第四話【絵描きさんとヤンキー】
「止めだ」
だがその進軍は、やる気なく両手を上げて降参のポーズをとったマドカによって停止してしまった。
ゆらゆらと揺れる両手を見て、いなほの笑みが固まる。まるで意味がわからないとばかりに思考を停止させたいなほに、マドカは言った。
「何、からかうつもりはなかったんだ。実は貴様に声をかけたのも理由があってな」
「理由だぁ?」
やり合う意志がないと理解したのだろう。いなほも構えを解いてマドカの前に歩み寄った。アイリスと同じか少し上くらいの身長の彼女だが、それでもいなほと並べば小さいと言わざるをえない。
だが巨体の威圧感に怯むことなく、マドカはむしろ自らいなほに向かって一歩を踏み出した。挑戦的にいなほを見上げるマドカと、眉間に皺を寄せて未だ燻ぶる戦意を瞳に宿してマドカを見下すいなほ。
一触即発の雰囲気の中、マドカはポケットに手を突っ込むと、一枚の袋を取り出した。
「むっ」
その袋に見覚えのあるいなほは声を詰まらせた。
白の包装紙に包まれた掌サイズの袋、それはいなほの好物である濡れ煎餅に他ならなかった。
「互いにいがみ合うのもあれだろう。まずはお近づきに一枚どうだ?」
「オウ、ありがとよ」
差し出された濡れ煎餅を掴むと、包装紙を開けて濡れ煎餅を取りだした。躊躇せず噛みつけば、柔らかな触感と濃厚な醤油味が口いっぱいに広がる。
確信。これはかつて一枚だけ食べたことのある超高級濡れ煎餅だ。
「……」
いなほはその場でぺロリと濡れ煎餅をたいらげた。袋をひっくり返して、中に残ったカスまでしっかりと食べ尽くす。
そしてじっくりと味わえば、いなほの瞳からはすっかりマドカに対する敵意はなくなっていた。
「いいブツ持ってるじゃねぇか」
「喜んでもらえて嬉しいよ」
マドカといなほは互いに笑い合った。
「いなほだ。早森いなほ」
「先程も名乗ったがマドカという。ここ風に言えばマドカ・カンナギ。正確には巫マドカというのだが」
あえて含んだような名乗りだが、そこはいなほ、どうして己と同じような名前の順序を名乗ったのかということなど全く気にせず「オウ、わかったぜマドカ」と快活に笑って言った。
その何とも察しの悪いいなほの対応に、マドカは浮かべていた笑みを硬直させると、頭痛でもしたかのように額を抑えた。
「まさかな。なぁいなほ、濡れ煎餅に私の名前、ここまでで貴様は何か違和感に気付かないか?」
「あ? 何だよ?」
裏返した袋を舐めるいなほは、本当に何もわかっていないのだろう。というかそれよりも、未だ味の残っている袋に夢中な有様である。
「タフなのか馬鹿なのか……ふん、でなければ奴のお気に入りにはならないか」
「何か言ったか?」
「いや、気にするな……それより、学院にはどんな用事で来た」
「あー、あれだ。お前らんとこの理事長って奴に会いに来たんだけどよ。何処にいるかわからねぇんだ。マドカは知ってるか?」
「知ってるわよ」
そもそも、そう続けて、マドカは銀の瞳を怪しく細めた。
「そして、ここまでのやり取りで確信したよ早森いなほ。奴の客というのは貴様のことだったんだとな」
「どういうことだ?」
袋をポケットに突っ込んで、いなほがマドカを見つめた。
冷たい銀色は光を反射しない。ただ内の情念のみがそこで揺らめいているだけだ。そんな瞳を見たところで、いなほがマドカの考えを読みとれるわけもない。
「いいぜ。案内しな」
だからいなほは、あえて何も聞かずにそう言った。状況は理解できないし、目の前のマドカの得体の知れなさも拭いきれたわけではない。もしこの女についていってとんでもないことになれば目も当てられないが、問題あるまい。
無意識に隆起する体が訴える。あらゆる障害も貫いてみせると。故に進めと、己の安全を確約する。
いなほはマドカの横を抜けて歩き出した。そしてそのまま歩き出す。その歩みには迷いなどない。
「では、道案内をしよう」
だが、瞬きした時、いなほの前を後ろにいたはずのマドカが先導していた。ちょうど一歩先を歩いている。
今更驚くことはないが、どういう理屈になっているのか。ダークスーツから僅かに覗く首筋を無遠慮に見つめて考えていると、マドカが視線を感じたのか顔だけ振り向いて見せた。
「どうやら気になって仕方ないといった様子だな」
「まぁな。お前、どうなってるんだ?」
「ふふ、女は秘密の多い方が魅力的だろ?」
雄を魅了する妖しい微笑みになったマドカは悪戯に自身の下唇を舐めた。
妖しく、怪しい。背筋を震わせる程エロティックな表情は、僅かに頬と瞳が染まっているのもあって、まるでいなほを誘っているかのようだった。
二人して立ち止まる。誘うように手を伸ばすマドカの手を抜けて、いなほは応じるがままにその顎に手を添え、顔をゆっくりと近づけていく。
そして唇と唇が触れようかというところで、いなほの動きは止まった。
「それだ」
「ん?」
「何でお前、『突然顔が変わったんだ』?」
その一言を聞いた瞬間、欲情しきったマドカの顔が『突然』元の冷たい笑みに戻った。
表情が変わったというものではない。その変化の過程は何もなく、表情筋が動くといった様子を見せずに、いきなり豹変したのだ。
動くという過程がない。例えるなら動画ではなく、絵から絵に切り替わったかのよう。
それを見透かされたことがマドカには面白かったのだろう。喉を鳴らして、慈しむようにいなほの頬を撫でた。
「おやおや、美人の誘いをそうやって断るなんてな」
「悪ぃが人形に盛るほど変態思考じゃねぇんだ」
「そのセリフだと私が人形だとでも言っているようなものだぞ?」
「何となくな……ケッ、読めたぜテメェ」
いなほはマドカの顎から手を放すと同時に、その手で己の頬を触る人形のように冷たい掌を取った。
「読めた、とは?」
「お前、魔法使ってるだろ。なんつーか、その、アレな魔法だよ」
上手く形容出来る言葉が見つからないのか言葉に詰まるいなほ。マドカは言葉を探して苦悶するいなほを見ながら、涼やかに笑んでみせた。
「そんなところだ。ネタが割れるとつまらないかしら?」
「いや、理屈がわかってもやり方がわからねぇんじゃ話にならねぇよ」
だから面白ぇ。食いかかるようにマドカの手を引き寄せていなほは言った。
再び密着する二人の体。だがそこには良くある男女の愛し合うような姿はない。
獣と獣。殺気を絡ませ合う恐ろしき野生のあり方がそこにはあった。
「生憎とこれに関しては企業秘密でな」
だが次の瞬間、瞬きすらせずにマドカを見ていたというのに、掴んでいたその手はいつの間にかなくなり、マドカはいなほの隣に立っていた。
やりにくい奴だ。いなほは霧のように逃げいったマドカの手の感触を思い出すように何度か開いたり閉じたりすると。バンダナの内側に手を入れて頭を掻き、内側の感情と共に溜息を吐きだした。
「お前、絶対にダチいねぇだろ」
「ん? 立候補してくれるの?」
「お断りだよ糞野郎」
中指を立ててマドカに向ければ、彼女は握り拳を作って人差し指と中指の間から親指を出していなほに向けた。
「ファックするぞ」
「ファックしてみなさい」
そして二人は同時に笑った。
「ククク、随分と心躍る会話だが、そろそろ行かないと奴がお冠になってしまう。さっそくだが、理事長に会っていくか?」
笑いつかれたところでマドカが提案してきた。
話に聞く限り偏屈な理事長であるのは間違いあるまい。第一、おそらく秘書なのだろうマドカも、いなほ的には面倒くさい性格なので、その上司となれば想像に難くないだろう。
だが会わないわけにはいかないのだ。いなほは頷いて見せた。
「わかった。では、後は頑張れよ。青少年」
そしてマドカは唐突に指を鳴らして見せた。乾いた音が響くが、別に何が起きるというわけではない。
「おい、マドカ──」
どういうことだ。と言おうとして、瞬きの刹那にいなほの見ていた景色は様変わりした。
明るい日差しの射す、暖かな廊下から一転、蝋燭の怪しい光のみが続く赤い煉瓦で囲われた暗い空間が背後には続いている。そして、目の前には、いなほの身長よりも大きな両開きの木製の扉があった。
「……またドッキリ手品かよ」
驚くこともなく、いなほはぼやいただけだった。今更、あの殺してもしなない女のやることに驚いていたらキリがない。順応の早い男とは自分のことなのだ。
近くに人の気配はない。廊下には自分ひとりだけで、マドカの姿は何処にも見当たらない。唯一人、いや、マドカを探るために鋭敏化したいなほの感覚は、扉の向こうの気配をすでに察知していた。
「行くしかねぇってか」
後退するという考えも、もう少し警戒しようという思考にも行きつかない。ただひたすらに前進あるのみ。ごちゃごちゃと悩むのは趣味ではないのだ。
そっと扉を押すと、古い扉は留め具が軋む嫌な音を響かせながらゆっくりと開いていく。僅かな抵抗も意に介さず、いなほは扉を開き切った。扉の向こうは、太陽の光の射しこむ暖かな部屋だが、あまりにも汚かった。
乱雑に置かれた様々な物。宝石もあれば錆びついた何かもある。貴重な物もありふれた物も、いずれも等価であると言わんばかりの乱雑な室内。
その一番奥に、それはいた。
「やぁ。待っていたよ、いなほ君」
奥に置かれている木製の大きなテーブルに腰かけて、そいつはどんな歌声よりも感動的な声でそういなほに語りかけてきた。
途端、そいつを見た瞬間、いなほの動きが停止した。呼吸も瞬きも、もしかしたら心臓だってその瞬間は停止したに違いない。彼我の距離はたった数メートル。その向こうにいるそいつは、いなほがこれまで見てきた何よりも美しく、そして愛らしい存在だった。
身長は150センチ程度だろうか。机に腰掛けたそいつは、全身を包む白いローブを纏っていた。膝に両肘を乗せて、ローブから伸びるたおやかなその両腕の先、穢れを知らない白木のような細い指で頬を挟んでいる。流れる清水のようにさらさらとした長い黒髪は、前髪の部分だけ額の部分で切りそろえていて、その圧倒的な美を誇る顔のパーツは、余すことなく晒されている。
美しさと可愛らしさとは何だ? そう聞かれればこれだと即答出来るくらいに見る者の心を奪うその顔は、待ちわびた来訪者、いなほを見て嬉しそうに笑みを浮かべていた。
その笑顔を向けられれば、気の弱い者ならそれだけで卒倒し、あるいはショック死したかもしれない。それほど、そいつの笑顔は魅力的すぎて、いなほはたまらず顔を顰めた。
「……」
無意識に両手は拳を象っていた。そいつを見た瞬間、いなほが感じたのは圧倒的な美への歓喜ではなく、人の域を遥かに超えた化け物への畏怖だった。
ただそこにいるだけのそいつは、先程出会ったマドカなんて比べ物にならないくらいの存在感を放っている。子どものように無邪気な微笑みを浮かべて入るが、その実、闇よりも尚暗い瞳が、その全てを台無しにしていた。
気持ち悪い。純粋にそう思った。この世の何もかもを上回る故に、そいつは誰よりも気持ち悪い存在だった。
「んぅ? ありゃ? いなほくぅん。こっち来てよぉ」
だがそんないなほの心境を『間違いなく理解しながら』、そいつは出来の悪い演技を続けている。唯の子どもの演技、いや、本人はいたって本気なのかもしれないが、その仕草と醸し出す雰囲気のアンバランスさによって、そいつの動きは何処までも滑稽に過ぎた。
いなほは動かない。恐怖はあるが、それ以上に身を焦がす業火のような戦意を抑えつけているためだ。
冗談ではなかった。まさかこんなにも近くに、トロールキングすら幼子に見える化け物が存在していたなんて。本当に、冗談みたいな現実だった。
「お前が……理事長か?」
それでも、いなほはどうにか言葉を絞り出した。そいつはその言葉に「そ-だよー」と無邪気に答える。
「そういう君は早森いなほ」
「俺のことは知ってるかよ。で、テメェはなんだ?」
いなほは僅かな時間で既に普段の態度を取り戻していた。だがそれでも一歩が踏み出せない。どうしてか、普段は本能に負けている理性が、限界を超えた警報を鳴らしていなほの体を押さえつけていたからだ。
目の前の化物はそういった存在だ。出会ったこともない異常の人外、いや、この雰囲気はいつかどこかで━━
「レコード……ゼロ」
そう、ここに来る前に出会った。あいつと酷似している。
「初めまして、『僕』がこの魔法学院の理事長。レコードにならって言うなら、第一位、『無限魔道』アート・アート」
で、早速だけどさ。
化け物、アート・アートは、そうしていなほの困惑を他所に、世間話をするような軽々とした口調のまま。
「ねぇいなほ。君、死んでみない?」
惨劇の幕を開けたのだった。
日本のこととか全く気にしてないヤンキーであった。
次回、ヤンキーあっぱー。