第六話【逃げること、進むこと】
その宣誓はあまりにも淡泊だった。しかしその赤い瞳には最早迷いはない。
いなほはメイリンの覚悟を感じて、声を失った。驚愕はない。予感はそれこそ、初めから存在していたのだから。
ただ、何も言えないのだ。どうしてその道を選ぶのか。今更なんで魔族を復活させる必要があるのか。
「止めるなら、今の内ですよ?」
いなほは押し黙って、目線を下に向けた。
その態度をどう解釈したのか。メイリンは悲しげに頬を緩ませると、いなほに背中を向ける。
「こちらです」
メイリンが先導する。その背中を追いながら、いなほは未だやり場のない拳の振るう先を迷っていた。
そんな彼にメイリンは静かに語りかける。今の自分を構成する全てを、至るまでのこれまでを。
「私の家のメイルー家は、代々ヒューマンでありながら貴族の方々に劣らぬ実力者を輩出するエリートで、そこに生まれた私は、有り体に言うと、落ちこぼれの部類でした。一方で、数年程後に生まれた弟は、そんな私とは比較にならないほど優秀な息子だった」
そんな家庭で生まれたメイリンの幼少時は、今でも鮮明に思い出せるほど過酷なものであった。十にも満たぬ幼子が、ランクを持っていないという理由だけで家族から冷たく突き放され、その目の前で弟が愛されている現実。
それでも当時のメイリンは、今よりもまだ前向きで、必死だった。
「私を見てほしい。その感情だけで勉学を重ね、鍛錬を怠らず、能力を上げるために危険な魔法具にすら手を出した……そのおかげで、劇的に私は能力を上げていきました」
だがそんな彼女に両親が告げたのは、端的に言うと「そのくらい当然だ」というあまりにも冷たい言葉だった。
勿論、実力を備えてからは、それなりに両親から期待されることになったが、メイリンは次第に上がらなくなってきた自身の実力に悩み、そして今からおよそ半年以上前、遂に自分の能力の限界が来たことを悟った。
まぁそれも、理由の一端でしかないのだが。
「……それらしい理由を述べるなら、幾らでもあげられます。でも、そういった理由を今更話すことに何の意味もないですよね。ただ、いなほさんには、私がどうしようもない人間で、くだらない理由で魔族を復活させようとしているということだけ、わかってもらえたらいいんです」
止めるなら今だ。
怪我をしているとはいえ、ミフネとの戦いでさらに能力を上げた今のいなほなら、メイリンを苦もなく制することが出来るだろう。ヴァドに関しても、その後ゆっくりと対処していけばいいだけの話だ。
だが出来ない。今からメイリンがしようとしていることを、いなほは受け止めなければならないと思ったから。
徐々に息苦しさと暗闇が濃くなっていく。通路の壁には血管のような赤い線が幾つも走っており、見るからに不気味だ。
まるで通路そのものが生きているかのようで、さながらここは化け物の腹の中か。体中に感じる圧迫感を覚えながらも、しかしメイリンといなほは堂々と進んでいく。
「見つけた当初は、魔族である彼を利用することだけを考えていたんですけど。何度も話していく内に、意気投合してしまって……えぇ、ありのままに私を見てくれるあの人に、私はきっと好意を抱いています。勿論、いなほさん。貴方にも」
「そうかい」
それが、今更何になるというのか。
いなほはメイリンが何を言いたいのかわからなかった。
どうしてそんな清々しい笑顔のまま、魔族の封印を解くと決めたのか。
いなほは自己に埋没するあまりに気付かない。己が犯人だと自白したメイリンがヴァドの元に辿りつく僅かな間、それこそ、メイリンがいなほに託した、己を縛る最後の鎖であったことを。
だが無情にも、選択の時間はなくなり、メイリンを縛る鎖は解かれる。その向かう先には、複雑な術式が一面に描かれた牢獄だった。
メイリンの手から漏れる光源が牢獄の奥を照らす。無骨ながらも膨大な魔力を秘めた鉄格子にそれはいた。
広くはないとはいえ、それでも人一人なら充分寝食が出来るそのスペースの床一面に、黒い髪が広がっている。膨大なその髪の中心、光に照らされて反射した金色の瞳がいなほとメイリンを見た。
衰弱しきり、枯れ枝のようにしかみえないその体の至る所に杭が刺さり、壁に縫い付けられている。
見た感じは異常ではあるが、まだ人間に見えないでもなかった。ぼろぼろの布切れをまとった、今にも死にそうな人間。だが膨大な髪から覗くその血の通わない青白い肌を見れば、誰もがそれを人間とは思わないだろう。
そして恐ろしい程に美しい容姿ですらあった。やせ衰えても尚衰えぬ美。むしろその細い体すらも、その美を引き立てているかのようでもあった。
「紹介します。彼が私の親友の、ヴァド・ザ・ダンピエルです」
封印され、衰弱して、未だに吐きだされる恐ろしい力の波動を感じて、僅かにいなほの憂鬱な気持ちが高揚した。
ヴァド・ザ・ダンピエル。かつて近隣を恐怖のどん底に陥れた美しき吸血種の王。
ランクC。天災級との再びの対峙に、いなほは言い得ぬ喜びを、心の片隅で感じていた。
「……いなほだ。早森いなほ」
だが普段なら直ぐにでも飛びつきたくなるような衝動に駆られるというのに、いなほはどうしてかそうする気になれなかった。
決して油断していい相手ではないし、倒すなら今この時をもってしかないだろう。だが躊躇する理由は、やはりメイリンに対しての気持ちを整理しきれていないせいか。
「やぁ、初めまして少年。親友から話は聞いている。とても強いみたいだね」
見た目とは裏腹に、その声は瑞々しい生気に溢れていた。死人のような顔をしていて変なもんだと内心でぼやきつつ、いなほは鉄格子に歩み寄る。
「お前、ここ出たらどうするんだ?」
それは聞かなければならないことだった。そしていなほにしては弱気なことだが、出来ればそのまま消えてくれればとすら願った。
「まず、君を殺す。そしてマルクの街を落とす。最後に親友の家族を殺し、全てを終わらせたうえで共に逃げよう……それが、私の願いで、彼女の頼みだ」
何でもないことのようにヴァドは破滅を宣誓した。いなほの実力をわからないわけでもないだろう。このレベルの実力者となれば、見ただけで相手の実力はある程度把握できる。
封印されている今、もしいなほが動けば抵抗するまでもなく死ぬ。それがわかりながらいなほの殺害を歌う。
その自信は何処から来るのか。考えるでもなく、己の迷いからだといなほは自嘲した。
「それを俺がさせるとでも?」
「いや、させないだろうね。でも、君はおそらく……直前まで動かない」
そして、解放されれば勝機は十分にある。自身もまた相当に衰弱しているが、いなほの怪我はそれ以上に深刻だ。もしこのまま封印が解放されれば、高確率でいなほは負ける。
それはマルクの壊滅を意味するというのに。
「……」
いなほは、動けないでいた。
「私といなほさんは似ているよ」
鉄格子に背中を預けて、メイリンはいなほに断言した。
それを否定する言葉はいなほにはない。
でも違うのだ。お前と俺は、違えた。
「立ち向かうことは素敵だ」
メイリンが魔法陣を幾つも展開させる。それらが次々に刻まれた魔法陣に溶け込み、消滅させていく。
ある意味幻想的な光景の中、二人と一体は向かい合った。
ゆっくりとその魔力を四散させる鉄格子に逃げ込むように体重をかけていくメイリン。
それを迎え入れるように暗闇で微笑むヴァド。
そしていなほは、前に進む。
「でも、そんな当たり前をすることが、誰にも出来るってわけじゃない」
現実と戦えと、誰もが当然のように苦境で叫ぶ。
頑張れ、負けるな、目の前の壁を越えて行け。
だから、どうした?
「いなほさんも私も、きっと真っ直ぐなのには変わらないさ」
メイリンは後ろを見た。縋るようにヴァドへと繋がる鉄格子に魔法陣を叩きこむ。
「だけど、向かう先が違うんだよ」
貴方は進み。
私は逃げる。
その違いこそが、何よりも二人を決別させる違いに他ならなかった。
「立ち向かうのは怖い」
「戦うのが嫌だ」
「現実を見たくない」
だから逃げる。
「後ろ向きで、何が悪いの?」
最後の封印が解かれる。まるで枯れ木のようにヴァドを縫い付けていた杭が弾け飛んだ。
「あぁ、その暗黒を、私は愛でよう」
吸血王ヴァドが静かに立ち上がり、傍らに近付いたメイリンの肩を優しく抱きいれた。
ぼろぼろの黒のマントがメイリンを隠して、向こう側へと連れて行く。
「メイリン!」
いなほがその手を伸ばした瞬間、赤い線がその手を遮った。
咄嗟に引いた手に走る痛み。手の甲には斬られて出来た一筋の線が引かれている。
怒気をまき散らしながら睨む先には、右手の先から血を固めたような赤い剣を生やしたヴァドが立っていた。
「正義は君にある」
「あ?」
「だが、いつだって正しさと理路整然とした理由が全てだとは限らない」
人は、己が納得できないことに強い反感を覚える。結果としてヴァドの封印を、ただの自己満足と被害妄想で解放したメイリンの、その理由にすらなりえぬ理由は、誰にも理解されないだろう。
だがそれこそ個人のあり方ではないだろうか。
「滅茶苦茶でくだらなく、最後まで躊躇し、迷い、惑い、意味もない奇跡を信じて、その奇跡の使用に恐怖し、その場に踏みとどまり続けた彼女が選択した逃避というあり方を、彼女を意味不明と断ずる者達にわからせたくなどない」
己もまた魔族という理解されぬ存在だからこそか。それともまた常人には理解できない理由からか。ヴァドは、メイリンの生き方を肯定する。逃避という選択を喜んで迎え入れる。
「故に、親友の邪魔はさせない」
ヴァドが滑るようにしていなほに迫る。振り上がる右手の剣は、指先から枝分かれして五つの細い剣となった。
神速の一撃が走る。痛む体と沈んだままの気持ちで応じるいなほは。
「ふざ、けんな!」
それでも折れない。振り下ろされた五つの絶殺をまとめて掴みとり、いなほは力任せに引き寄せた。
「逃げてどうする! そうやって嫌なことから逃げて逃げて、逃げ続けた先に何があるってんだ!? そういうのはなぁ!」
魔族の膂力を遥かに上回るいなほの右腕が、紙くずのようにヴァドを再び鉄格子にまで放り投げた。
壁に強かに激突するヴァドを睨む。怒りの形相でありながら、何かを堪えるような表情でいなほは叫んだ。
「負け犬の遠吠えって言うんだよ!」
「負け犬で、いいですよ」
壁に押しつぶされたヴァドの服の下からメイリンが現れる。その体から噴出する黄色の魔力が、暗がりの牢獄を照らしだした。
覚悟は決まったのだろう。いなほと対するメイリンのその目には迷いなどなかった。
「私は! このどうにもならない今にとどまるくらいなら! 逃げるほうがマシなんだって思ったんだ!」
両手から魔法陣が展開され、一抱えはある氷の杭が召喚された。
それだけではない。後ろではゆらりと起き上がったヴァドが血の赤の如き魔力を放出させている。
「『戦いの力をこの身に』」
暴走する魔力が一つの意味をもたらされ固定化される。全身を強化したヴァドの周りにも召喚ようの魔法陣が幾つも展開され、ずるりと黒い剣が何本も飛び出してきた。
万全のG+ランクと、今だ本調子ではないが、それでも戦闘能力の殆どを損なっていないCランク。
対するいなほは初手から満身創痍だった。骨は砕かれ、臓腑はまだ癒着したばかり、斬り裂かれた傷も、動き続ければ開いて出血する。
もしも今のいなほの体調が万全であったならば、この二人を相手取っても勝利を収めただろう。だが手負いの現状では、勝てるかどうかわからなかった。
しかし下がらない。後退すれば、メイリンに見せた全てが嘘になるし、第一逃げる己など、許容できるわけがない。
「……やることもやらねぇで逃げる奴の言葉なんてな。薄っぺらでしかねぇんだよ」
理不尽から逃げることは罪ではない。だが、立ち向かわなければ先に進めないことから逃げるのは違う。
「お前の抱えてる壁なんざ! 立ち向かえば解決できることだろうが!」
こんな、魔族を使ったやり方をしなくてもいい。
自分を見ない家族なら、こちらから捨ててしまえ。
周りの期待なんて関係ないと鼻で笑え。
そんな、たったそれだけの簡単なことを、どうしてお前は!
「メイリィィィィィィン!」
言葉にならない激情を魔力に変えて、いなほの体が太陽の魔力を放出した。
直後、いなほは大地を踏み砕きながら突進した。これしか出来ないと、目の前の壁は破壊してやると、そんな思いを乗せて。
走る先、立ちはだかるのは暗黒の使者、吸血王ヴァド。
「どけぇぇぇぇぇ!」
「どかぬさ!」
拳と剣が激突する。瞬間、辺りに衝撃波が巻き起こり、既に意味を失くした鉄格子と壁の一角が吹き飛んだ。
唐突に広がった戦場の中心で、拳と剣を挟んでいなほとヴァドは睨みあう。
「今更彼女を呼び戻せるとでも!?」
「ッ……!」
「それは傲慢だな! そしてその傲慢が、君をこの瞬間までその場に踏みとどまらせた!」
互いに弾けあい、再び激突する。ヴァドは周りに召喚された黒い剣と、両手の指先から展開した剣を持っていなほに畳かけた。
全方位から襲いかかる刀剣の雨に対して、覚醒筋肉を使っても鈍いいなほは、普段の大ぶりな動きではなく、最小限の動きで対応した。
そしてその間にも舌戦は続く。いや、これに関してはヴァドがいなほを一方的に断じていた。
「終ぞ私が封印から解放されるまで動かなかった君が! 彼女に一体何を言うというんだ!? 街を陥れようとする敵であると知りながら、最後まで迷った君に何が出来る! 何を与えられる!」
いなほは何も言い返せなかった。事実、いなほはここに来るまで、言葉に出来ない躊躇いのせいで、結局封印の解放に至るまで何も出来ずにいたのだ。
襲いかかる剣の群れを迎撃しながら、内の悩みは加速する。その視界の隅に、じっとこちらの戦いを見るメイリンを捉えながら。
たった数度しか会ったことのない少女だ。何度も結論したように、いなほが好きなタイプではなかった。
なのに、それと矛盾するようにメイリンはいなほを惹きつけた。おそらく、エリスも同じように彼女に惹かれながらも、嫌悪を抱いただろう。
つまるところ。メイリンが言っていた通り、いなほとメイリンは似た者同士なのだ。
「……ッ!」
塞がっていた傷が開き、痛みがどんどん酷くなっていく。体の能力を三割しか引き出していないとはいえ、覚醒筋肉による消耗も相当だ。そんなに長くは戦えない。だが、答えのないまま振るう拳に意味はあるのか。
ヴァドの言葉は事実で、メイリンの言葉は真実で。いなほの今は無言と空虚だ。
何故、という疑問が渦巻く。渦巻きながら、答えなんてとっくに見つかっていることに気付いてもいた。
それを認めたくないわけではない。わかっているから、迷い、惑う。
だがしかし、ヴァドが解放された今、街で待つ者達のためにも、いなほは躊躇うわけにはいかなかった。
「確かにテメェの言うとおりだよ、ヴァド」
全身を休みなく駆け巡る痛みに朦朧としながら、いなほは淀みなく言葉を重ねた。
「だけどよ」
瞬間、襲いかかる全ての刀剣が、ヴァドの反射神経を超えた拳の雨に粉砕された。
「ッ……!?」
無言で睨み上げるいなほから発せられた殺気を感じて、ヴァドは咄嗟に距離を開けた。
いなほは追わずに、血濡れの体でメイリンと向かい合う。生気の抜けたその眼に、迷いを振り払った決意を宿して。
「引く訳にはいかねぇ。お前らが逃げるために全てをぶち壊すってんなら、俺はそんなお前らをぶち壊さなきゃならねぇ」
ゆっくりと、左腕は掲げられた。強く強く、己の最強を誇る拳に、万感の思いを込めて。
「今なら、お前の気持ちが少しは認められるぜ。メイリン」
ここに来るまで、いなほはその場に留まっている状態だった。何もしないまま、ただ状況が好転するのに期待するだけだった。
そうしてゆっくりと、底なしの沼にはまっていく。メイリンが先程までいた場所は、きっとそういう場所だった。
「どうしようもないと、選択もしないままその場に留まる……それは、一番最低で、最悪なやり方で……どうしようもなく、辛い」
人は、何か苦境に立たされた状況で何もしない者に、「逃げるな」と言う。
だが実際はそんな彼らは逃げてはいないのだ。何もせずに、その場に留まっているだけで、逃げるという選択肢すらとっていない。
だから今は、わかる。
「いけねぇのは、その場に留まることで、逃げることも、立ち向かうことも、どっちも一緒だ」
本当の逃避ならば、何もかもをかなぐり捨てるはずだ。何もかもをかなぐり捨てて立ち向かうと同じく、その行為を選ぶということは苦行に他ならない。
逃げちゃ駄目だと人は言う。逃げた先には何もないと。
だが本当に、逃げた先には何もないのだろうか?
「どっちも進んでいるなら、行く道が違うだけで、苦行なのには変わりない」
メイリンがいなほの言葉に続ける。
「立ち向かうという辛さも。逃げるという後ろめたさも。その先を乗り越えれば明るさが待っているはず」
単純に、いなほは逃げることを嫌い。メイリンは立ち向かうことを嫌った。
きっと、それだけの些細な違い。
「だからって、テメェらを逃がす道理はねぇし、テメェらのやり口が糞ったれなのには変わんねぇ」
いなほの瞳はもう迷わない。再び構え直したいなほは、今度こそメイリンとヴァドが間違っているとはっきり言えた。
その宣誓を受けて、メイリンも遂に動き出す。ヴァドの隣に立つ姿には隙などなく、最早つい先程まで見せていたあの普通の少女はいなくなっていた。
「誰に何て言われても関係ない。私とヴァドは逃げてみせる」
「俺は、俺を張りとおす」
だからそのために。
「「お前が邪魔だぁぁぁぁぁ!」」
逃避する者と、立ち向かう者が激突する。
まるで真逆のあり方でありながら、互いを排除しようとする様はあまりにも陳腐にすぎた。
「おぉ!」
いなほが飛び出すの合わせて、ヴァドがいなほを迎撃する。新たな剣は両手共に一本にまとめられており、へし折るのは容易ではないだろう。
その剣閃はミフネのそれに比べればあまりにも遅い。しかし今の体では対応に苦労する一撃は、充分にいなほを害するに足る凶器だ。
左右から迫る赤い軌跡を、いなほは両手を使って下からかちあげることで回避した。
万歳する形になったヴァドに構える。撃てば魔族であろうと一撃で致命傷となる拳は、放たれるよりも前に飛来した冷気によって止められた。
「ちぃ!?」
真横から迫る氷柱を後ろに下がって回避する。絶妙なタイミングで割って入るメイリンの攻撃に無駄はない。ヴァドの体を守るように五つの氷柱が浮かんでいた。
仕切り直しとなった対峙。いなほは隠しきれぬ疲労が汗と血となりその体に浮かんでいる。
激痛で油断するとすぐに意識がもっていかれそうだった。臓腑は痛み、手足が鉛のように重い。
それでも行く。全てを巻き込み逃避しようという馬鹿を打ち砕くために。
まだ、約束は、果たされていない。
「どうして立ち向かう?」
ぼろぼろながら、闘志が全く衰えぬいなほに、ヴァドは問いかけた。
「封印が解かれた今、私はこうしている間にも力を取り戻している。それがわからぬ君ではないだろう?」
ヴァドの言うとおり、戦いが始まってから、ヴァドの枯れ木の体は徐々に肉を取り戻しつつあった。
吸血王の名は伊達ではない。命の源としての意味の血液、それはあらゆる物体にも流れるものである。
無機物、有機物問わずに、ヴァドは生気を吸収する。どんどん砂となる迷宮の様を見ながら、いなほは軽く舌打ちした。
「だから、どうした。テメェが力戻して、俺が弱って」
それでも。
「俺が勝つのには変わりねぇ」
強烈なまでの自信がある。どんな相手だろうとも、自分が負けるなどありえないという自負が、ぼろぼろの体を突き動かす。無敵の肉体も、そんな主の意志に従うように、魔力を取り入れ力を漲らせた。
「力がある故の傲慢か」
唾棄すべきものとばかりに、眉をしかめてヴァドは呟いた。
「生まれながらの強者など、つまらない」
だが、美しい。ヴァドは不愉快の中に確かな憧れを滲ませた。
「いなほさん……」
「黙れ」
メイリンが何か言おうとするが、いなほは無理矢理断ち切った。道は分かれたのだ。いなほは進み、メイリンは逃げる。
「テメェらは弱っちい。情けねぇ腰ぬけだ。都合のいい言い訳を並べて、逃げることを正当化してやがる。あぁ確かに認めはしたが、理解は絶対にしてやらねぇ。テメェらは都合のいい道に縋ってるだけだ!」
そんな奴らには負けてやらない。初めから負ける気はないが、一層その思いが強くなる。
「逃げるってのはな! 結局そのまんまの意味でしかねぇんだよ! 現実と戦わねぇカスが粋がってんじゃねぇ! そんな覚悟なんて情けねぇだけだ! だから無理矢理にでもテメェのケツを張り飛ばして向き直させてやる!」
吼えて、叫び、断ずる。一気に膨れ上がった魔力が暗黒の世界を照らし出した。
十割の力を解放する。動けるのは一瞬だが、構わなかった。
「あぁ一緒だろうよ! 進むって点じゃ俺とテメェは同じだ! だけどよ、テメェは卑怯だ! 全部かなぐり捨てて、それが正しいなんてありえるわけねぇだろうが! 後ろめたさがあるんだろ!? そんなんで本当に真っ直ぐって言えるのかよ! 逃げただけで何か変わるって言うのかよ! 立ち向かって、その先に真っ直ぐなテメェがいるはずだろ!」
「立ち向かって! それで自分が砕けたらそれこそ意味がない!」
「これがいいって堂々と誇れるテメェであることが! 逃げた奴が胸張れるのか!? 誇れるのかよ!」
「誇りなんて……! それで倒れたら無駄よ!」
「それはテメェが卑怯だからだ!」
「力があるから吼えられるくせに!」
「その力で! テメェの性根を叩き直してやるよ!」
互いの主張は平行線をたどった。どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか。どちらも正しいし、あるいはどちらも間違っているのかもしれない。
いずれにせよ、言葉が意味をなさぬなら、後は力を持ってしか語れない。
「俺は、俺を張り続ける!」
「私はこんな世界、逃げ出してやる!」
「だから! 俺は!」
「だから! 私とヴァドは!」
刹那、三つの光が飛んだ。
逃げるように走り出す赤と黄色。
立ち向かうように突き進む太陽。
その激突の結果は、あまりにもわかりすぎていた。
「おぉぉぉぉぉ!」
眼前のヴァドが剣を振るうよりも、メイリンが氷柱を放つよりも速く、いなほはヴァドの懐に潜り込み拳を突きいれる。
激痛とともに放たれた弾丸は、吸血王の体は容易く貫くだろう。今のいなほは、ミフネとの最後の激突ほどではないにしろ、ランクにしてBランクに至る程の能力を発揮していた。
ならば起き上がったばかりのCランクと、学生でしかないG+ランクに勝てる見込みはない。
ヴァドを殺し、強引にでもメイリンを連れ戻す。いなほは加速した思考の中でそんなことを思いながら、最大最強、今持てる最高の一撃を。
「ヴァド!」
その未来を思い描いたメイリンが、限界を超えていなほとヴァドの間に割って入ってしまった。
拳はもう止まらない。メイリンの予想外の動きに驚愕する暇もなく、ヴァドの壁となったメイリンの体ごと、いなほの拳はヴァドを貫いた。
「……メイ、リン」
吹き出す鮮血を体に浴びながら、いなほは信じられないものを見るようにメイリンを見た。
「これ、で……二度目です、ね。驚いた、の」
せり上がる鮮血を堪え切れずに、メイリンの口からおびただしい血が溢れだした。
「なんで……テメェ……」
わかっていたはずだ。自身の体を盾にしようと、いなほの拳を抑えられないことくらい、わかっていたはずなのに。
「これも、一つの逃避だ、少年」
ヴァドも血を零しながら、しかし淀みなくいなほの疑問に答えた。
その答えにいなほは固まる。それはつまり、それは。
「初めから、テメェらは……」
「あるいは、それもありだと思っただけだ」
死が近づいているというのに、まるでそれが何でもないとでも言った感じでヴァドは答えた。
そしてゆっくりとメイリンの肩越しにいなほの手を掴むと、その手を引き抜き二人は寄り添うように抱きしめあった。
その二人を、いなほは血に濡れた左腕を力なく下げながら見つめる。ポタポタと指先から滴る血の音が不快だった。
先程とは別の意味で、言葉が出ない。
「ごめん、な、さい」
メイリンはヴァドのように冷たい青白になった顔を、暖かな微笑みに変えていなほに謝罪した。
謝るなと叫ぼうとして、強引に歯を食いしばって堪える。最早、時間はないこの状況で、挟める口はないと悟ったのだ。
そんないなほの気遣いにメイリンとヴァドはやはり笑った。
「さいていなおわりかただね。ヴァド」
「あぁ、でもこれで」
うん。メイリンは花のように明るく笑った。
「もうだれも、わたしたちをおえはしない」
直後、二人の足元に展開された魔法陣から炎が噴き上がる。燃え盛る紅蓮は、さながら二人を祝福する暖かな日差しのようですらあった。
業火に濡れて溶けながら、溶けて吹き飛べばいいと、そんな願いが炎を焦がす。
「ッ……メイリン! メイリン!」
炎越しにいなほは叫んだ。約束があったのだ。張りとおした己を見せてやると、そしてお前に張りとおすことの輝きを見せてやるのだと。
その思いを込めて叫ぶ。まだ、まだ何もしていない。なにも終わってはいないというのに。
この結末は、何だというのだ。
メイリンは赤い世界の中、陽炎となり揺れ動くいなほの必死な顔を見返した。
悲しげで、楽しげで、申し訳なさそうで、ざまぁみろとでも言いそうな。
全部が全部、あべこべのまま。
「さよなら」
全てが真紅の中に消え去った。
「……あ」
伸ばした手が届くよりも速く、炎は全てを燃やして消滅した。手に残るのは炎の残滓だけで、全てが幻だったように跡形も残ってない。
全てが消え去ったのが信じられないと、いなほは目を白黒させて、一人残されたその場所で伸ばした掌を強く握りこんだ。
「クソ、クソぉ!」
虚しい遠吠えが迷宮の暗闇に響き渡る。
感情が爆発していた。
喜怒哀楽の全てが混ざり合い、咆哮という形で吐き出された。
「う、おあああああああああ!!!! ああああ!!!! ああああああああああああああああ!!!!!」
膝が、折れる。これまで堪えられていた激痛に耐えきれずに両手を地面についたいなほは、泣くでも怒るでもなく、ひたすらに叫び、拳を震わせた。
「ああああ! 畜生がぁ! クソ……! クソったれぇぇぇぇ!」
死という究極の逃避を完了したメイリンとヴァドにはもう追いつけない。殴ることも罵ることも、出来はしない。
いなほは、自分と似ている少女を救うことが出来なかった。逃げるというベクトルに特化した彼女の方向を、自分と同じ目線に立たせることに失敗した。
「勝ち逃げかよ……!」
結果を見れば、そうとも取れる結末だった。彼女は逃避という選択を最後まで押し通した。やり方は間違えていても、理由も矛盾していても、それでも選択したことを、いなほがこれまでそうしたように、メイリンは貫き通した。
赤く濡れた左腕はまだ温かい。それだけがメイリンとヴァド、二人の愚か者の残した全てで、いなほは抱きしめるように左腕を抱え込んだ。
「俺は、俺は……!」
逃げるメイリンを、無理矢理に連れ戻すと決意したはずだった。
その裏で、この少女は決して変わらないと思っていたのではないか?
「俺ぁ……!」
最後まで、決意することが出来なかった。それがこの終わりを迎えさせたのだ。その瞬間まで、いなほは揺れてしまった。最後の最後で、犯してはならない過ちを犯してしまった。
何かが腹の奥からこみ上げてくるのを感じた。だがそれを吐きだしてはならないと強引に飲みこむ。がくがくと震え続ける体を抑えつけ、暫くの間蹲った。
だがいなほは倒れない。軋む体が痛くても、心がそれ以上に辛くても、顔を上げたいなほの瞳には、言葉に出来ない決意が漲っていた。
「……メイリン」
焼け焦げた一角を見ながら立ち上がる。そして次に血濡れの左手を開いて、その掌をいなほは見つめた。
香る血の匂いにむせそうになりながら、数秒の後、力強く握りこむ。
「俺は、俺を張りとおす」
手向けの代わりに言葉を贈る。お前が憧れて、出来なかった生き方をいつまでも証明してやる。
そして、立ち向かう先の栄光こそ、逃避よりも輝かしいものだと証明するのだ。
それでも、まだ震えそうになる体を我慢するのは難しかった。だから咄嗟に、いなほはポケットから札を取り出すと、魔力を通して回線を繋げる。
「いなほにぃさん?」
札から漏れたのは、慣れ親しんだエリスの声だった。いなほは安堵するように目じりを緩めると、足を引きずりながら崩壊した迷宮を後にしだす。
「いなほにぃさん?」
返事がないのを訝しみ、エリスが再びいなほを呼んだ。「あぁ」と簡素に答えを返すと、今度はエリスの言葉が途切れる。
札の故障か? いなほは途切れた音声を拾おうと、札に耳を当てた。
「終わったんですか?」
そっと、悲しげな声がいなほの耳を打つ。
「……あぁ。殺した」
この手で、殺めた。その事実を告げるのが、難しかった。
「うん。そっか」
エリスの返事は、素っ気なかった。思わず苦笑しそうになったいなほは、すすり泣く声を聞いて眉を潜めた。
泣いている。札の向こうで、エリスは押し殺すように泣いていた。
「なんだ? 心配でもしてたのかよ」
「違う、違うよ。いなほにぃさん」
安堵の涙と勘違いしたいなほに、エリスは違うと訴える。
だって、と続いた言葉に、いなほは足をとめた。
「だって、いなほにぃさん。泣いてるから」
驚きのあまり足を止めて、すぐに笑う。「けけ、俺が? 何勘違いしてんだよエリス」
そう明るく茶化すいなほを、エリス何度も違う違うと繰り返す。
「嘘だよ。いなほにぃさん。声が震えてるよ。私、わかるよ?」
家族だから。血は繋がらなくても、魂を繋いだ二人だから。
「ってもマジで泣いてなんか──」
「だから、私が代わりに泣くの。いなほにぃさんは辛いことがあっても、悲しくても、全部全部我慢して、立ち上がるから……」
その痛みを、代わりに表すのだ。
「でないと、いなほにぃさん。自分が泣いてることにも気付かないよ」
それを最後に、エリスは静かに泣き始めた。理由なんて話していない。何があったのか何て知りもしない。
でもエリスは確かにいなほの心の叫びを聞いていた。その感情を、鈍感な青年の代わりに訴えた。
「ごめんね。ごめんね」
同時に、その場に居られなかったことをエリスは謝罪した。共に歩くと決意したのに、その場にいられなかった事をエリスは恥じて、悔み、行けぬ己を恨んだ。
そして、そのことを謝罪する卑怯な自分が惨めで、情けなくもあった。出来るのは代わりに泣くだけで、自分は、いなほの役に立っていない。
「エリス……」
札から聞こえる謝罪と泣き声にどう答えればいいのか。いや、答える必要はないのかもしれない。
エリスは、自分のために泣いている。他ならぬ自分のために。ならばその涙を受け止めるのが今すべきことなのだと、いなほは再び歩き出しながら、迷宮を出るまでその涙を感じ続けた。
次回、次へ。