第五話【対峙と離別】
アイリスと連絡を取ったいなほは、その足でそのままカルファからもらった情報の通りに鍛錬場に到着した。
静かに佇んでその小さな道場とも言えるその小屋の扉の前に立つ。その内心に渦巻くのは、これまで感じたことのない感情だった。
この感情をどう言葉にすればいいのかわからない。失望か、不安か、後悔か、未練か、いずれにせよ良い感情でないことは確かだった。
どうして今更気付いたのか。いや、あるいは気付かない振りをしていただけなのかもしれない。たった数度しか会ったことがないのに、どうしても惹かれて仕方なかった。いつもなら気に入らない奴は一切かかわらないか、殴り倒すだけだというのに。
何故あんな後ろ向きな少女に見せつけようとして、今も見せようとしているのか。
そんな答え、もう出ていたではないか。
認めるしかない。認めざるをえない。いなほには力があって、彼女には力がなくて。
きっと、それだけの差で、その在り方は、こんなにも裏返る。
「……俺ぁ」
決意をしたというのに、何をどうすればいいのかわからなかった。
別に、何かが起きたわけではない。脅迫状を送られただけで、それが遂行されなければただの脅しと言うだけですむ話だ。
だから、水面下の今、解決するだけなら悩む必要はないというのに、何故こうも負の感情が己を苛むのだろう。
──いや、予感があるのだ。もう水面下ではすまされない。
決めた、と彼女は言っていた。それはきっと、このぎりぎりまで立ち止まっていた場所から、一歩踏み出すという決意。
その決意はきっと、いなほが求めていたものとは真逆の形だろう。
いなほは静かに扉を開ける。何も置かれていないその鍛錬場の中央、そこに、少女は静かに佇んでいた。
「メイリン……」
「……いなほさん」
振り返ったメイリンには、最初に感じられたあべこべな印象はもうない。ありのまま、素のままの少女がそこにいた。
年齢と比べて大人びたその容貌は、可愛いというよりかは綺麗である。バラのように真っ赤な瞳と、高く綺麗な鼻は、まるで人形細工のように絶妙なバランスに位置していた。学院では珍しい肩で切りそろえられた黒い髪が揺れれば、その柔らかそうな触感と同じように優しい匂いが広がったようにさえ思えた。体は細いが、しっかりと女性の部分を強調した体つきをしている。
ようやく、いなほはメイリン・メイルーを見つけた。その赤い瞳を真っ直ぐに見る。おびえもせずに見返されるその視線を感じて、込み上げてきたのは何故か悲しさだった。
「……俺は、ここにいるっていう魔族を倒しに来た」
「はい」
「だから」
だから、なんだというのか。病室にメイリンが来てから、無様にも動揺し続けている自分に苛立ちが募る。揺らいでいる。足元がおぼつかないのは、決して痛む体だけのせいではない。
そんないなほとは対照的に、メイリンは落ち着いた様子で入り口に立ついなほの側に歩み寄った。
「行きましょうか」
そのまま抜き去られて、メイリンは鍛錬場を出て行く。
歩みに迷いはない。そして、今更交わす言葉に意味はない。いなほは跳ねるように歩くメイリンの背中に追いつくと、その隣で共に歩き出した。
「知ってます? この時期、美味しい果実が沢山取れるんですよ?」
「あぁ、そういやあの見舞いの奴、軽く食ってみたが結構美味かったな」
「でしょう? ふふ、せっかくなので奮発してちょっと高いのを買ったんですよ。いなほさん、何となくだけど美食家っぽいから」
「なわけあるかよ。美味いものが好きなだけで、美食家なんて呼ばれるほど大層なもんじゃねぇよ」
メイリンは吹き出しそうになるのを堪えつつも、耐えきれずに肩を揺らした。
柄の悪い不良と、明るい少女のなんでもない日常風景がそこにはあった。
とりあえずどうでもいい会話をしながら。
とりとめのないことに喜んで。
そんな、普通の日常が、あまりにも歪すぎた。
「例えば、私にいなほさんのような力があったなら、どうだったんでしょうね」
メイリンがそんなもしもの話を、明るく、しかし声を落として口に出した。
「そういうの、好きじゃねぇよ」
今に悔いがないから、もしもの話を語る必要がない。そんないなほの考えを理解しつつ、それでも言いたくなる気持ちがメイリンにはあった。
「きっと、力があったら、もっと違っていたはずです」
全てを力の有無で決めるのは間違っているだろう。別の道を探せばいいのだが、そういった考えがメイリンにもいなほにもない。
縋るべき拠り所以外を選択する気にはなれないのだ。
「でも、私には力がなかった」
だから、と続けた言葉をメイリンは飲みこんだ。それを言ったらきっと、この暖かい今が終わってしまうと感じたから。
いなほも、追求することなく沈黙した。返す言葉もないし、必要ない。
それでも、まだ言える言葉はあるはずだ。
「力があるからどうか、力がないからどうか、他の奴から見たらくだらねぇけどよ。それしかねぇんだよな……」
いなほは思い返すように空を見上げた。透き通る青い空が視界を埋め尽くすが、脳裏に過るのは灰色の空模様だ。
今にも泣き出しそうな空は、いなほの、あるいはメイリンの心境そのものか。
「……そうですね」
メイリンも惹かれるように空を見上げていた。
互いに肩を並べて歩く。その行先は、学院が誇る地下迷宮。
その巨大な門の前に立ったいなほとメイリンは、どちらが言うでもなく静かに門をくぐり抜けた。
「初めてこの学院の迷宮に入ったとき、少しだけドキドキしました」
「ビビったのか?」
「どちらかというと、期待、でしょうか。命の危険があるというのに可笑しい話ですけどね。でも、未知への探求心とか、そういったのがくすぐられたのは確かです」
その喜びがあったから、すぐにメイリンは迷宮という箱庭に惹かれるようになっていた。
あるいは、そこから動かないという迷宮の在り方に親近感を覚えたのかもしれない。いずれにせよ、メイリンは迷宮を楽しんだし、楽しんだからこそ、有名な噂のことについては直ぐに知った。
「初めはきっと、好奇心と……くだらない願望でした」
どんどんと進んでいく。並んで歩く二人の足は躊躇いなく、一つの場所に向かって進んでいた。
道中を阻む魔獣も容易に蹴散らしながら進んだ先、二人はある一点で歩みをとめた。
何の変哲もない通路、ではない。あからさまな罠の仕掛けられたその場所は、いなほが最下層まで落下することになったトラップである。
そこに来た理由を語る必要はもうないだろう。
「何もかも、なくなってしまえばいいやって。酷い矛盾ですけどね。周りの期待が嫌だけど、期待を裏切りたくなくて、なら全部なくなってしまえばいい……そんなの、子どもですら考えない」
だがそんな考えに至って、縋るようにある一つの噂を信じて迷宮を突き進んだ。
「学院の迷宮には、魔族が一体封印されている。いなほさんも、その噂を頼りにしてきたんですよね?」
「……あぁ」
肯定の言葉に、微笑みを返すメイリンは、そっと下に続く罠の作動スイッチを撫でると、体から魔力を解放した。
「『浮遊』『下降』」
直後、メイリンは罠のスイッチを作動させた。いなほとメイリンの足元が開き、暗闇が口を広げて二人を飲みこむ。
今度は焦りもなく、いなほは自由落下に身を任せようとして、その手をメイリンが優しく掴んだ。
その顔に浮かぶのは驚きだ。手に感じる重量は、いなほの見た目以上の重さである。まるで大きな何かを無理矢理圧縮でもしたかのようだった。
「いなほさんって意外にデブ?」
「重いのがデブならそうなんじゃねぇの?」
「そんなものですかね? 『浮遊』『下降』」
メイリンはいなほにも同じ魔法をかけた。淡い光に包まれて、ゆっくりと落ちて行くいなほの手を、メイリンは名残惜しそうに手放すと、向かい合うようにして対峙した。
男女が暗がりをゆっくりと落ちながら向かい合っている図は、傍から見たら随分と滑稽に映るだろう。その様を思い描いて、メイリンは堪えきれずに吹き出した。
「今更ですけど、私達、不思議ですね」
「何がだ?」
「だって、会ったことなんて殆どないのに……」
メイリンはいなほに向かって手を伸ばした。
「こんなにも、近いですよ」
だが、触れようとしたその手は、直前で引っ込んだ。
近くても遠い、そんなことを思い知る。
「そうだな」
いなほはそれを理解しながらも、メイリンの言葉に頷いた。
「なんか話が沢山飛びましたね……」
「別にいいだろ。そういうのが、普通ってもんだよ。道筋立てて話すなんて、そう都合のいいもんじゃねぇ」
「いなほさんも案外まともなこと言うんですね」
「たまにはな」
それでも恥ずかしそうに顔を逸らす仕草が可笑しくて、メイリンはまた笑いだした。
透明感のある笑顔だった。まるでそう、死を前にした病人のように儚いその笑顔が、いなほには見ていられない。
「でもそうですよね。何もかもに誰もが納得する理由があるなんて、そんなの、絶対におかしいです。私の理由は、滅茶苦茶で、理解されないかもしれないけど……」
「着くぜ」
メイリンが何かを言う前に、いなほはあえて遮るように呟いて下を見た。
ゆっくりと近づくのは、この罠にはまってあえなく死んだ者達の白骨死体だ。
それらを踏み抜いて二人は着地する。やはり、魔獣の気配は少ない。最下層という最も到達が困難な場所であると言いうのに、まるでここだけは迷宮から切り離されているかのようであった。
「ここは、この落とし穴からでしか来ることのできない場所です。私もこれを見つけたのはほんの偶然だったんですけどね」
だがその偶然が、メイリンに一つの道を示したのだ。
「私は、これからヴァドを甦らせます」
次回、進むこと、逃げること。惑う男の迎えた結末。