第十八話【俺は、俺を】
何が起きたのか分からなかった。食らった当人が、何よりもその異常に当惑する。
胸から溢れだす鮮血。これまでの浅い傷とは違い、肉を抉るその一刀に、いなほは堪らず後退した。
「逸刀、開眼」
ミフネが小さく呟く。振り抜かれた刀はいなほより溢れた血によって濡れ、まるでその血を吸っているかのように見えた。
困惑。今、いなほは間違いなくミフネの斬撃を回避したはずだった。その閃きの先を予測して見せたはずだった。
だというのに、避けきったはずの刀はいなほの体を切り裂いた。激痛を訴える体の傷をいなほはなぞる。血に濡れた掌を見つめて、何が起きたのかわからないからこそ、笑う。
「おもしれぇ」
「その余裕。いつまでも持ってられると思うなよ」
ミフネはそう言うやいなや、自らいなほに向かって飛びかかった。いなほのように大地を砕く破壊的な踏み込みはない。だが音もなく、空気のような軽やかさで飛んだミフネはいなほを超える速度で駆け、間合いにいなほを収めると同時、下段から断斬を払った。
見えぬ刃の軌道をいなほが再び描きこむ。その太刀筋のままに、いなほは体をずらして回避して──再び、出血。今度は肩を大きく斬られた。
「ぐぅ!?」
「斬、斬」
立て続けにミフネが畳みかけてくる。次は正中線上、斜め上よりの軌跡。
回避。
出血。大腿を斬られる。
そして振り抜き様に返される刃、壮絶な死の予兆。
「クソがぁ!」
「斬、斬、斬」
下から伸びてくる刃。赤く濡れたその刀身は死への呼び水。原理もわからずに食らい続けるその現状。リズムが狂ったその演舞。辛うじて避けたつもりで切り裂かれる肉体。大きく後ろに揺らぐいなほの体、ミフネは激痛に顔を歪めるいなほとは対照的に、爛々と目を光らせて、その口を三日月に歪ませた。
刈り取れるその歓喜。研鑽の全てを出しきり、それを持ってこの極上を食い殺せる狂喜。
劇的に幕を斬る。斬鉄斬心。斬り捨て馳走。今こそ秘奥の限りを尽くしきらん。
「神楽逸刀流……」
苦し紛れに放たれたいなほの拳を刀身で受け流す。大きくバランスを崩すいなほから一歩引き、真横に構えた断斬をいなほに向ける。
奔る。先の突きを凌駕する勢いで駆ける断斬の鋭利。神速を超える。速度をすら禁じえるそれはすなわち絶速。速さも絶つ刃の揺らめきが、今度こそその刀身を深紅に染め上げんと迸る。
だがただやられるわけにはいかない。咄嗟にバランスを戻し、いなほは恐怖すべき刃の軌道を読み、そして絶句した。
「な……」
描かれるのは四方八方ありとあらゆる方角より襲いかかる刀の映像。逃れる術なき雨霰の剣雨。
これこそ逸刀の真髄。己の技術の全てを布石に放つ、イメージという名の牢獄。
斬撃空間乱れ突き。この永劫刹那の時の中で、我、阿修羅へと至り着く。
「奥義、修羅永劫」
いなほが描いたイメージの中を突っ切ってミフネが出る。全ての像が集約され、前方に集まったミフネに気付くが全ては遅い。
迎撃も、回避も、いずれも許さぬ神速と。
迎撃も、回避も、全てを許さぬ想像の檻。
「ご、ふ……」
右胸に突き刺さった刀が、そのままいなほの背中から飛び出す。修羅の一撃に捕らわれたものの末路。類まれな才能を持つがゆえに、当たらざるを得ない至高の一撃。
だがミフネはそこで容赦はしない。刺した刀をそのままに、さらに切り捨てるために腕に力を込める。
いなほはミリミリと切り裂かれていく己の体を自覚して、それよりも早く後ろに飛んで刀を引き抜いた。
ずるりと抜けた刃が勢いのまま上に振り抜かれる。もしあのままだったならば、体を貫いた牙がそのまま体を引き裂いたであろう。
だがダメージは決定的だ。右胸から溢れた熱血は、そのまま口よりも流れ出した。上手く呼吸が出来ない。
「いなほにぃさん!」
エリスが今にも闘技場に乗り出さんと立ち上がる。その悲痛な叫びを聞き、いなほはよろめき倒れそうな体を無理矢理踏ん張らせた。
痛みが全身を駆け巡り、吐血する。胸の傷を抑える意味はない。それにそんな余裕はない。
「斬斬斬斬斬」
ミフネは止めを刺さんと走り出した。休み、体勢を整えさせる余地など与えない。何処までも徹底して勝ちを取りに来るその姿勢が、いなほには嬉しかった。
圧倒的に早くて、圧倒的に巧みで、ほぼ全ての能力で自分を上回っている敵が、全力を持って潰しにかかるこのスリル。
たまんねぇ。いなほは真っ赤に染まった口を弧にしてみせて、拳を握った。
「ミ、フ、ネェェェ……!」
呼びかけの答えは斬という音。避けきれずに二の腕から出血。最早苦し紛れの反撃すら叶わない。神楽のリズムに飲まれてしまったいなほには、あらゆるタイミングをことごとくずらした逸刀を、その才能が故に抜け出せないのだ。
神楽逸刀流。その精巧で完璧な剣術は、三百に及ぶ型から成り立っている。その全てを使いこなすことによって、あらゆる状況に応じることが可能になるのだ。
そのために、彼らは型をひたすらに反復練習する。それは自分なりの型の使い方をこなすためではなく、文字通り型の通りに剣を扱うようにするためだ。
一ミリの誤差もなく型を扱うこと、これが神楽を扱うに当たって最も重要なことだ。そして完璧に動きをマスターしたのならば、次は延々と同じリズムで刃を振るえるようにする。正確な型の軌道を、一定のリズムで刻めるようにする。
そうしてまで得た誤差なく、完璧に刻みこまれた動きとリズム。これは大抵の相手ならばその正確無比な動きに負けることだろう。事実、神速の太刀と動きには追いすがるものはおらず、殆どの者は抗いようもなく敗北する。
だが、中には当然例外もいる。神楽の最適最速の型に対応する武人。そのような者が相手ならば、逆に完璧な型とリズムは付け入る隙となってしまう。そう、いなほが戦っている最中に行っていた攻撃の予測。完璧のために見切られる。神楽は、同等以上の敵に対してはそんなとんでもない弱点があったのだ。
そしてその弱点の通りに、ミフネの太刀筋は読まれ、反撃されることになった。リズムと正確無比な型の動きに合わせて舞い踊るいなほ。流れに身を任せてその流れを断ち切る。成程、神楽を打ち破るには当然とるべき手だろう。
だが、神楽逸刀流の恐ろしさはそこからであった。読まれ、見切られた三百式ある神楽。
しかし忘れるな。敵手が神楽のリズムと動きを理解している以上に、使い手こそがそのリズムと動きを正確に理解しているのだということを。
逸刀。それは神すら楽しませる舞いに合わせて踊る者達に、おぞましき凶手を与える絶技。
神楽のリズムと動きに合わせて動く相手の動きに合わせて動くという、想像を絶する技術だ。
当然、そのためにはぎりぎりまで神楽のリズムと動きを崩してはならない。攻撃が予測され、相手が見切ったと思ったその刹那、ミフネは相手の呼気と動きに合わせてそのリズムと動きを微妙にずらす。
結果、相手の動きに合わせて動いていたつもりのいなほは、その『動きに合わせるという行為を見切られる』という事態によって、裂傷を負うことになる。
さらにこれを突き詰めていけば、先程放った奥義のように、あらぬイメージを相手に叩きつけることすら可能となる。いなほは気付かないだろう。相手の動きを読んだのではなく、相手の動きとリズムを沁みこまされたという事実に。
神楽を経て逸刀へと至る。故に神楽逸刀流。完璧を不協和音で崩壊させることで敵を討つことこそ、この流派の奥義である。
そして、類まれな吸収能力で神楽を取り込んでしまったいなほにとって、まさにミフネの逸刀は最悪の相手であった。
「がぁ!?」
まただ。また避けきれなかった。今度は腹を浅く斬られたいなほは、それでも油断なく己を追い詰めてくるミフネに背筋が凍りつくのを感じた。
単純な技量の差で敗北するというのは、これまでの人生で初めてだった。力が通じない。速さと、技の巧みさが違いすぎる。一撃当てれば状況を変えられるのに、いなほの一撃は討つ暇すら与えられない。
再びの神速。脳裏を走るビジョン。何故か三つ。斜めが二つに横が一つ。三つの線のどれが本物の一撃か分からない。
「お、おぉぉぉ!」
一か八かだ! いなほは真横の線に狙いを定めて叩き落とす。奇跡的に当たった剣閃。辛うじて受け流したが、やはりイメージと違うその太刀筋は手の甲を傷つける。浅い出血。痛み。それより動け。いなほは千載一遇のこの機会を逃さずに踏み込み、目を疑う。
眼前に広がるイメージの剣群。先程の突きと同じ状況に陥る。
つまり先の攻防はこの布石。
「修羅永劫」
ミフネの声が朗々と響いた。来る。いなほは襲いかかるイメージから逃れるのではなく、真っ向から対峙する。周囲を取り巻く万の幻想。本物は一つ。いなほは背後のイメージは全て無視した。本命は正面の全て。その全てのイメージを回避するには、背後の剣群へと突撃するのがベストだが。
「逃げるかよぉ!」
「ッ!?」
いなほはあえて真っ直ぐに突撃した。自身の想像とは言え剣の群れに突撃する暴挙、ミフネも流石にその行動は予想外だったのか目を見開くが、技に入ったために止まることは出来ない。
そして再び、全ての像が一つになる。下段からの掬いあげ、狙いは股ぐらを一直線。当たれば右と左で泣き分かれの閃光を、いなほは避けるでもなく、拳を真下に向けて振るって迎撃した。
「うるぁぁぁぁ!」
右の拳と断斬が激突する。全てを打ち砕いてきた拳か、全てを切り裂いてきた鋼か。
勝敗は明白。肉が鉄に勝つなどあり得なかった。
斬鉄斬心、技量と技巧の果ての一閃は、鋼の拳すら切り裂く。指の間を抜けて拳に入り込んだ断斬は、鋼の拳を裂いて進む。四指を包む親指が斬り裂かれて虚空に舞った。それでも止まらぬ斬撃は、手の甲を完全に二つに裂き、遂に手首まで侵入を果たす。
分かりきった結果。究極に近い刃を止めることは叶わず──だがいなほの拳も鋼すら超えてきた不屈の武装。
「ぬっ!?」
手首まで斬り裂いた刃が、それ以上進めずに停止する。腕を切り裂くはずだった自身の渾身が止められたという事実への驚愕。切り裂けど、断ち切るには至らなかったことにミフネは僅かに動揺した。
心鉄金剛。劣化したとはいえ神すら切り裂くその刃すら、無敵の筋肉の全てには至らない。至らせない。
何故なら、俺の拳は最強だからだ。その屁理屈こそ、いなほに刃へと向かわせ、なお且つ防いでみせるという奇跡を成し遂げさせたのだ。
そして僅かな動揺を見逃したりはしない。今度こそ千載一遇。肉を切らせて骨も断たせて。
「テメェをようやく捉えたぞ!」
右手にめり込ませた刀身を筋肉の締めつけで抑えつける。引き抜こうにもいなほの肉の収束は、一瞬だがミフネの牙を行動不能にさせる。
そして股ぐらの殺意を乗り越えて、遂にいなほは完全な踏み込みを果たす。闘技場の外にいるエリス達の体がその一歩に揺れた。大地すら悲鳴を上げる筋肉の暴虐。貪るようにして得た力を練り上げて肥大させ、無傷の左拳一点へと集約させる。
裂かれた親指が地面に落ちるよりも早く、左の拳が加速した。血に濡れた剥き出しの肉体が得られたエネルギーによって膨れ上がる。背筋が盛り上がり、上腕が脈動する。命が爆発した。
速さも劣る。
技も劣る。
だが、俺の五体はテメェより勝ってる!
「るぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「ッ!」
ミフネの動きは僅かに遅かった。断斬から手を放そうにも、既に弾丸は目の前まで来ている。
回避も、防御も困難。
だが、やらなければミンチの出来上がりだ。
ミフネは咄嗟に陰刀を抜きはらい拳の射線上に構えた。そんなことに構わずいなほの拳は止まらない。
拳がミフネの刀に触れた。そして、その勢いのまま刀ごとミフネに向かって拳は突き進む。
刀を支える右手の筋肉と骨が音を立てて砕けて弾けた。抑え込もうとするだけでこの威力。ならば、直撃は死亡確定。
だから抵抗しない。ミフネは胸元に吸い込まれる拳に逆らうことなく、甘んじてその拳を受け入れた。
ミフネの体が空を舞った。断斬から手を放したミフネは、避けることすら叶わず吹き飛ぶ。
闘技場の床を跳ねて、しかし勢いは止まらず場外に飛び出て、その先にある壁に激突してようやく動きを止めた。
爆発でもしたかのように壁が弾ける。瓦礫が舞い散り、その近くにいた観客から悲鳴が上がった。厚さ数メートル以上はある壁の一角が倒壊するほどの威力。最早生存は絶望的であり、現に壁が吹き飛んだことにより舞いあがった砂塵が掻き消えると、そこには指先一つ動かさず壁に寄り掛かるミフネがいた。
原形をとどめていることだけでも奇跡だろう。爆撃よりも破壊力のあるいなほの拳を受けて、その程度で済んだ。
だが奇跡は終わらない。崩れ落ちて動かなくなったと思えたミフネは、なんとゆっくりとたが静かに起き上がってみせたのだった。
「チッ……」
いなほが舌打ちをしながら、右手に深々と刺さったままの断斬を抜いて放り投げる。そしてシャツを脱いで出血が激しい右手に巻きつけて、落ちた親指を拾ってエリスのいるほうに放り投げると、一歩一歩ゆっくりとミフネに向かって歩を進めた。
本来ならここで試合は終了だ。場外に出たミフネの敗北にて決着。
だというのに、試合が始まってすぐに外に逃げ出した審判は、未だに戦意を滾らせる二人を止めることが出来なかった。
誰にも止めることなんてできない。観客にも、エリスにも、アイリスにだってこの戦いは止められない。
闘争本能の赴く獣の食らい合い。試合の決着で終わるなど、許されるはずがなかった。
次回、この零秒の先の果て━━