第十五話【引くこと、進むこと】
逃げて逃げて逃げ続ける。オーク共に今許された生存への道はそれしかなかった。
魔獣、という知能のない獣としてカテゴライズされている彼らにも、当然ながら生存本能というものは存在している。だがH-という、常人なら抗えぬ能力を持つ彼らが敗走するということは基本的にありえない。
だが基本という常識は、常識を超えた化け物には通用しないのだ。
逃走するオークの一匹が反転する。逃げるのは叶わないと判断しての、決死の攻勢。しかしそれもまた意味のないものでしかなかった。
「■■■■ッッッ!」
襲いかかる影に手に持つ石作りの棍棒を振るう。だがそれは影を捉えることは出来ずに、虚しく空を裂いた。
「遅い」
影が呟く。オークの背後にぬるりと回り込んだ影、メイリンは、掌に顕現させたままの氷柱をその後頭部に突き立てた。
並の刀剣を凌ぐ鋭利な刃は、分厚い脂肪に覆われたその肉を切り開いて脳髄を貫通する。だけでは終わらず、直後、氷柱に内包された魔力が破裂して、オークの体を内部から凍り尽くした。
「■■■■ッッッ!」
その背後に新たなオークが飛びかかる。仲間の死すら踏み台にして攻撃の直後を狙う周到さは、魔獣にしては天晴れな判断とも言えるが、その乾坤一擲の強襲も無意味と化した。
振るわれた棍棒が横合いから掴まれ、一気に砕かれる。たかだか握力のみで大人の掌でも包みきれぬ太さの棍棒が潰される常識外れ。
知能なきオークの顔が絶望に染まる。その隣には、オークの体躯よりさらに一回り巨大な男、早森いなほが凄惨極まる笑みを浮かべて立っていた。
「ッ……!」
呼気を一つ腹に取り入れ、手に棍棒の残骸を残したままさらに強く拳を作る。至近距離のこの距離では踏み込みは出来ぬため、その場で腰を回転させ力を肥大させた。
放つ拳と逆の手は、ロープで繋がれているかのように、拳が突き出されるのに合わせて引かれた。反発し合う引き手と突き手の爆発力も力に変えて、オークの動体視力を超えた打突がその分厚い腹部に突き刺さる。
平均200キロは超えると言われるオークの体が、強化の魔法も使っていない人間の拳によって浮き上がる。背中から拳が飛び出るくらいにめり込んだ拳に弾かれて、オークは迷宮の天井の石壁に叩きつけられた。
石壁を砕いてめり込んだオークがゆっくりと剥がれ落ちて地に落ちる。その頭を情け容赦なくいなほは足蹴にして、背後のメイリンに振り返った。その目は普段なら強者を見れば爛々と光るというのに、充分いなほを楽しませる実力を持つメイリンを見る目は険悪であった。
「どうかしました?」
「いや……」
おそらくだが、メイリンはいなほの嫌悪に気付いているだろう。別に気付かれた所でどういうことはないのだが、その思いを口に出すことだけは何故か憚られた。
らしくないとは自分でも思う。嫌悪を感じながらも、いなほはメイリンに対してある種の親近感も覚えていた。それが嫌悪を口に出すことをいなほに躊躇わせている。
他者の評価すら二分する。メイリン・メイルーという少女は、それゆえに一つだけ誰もが共通して考えることが一つある。
「お前、ダチいねぇだろ」
それだけは確信できる。こんな異端を相手に出来るのは、それこそアート・アートのような、全てを超越した化け物くらいだろう。
「ダチ、というのが何か分かりませんが、酷いことを言われているのはわかります」
そう言いながら、メイリンは笑顔だ。それが余計神経を逆なでする。
いなほは舌打ちしそうな自分を抑えつけるようにメイリンから視線を切ると、オーク達が逃げた方角を見た。
気配は随分と遠くに消えていっていた。追ってまで倒すのも面倒なので、いなほは隠すことなく解放していた戦意を収束させた。
どちらからというわけでもなく二人並んで歩きだす。オーク以外にも魔獣が出る可能性もあったが、いなほは己への自信があるから、メイリンは迷宮の魔獣を把握しているから、どちらも気配を探る程度で、そこまで警戒はしない。
迷宮としては最低ランクのこの学院の迷宮だが、それでも最下層の危険区域を散歩でもするかのような気軽さである蹴る人間はいないだろう。
リラックスしたまま二人は進む。途中途中、メイリンが魔法を使って罠を解除していっていく中、ふとメイリンが呟いた。
「そういえばハヤモリさん。オークと戦ってるとき、強化魔法も使ってなかったですよね。ぶっちゃけ、ハヤモリさんのこと本当に人類なのか本気で疑ってます。どうなんですか?」
魔力によって虚空に魔法陣を描きながらメイリンが疑念の眼差しをいなほに向けた。
幾らトロールよりも身体能力に劣るとはいえ、人間よりも圧倒的に力の強いオークである。それを素手で打倒したいなほを人類種以外の何かと考えるのは無理なかった。
もしかしたら、人類とも比較的友好な関係である魔族、鬼人か竜人ではないかとも思ったが、いなほの見た目は何処から見ても人間だ。
幻術を使っているというのも考えられるが、魔力反応を一切感じられないので考えにくい。
だがいつまでも相手に疑念を抱いたままというのも気分が悪かったので、メイリンは率直にいなほに問いただすことにしたのだ。
いなほは一瞬、質問の意図が見えずに言葉を詰まらせると、心底呆れたとばかりに溜息を吐きだした。その質問は病院で自分を担当したあのやかましい女医に毎日のように言われ続けていたからだ。
「あー。俺ぁ人間だよ。それよりも、テメェのほうこそホントに人間かって思うけどな」
「私が?」
いなほの言葉に目を開いて驚いた素振りを見せる。わざとらしいその態度にいなほの苛立ちがさらに募るが、そこを堪えて続けた。
「違和感ありすぎなんだよ。好意と嫌悪がどっちにも傾いてやがる……テメェ、まるで無理しすぎて枯れちまった感じがスゲーするんだよ」
「あら、そんなに私ったら老けてます?」
「……そういう感じが違和感ありすぎなんだよ。テメェ、『自覚ある癖に』よく笑ってやがるな」
ニコニコと笑うメイリンとは対照的に苦々しげに歯を噛みしめる。体を苛む嫌悪感は苦痛にも似ていた。
メイリンはそんないなほを嘲笑うかのように笑い続けた。
「それより、そろそろ着きますよ」
通路の突きあたりについたところで、メイリンはそこにあった扉を開いた。開く扉の向こう側を見て、いなほはあからさまに嫌そうに顔を顰める。
その小さな小部屋には指輪持ちに反応して地上へと転送する魔法陣が、蛾を誘う灯火のように淡い光を放っていた。
「そういや、五階のときからそうだったんだけどよ。帰れるのってカプセルじゃねぇの?」
「あれは階層を指定して、五階までなら行ったことのある人なら行けるようになってもいるんですよ。ですが五階より先は危険な魔獣が多くなるので、万が一カプセルの誤作動が起きてランク無しの子が五階以下に行ったりしないように、帰還のみを目的とした魔法陣になってるんですよ。まっ、学校という場所限定の安全策ですね。普通の迷宮は何処もカプセルです」
「成程、んで、そんな場所に何の用だ?」
「魔法、使えないなら帰った方がいいですよ?」
でなければ幻覚魔法に永遠に捕らわれることになる。普段なら容易にそんな戯言など一蹴してみせるいなほは、メイリンの単刀直入な言葉に言い返すでもなく、ここでも言葉を詰まらせた。
気に入らないというのに、納得してしまう。直後、脳裏を過る違和感は既知感でもあった。
「テメェはどうすんだ?」
既知感を振り払うように口調を早める。
「私も今日は帰りますよ。そこまで急を要するものではなかったですから」
さぁ、とメイリンはいなほの手を取ると、魔法陣に向けて歩き出した。無理矢理な行動にいなほが文句を言う前に、二人は魔法陣の中に入ってしまう。
そして光がいなほとメイリンの体を包んだ。視界が白に染まり、続いて足元が消えた。僅かな浮遊感の後、視界を染めていた白が消えて視界が僅かな薄明かりのみの小部屋へと戻る。既に先客がいたようで、幾人かの学生が座り込んでいる。
いなほは責めるようにメイリンを睨むが、メイリンは悪戯っぽく舌を出すと、悪びれることなく「楽しかったです」と言った。
「あのなぁ……」
メイリンに会ってから調子を狂われっぱなしのいなほは、その舐め切った態度に呆れながらも一片懲らしめるかと手を伸ばす。
だがメイリンの頭に伸びた手は、蔑むような嘲笑によって遮られた。
「学年ナンバーワンは呑気に男を連れこんで迷宮デートかい? 全く、程度が知れるな」
現れたのはどこの成金だとでも言わんばかりに体中に貴金属を纏った生徒であった。言ってるセリフのわりには、その少年は両腕には少女を侍らせ、さらには男子学生が幾人もその背後には控えていた。
「カルファ……この人は先程会っただけの人ですよ」
メイリンが嫌そうに眼を細めてぼやく。
カルファ・ヘキサゴン。アードナイ王国の貴族、ヘキサゴン家の次男で、飛び級で高等部に進学した神童。G-ランクという、若干十二歳の少年にあるまじき能力を持つ学年二位の実力者だ。
いなほは知らないことだが、目の上のたんこぶとも言えるメイリンに事あるごとに絡み、今のように嫌味を言ったりしている。才能ある者に多い自信過剰な少年であり、その点だけで言えばいなほといい勝負の我がままな子どもであった。
カルファはメイリンの言い分を「ハッ」とワザとらしく嘲笑った。
「果たしてどうなんだかね。学年一位様は色々と噂が絶えない様子だからねぇ。ほら、なんだっけ? 体を売って成績をごまかしているとかさ!」
「……行きましょう。ハヤモリさん」
メイリンはそう言うと、カルファに背を向けた。
「あいよ……」
当人が何も言わないなら、文句を言う必要もない。いなほはメイリンの言葉に従って、さっさと歩きだすメイリンの背中に付いていく。
その背中に「オイ」というカルファの声がかかった。
「お前、なにがあったか知らないが、その女とは早めに縁を切っておいたほうがいいぞ。何せ学院の嫌われ者だからな!」
そう言ってカルファが笑うと、取り巻き達も一斉に笑いだす。
付き合いきれねぇ。いなほは何か返事をするでもなく、そのままメイリンの背中を追って迷宮を後にした。
外に出ると、メイリンは門の前で佇んでいた。何かを耐えるように目を伏せるその姿に、いなほはどう言えばいいかわからずに頭を掻いてあちらこちらに視線を飛ばす。
暫しの沈黙の後、埒が明かないと思ったいなほは口を開いた。
「意外だな。あんな奴の戯言で傷つくようなタマだったのか」
「私、見た通りの少女ですよ? あんなこと言われて、さらに笑われたのに、傷つかないわけがないじゃないですか」
尤もらしい理由と言えば尤もらしい。
だがいなほはわかっていた。それは表面上の理由であり、本当は。
「嫉妬か?」
「っ……」
メイリンが息を飲むのが目に見えてわかった。そのまま押し黙るメイリンの傍に近づく。
「ワケなんざ知らねぇ。でもよ、テメェにとってあの糞ガキは、そうなんだな?」
「……」
「逃げてちゃ変わらねぇよ。理由がどうあれ、逃げてんじゃねぇ。突っ込まねぇと、始まらねぇんだよ」
返事はない。いなほは言いたいことだけを言うと、彼女を追いぬいて歩き出す。
「でも」
「……」
「立ち向かうのは、辛いですよね」
それは、俺にはあり得ない考えだ。
いなほは、その場を後にした。
次回、ヤンキー集会。
新キャラ続々です。