第七話【深淵を望む者】
闇と聞くと何を連想するだろうか。一面の黒、光の無き無の世界。いずれも正しいし、そしていずれも間違っている。闇とは無形の異形で、理解出来ぬ無知の正体こそ闇と呼ぶのだ。
学院の地下迷宮。壁につけられた小さな光源のみしか先への道を照らしていない暗き道を、一人の人間が手より淡い光を放ちながら歩いていた。地下迷宮二十階、最下層と呼ばれるここには、Gランクの魔獣が闊歩しているので、一人で歩くには最低でもFランク程の実力が必要だ。
だがそんな危険地帯をそれは歩いていた。学院の制服を着ているので、学院の生徒なのだろうが、しかし学校に現在在学している学生で、Fランクに届く生徒は存在しない。故に、その学生が一人でここを歩いているということは、本来あり得ない話であった。ましてや、トラップも無数に存在するこの迷宮を、勝手知った庭のように歩くとなれば異常極まりない。
そして学生は遂にそこに辿りついた。迷宮最下層の最奥、そこはよくゲームの魔王がいるような、豪勢なドアと、その向こうにある如何にも壮大な感じの大部屋があるところではない。
無数の魔法陣と魔法具、そしてそれ自体が強烈な魔法具である無骨な鉄格子がそこにはあった。そしてそんな厳重すぎる封印を施された牢獄の中を学生がその手の光で照らしだす。
「さて、準備がそろそろ整いそうだよ親友」
そう学生が声をかけた先、光に照らし出されたのは、死人の如き白い肌の男だった。夜闇のように黒い頭髪は、いつ頃から伸ばしていないのか、狭い牢獄内の一面に広がっている。その頭髪の奥の眼光は、黒の中で唯一映える金色の魔眼、そして口より覗く歯は、人間にしては犬歯が異様に伸びている。
吸血王ヴァド。それこそ、この学院地下迷宮に封じ込められている魔族であった。
だが、本来ならば圧倒的な存在感を放っているはずのヴァドは、今はその体の首から下を鎖で束縛され、さらにはその鎖の隙間を縫うようにして、無数の杭が彼の体を貫通して壁に縫い付けている。最強を誇る魔族の一体でありながら、今の彼はあまりにも弱々しい存在であった。
だがそれでも彼の存在感は失われていない。学生に照らし出された顔を、まるでこの束縛など気にしていないかのような笑みに変えて、謳うように学生に応えた。
「そうかね親友。実に長いこと待ったような気がする。不死を約束された私ではあるが、温い暗闇ではなく、冷たい夜空の元で早く飛びまわりたいものだ」
かつて、自由だったころのことを思い出してか、目を細めてヴァドはそんなことを呟く。学生はそんな彼の言葉を聞いて、ただ申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんよ。私がもっと上手に事を運べていたらこんなに待たずにすんだというのに」
「何、気にするなよ。君は私の想像以上に頑張ってくれた。ただただここで長いときを鎖に繋がれて過ごすことしか出来ないだけの私のためだけに、こうも動いてくれて、時には話し相手にもなってくれた君に感謝こそすれ、蔑むようなことはしないよ」
「でも私は君を個人的な理由のためだけに解放しようとしているだけで、感謝されることではない」
「だとしてもだよ。むしろそのような私怨があるほうがいい。無償の奉仕などこの世にはありはしないのだから。その点、君のそれは魔に属する私にとっても心地よい」
学生を慰めようとしてではなく、ただ心からそう思ってのヴァドの言葉に、学生が微笑みを返す。
「そう言ってくれると助かるよ」
学生はそこで背負っていたリュックを降ろして、大きめの瓶を取り出した。容器には、並々と注がれた赤い赤い液体が入っている。
それは薬品では出すことのできない、命の色だ。人間の血液、血を食事とするヴァドにとって、芳醇な香りを漂わせるビンテージワインと同じ価値のあるご馳走だ。
「さぁ、今日の食事だ」
学生は手の光を操って虚空に固定すると、リュックから新たに魔法陣の刻まれた紙と、色の異なる五色の宝石を取りだした。
そして学生の体から魔力が溢れだす。それらを束ねて、学生は五つの宝石と魔法陣に魔力を通した。
「『解放』『解錠』『解剖』『解明』『解析』。『悉く開かれるは門の鍵』」
さらに、それぞれの効果を増加させる詠唱を追加する。五つの魔法具と複雑な術式の魔法陣、さらに簡易とはいえそこに言語魔法まで使用するその学生の技量は、学生という身分ならば破格のものだ。
そして鉄格子の封印は解かれる。だがそこまでだ。学生が幾ら優秀でも、ヴァドを封じる最終封印は、まだ解放する手段が足りていない。
さらに鉄格子の封印も、暫く放置していれば再び閉じられる仕組みになっているので、学生は急ぎ鉄格子の中に入ると、瓶を開けてヴァドの前に差し出した。
「あぁ、いつもすまないね」
ヴァドは感謝の言葉を述べると、添えられた瓶に口を付けた。勢いよく瓶の中の血液が、吸血王の体に注がれていく。血液に残留する命の味を味わいながら、それでも欠食童子のように血液を貪り食らう。
瓶の中を飲み干すのに一分もかからなかった。その一滴まで飲み干したところで、学生は瓶を手元に戻し、鉄格子を後にした。
「やはり食事は血に限る。ここに封じ込まれて君に出会うまでは、漂う魔力だけを食事にしていたからね。あの味気のない食事には、これではもう戻れないな」
「それもあと少しの辛抱。契約の通り、解放されたら私の言うことを一日だけ聞いてもらうけど」
「それもいい。それがいい。君と私の関係は、最初はそこだったのだから。そして、それを終えたところで、君と私の関係は新たな領域に行くんだ」
関係。魔族と人間、決して相容れることのないこの二人が、いつしか親友と呼び合うようになったのは、今から半年ほど前のことだ。
現在、学生内では高い能力を持っていて、周りからも将来を期待されている身だが、その実、本人は己の才能の限界をわかってしまっていた。いや、そもそも、学生は生まれて暫くは、あまりにもその能力が低かった。高名な冒険者であった両親はそんな学生を遠ざけ、出来のいい弟のほうを溺愛した。
それゆえに、学生は必死に勉強と特訓をして、若輩ながらランクも手に入れた。彼らに認めてほしいから、ただそれだけのために。そして学院に入るころには、両親も学生を認めてくれた。しかし、血反吐を吐く程の勉強と特訓を重ねた所で、才覚がないのはどうしようもない。ようやく今のランクに届き、優秀な生徒ともてはやされるようになったが、そこまで。最早、基礎的な能力値の限界まで来た学生は、今は効率のいい魔力運用などで何とか現状を維持しているが、学院に入学していた時点で、伸び白は殆どなくなっていた。いつまでも同じ所にいるしかない時分、周りの才覚に溢れた他の学生は、いつかこんな自分を置いていき、より高い位置へと進むだろう。そして取り残された自分は、両親に再び見捨てられ、周りにも見捨てられ、いつか孤独に追い詰められる。
そんなのは嫌だった。その時耳にしたのが、地下迷宮に潜むという魔族の噂であった。それを聞いて学生は思ったのだ。もし魔族などという化け物が眠っているのなら、そいつを利用して全てを滅茶苦茶にしてやると。
飛躍しすぎた発想だし、理由も八つ当たりの域を出ない。だが、己の実力にしか、己に価値がないと思っている学生は、そんな解決策にもならない結論に達していた。
そして、一か月に及ぶ迷宮の調査の結果、学生はそれを見つけた。吸血王ヴァド、その出会いと、それからの交流の日々によって、二人の関係は今に至る。
だが、学生の理不尽な怒りは収まってはいない。今も、この親友を利用してでも、全てを破壊し尽くしたいと願っている。
「ごめん」
そんな醜い自分を恥じて、学生は謝罪の言葉を口にしていた。だがその程度、彼もわかっている。むしろ、その理不尽な怒りを抱く学生だからこそ、彼は学生を親友と認めたのだ。
ただの人間でしかなかった。最初は、利用しただけして、封印から解放されたらまず手始めにその喉に噛みついてやろうと思っていた。
でも今は違う。心から、ヴァドはこの学生を思っていた。絶望から逃れるために力を欲して、そして手にした力に裏切られ、自暴自棄となるその思考。弱者の思考をヴァドは慈しんだ。
弱くてもいいのだ。その己を理解した弱者の思考。破滅的な願望、目の前の壁に背を向ける愚行。
どれもが全て、愛おしい。
「君が謝ることはない。大丈夫さ、君を縛る全てを私が蹴散らした後は、二人で何処か遠くに行こう。誰も何も知らない遠くへ。二人だけでね」
そして二人して落ちていくのだ。永遠の闇へ、深い深い奈落の底へ。誰にも邪魔されず、現実から逃げ続けて落ちるその闇は、苦行の先に得られる栄光と行く方向が逆なだけで、本質的には一緒なのだろう。
どちらも、願った先の結果なら本望だということ。
「あぁ、それはきっと……素敵なことなんだろうね」
理屈も通っていない、理不尽な理由で全てを壊そうとする人間と、その理に反する全てを良しとする魔の眷族。
彼らが逃げ続ける先は、きっと無音の暗黒でしかないのだろう。
それでもいいと、それがいいと、きっと二人は笑うのだろうが。
次回、談笑。作戦会議。
そろそろ戦闘に入りますよー。