 お師さまは魔術で空を飛べるから、そこまで魅力を感じないと言ってたけど、大半の人間はその光景に魅せられるに違いない。

 目の前の木は、整えられていながらも見事な枝ぶりで、とても登りやすそうなのだ。


 登りたい。でも後で説教だ。

 こんな動きにくいドレスでも登れる自信があるのに。

 あぁ、なんてストレスが溜まるんだろう。貴族の生活って。

 私は唯一取り上げられなかった銀のブレスレットをそっと撫でた。

 護身用にお師さまから貰ったこれも、当初は取り上げられそうな勢いだった。だけど、魔術で接合されてて、無理に引き抜くこともできなかったから、例外として持っていることを許されたんだ。表裏に細かい文様が施されて、女の子に似合う華奢な装飾品に見えることも、認められた一つの理由なんだと思う。これが実用重視の武骨なデザインだったら、あの坊ちゃんはブレスレットをちょん切ってでも取り上げたに違いない。


 私は小さくため息をつくと、ゆっくりと目の前の木から離れた。

 この日の夕食時に「そんなにスモモが好きなのか」と尋ねられ、私は初めて木登りに最適なこの木がスモモの木だったことを知ったのである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ