プロローグ【私は可愛い理事長さん】
その部屋には、様々な物が乱雑に置かれていた。ただのゴミから、世界に一つだけの芸術品まで、あらゆる物が、まるで全て等価値だとでも言わんばかりに適当に置かれていた。例えば部屋の隅っこに置いてある女性の像の手にはシャツが何枚も干されているが、わかる人が見ればその暴挙に卒倒するのも請け合いだろう。
あるいは全てが等価値なのではなく、全てに意味がないと思っているのか。部屋には主の性格が現れると言う。であればこのような部屋の主は一体どのような人間だと言うのだろう。
窓際に置かれた木製の大きな机に両足を乗せて、その主は椅子に座っていた。
少年、あるいは少女、どちらともとれる中性的な顔立ちの人間だ。柳のようにしなやかで細い体は、大きくて白い柔らかなローブに包まれている。そして身に纏う極上のローブですら再現することが出来ないくらい柔らかな、腰まで届く黒の長髪をくるくると弄り、小悪魔的な微笑を浮かべ何かを待っていた。
例えば遠足を翌日に控えた子どものように。
例えば恋人との初デートを控えた初心な子どものように。
例えば初体験を前に期待に胸を膨らませる子どものように。
彼、あるいは彼女は笑っていた。得意げで、無垢なその表情は、見ただけで誰もが絶頂に達してしまうくらいの美しさと愛らしさを孕んでいた。至上の美ですら尚届かぬ美、彼、あるいは彼女の顔は、この世の美の範疇を超えて魔貌と言われる領域のそれだ。
魔、この言葉こそこの人間には相応しい。いや、魔という言葉を使う以上、訂正するほかあるまい。
彼、あるいは彼女は人間ではない。姿形こそ人間のそれだが、彼、あるいは彼女を見て人間だと判断する者はいないだろう。
言うなれば魔。これ以上にこれを指す言葉はない。
「くひっ」
魔はその愛らしい姿とは裏腹に、気味の悪い笑い声を上げた。天使のラブソングよりも美しいその声が、想像を絶する気味悪さで紡がれる異常。一般人なら、この声を聞いただけで発狂を免れなかったはずだ。
だが魔は現在一人だ。故に笑う。楽しい楽しいと笑い続ける。
暫く笑っていると入り口のドアがノックされた。「失礼します」と、許可をもらうよりも早く、女性が静かに入室した。
「やっ、お帰りなさい」
魔が入ってきた女性に労いの言葉をかける。軽く会釈して応じたその女性も、魔に比べれば遥かに劣るが(そも、比べるものではない)、美しい女性であった。
銀色の髪と眼。それに負けぬ白い肌。髪は首元で短く切りそろえており、アジア系の顔立ちの美女である。めりはりのある体を黒のダークスーツで一層強調させているその女は、無言で机に近づくと、その手に持ったビニール袋を魔の足の間に置いた。
「濡れ煎餅です。何となく買ってきました」
「んー。渋い趣味だね。でも私、これってそんな好きじゃないんだよね。やっぱしパリッとしてないと煎餅ってかんじしないしさぁ」
「でしたらこちらで処理しますが」
そう言って女性はビニール袋を掴もうとするが、魔は慌ててそれを遮った。
「だ、駄目だよぅマドカ。私はそれ苦手だけど、お客様がそれ好きなんだってさ」
「お客様?」
「うん! もうちょっとしたら学院に来るはずなんだ!」
楽しみだなぁと魔が笑う。照れたように頬を染めて、落ち着きなく両手の指を何度も合わせる仕草はとても愛らしい。
だが女、マドカはそれには慣れたもので、別段その絶世の愛くるしさに見惚れることもなく「そうですか」と機械的に返事をした。
いや、良く見ればマドカの態度は機械的というよりは、緊張のためにそうなっているかのようだった。まるで化け物と相対でもしているかのように表情は引き締まっていて、一片の隙すらない。
それははた目から見れば珍妙な姿だった。無邪気なだけの少年または少女を最大限まで警戒する大人の女性。だが魔の本質を知れば、その対応をするのは当然だと思うだろう。
何せ、マドカの目の前にいるのは──
「ところでマドカ」
「はい」
何故かテーブルの上に立った魔がマドカを見下ろす。見よ。無邪気さのその向こう。黒い瞳は闇よりも底なしの闇しかない。光を一片も許さぬ黒い穴。
これを見ただけでもわかるだろう。この魔が今見せている無邪気さが、どんなに滑稽な物なのかということが。
「けひっ。もうマドカってばさ、毎回そんなに緊張しちゃって。私達友達だろ?」
「ありがとうございます」
「まっ、いいけどさ。そうやって君が私を見てるからあんな化け物も生まれたわけだし。その調子で慣れることないほうが、私達の関係としてはいいのかもね」
それはともかくと魔は両手を合わせた。
「マドカにはやってほしいことがあるんだ」
「やってほしいこと?」
うん、と魔は陽気に笑う。
「近いうちにここに面白い人間が来る。でも彼ここに来るの初めてできっと迷うと思うから、ここまで道案内してほしいんだ」
「わかりました。面白そうな人間が来たらこちらにお連れします」
「間違えるなよぅ?」
「善処しますよ」
一礼してからマドカは踵を返した。そのまま部屋を出ていこうとするが「そういえば」という魔の声に立ち止まる。
「ねぇマドカ」
「……何ですか?」
マドカは自身の背後で恐ろしいまでの殺気が溢れだしているのを感じた。だがその表情は微塵も揺るがない。この程度は、この化け物にとって児戯のようなものだ。
振り返れば、口が裂けるくらいに三日月を描いた魔の凶相。歪んだ眼は、さっきとは打って変わり、恐ろしいまでの殺意を孕んでマドカを見ている。
「まだ私達を殺せるつもりなのかな?」
その言葉の意味するところ──マドカはここで初めて表情を崩した。冷気を発する冷たい銀色の瞳が、淀んだ魔と真っ向から拮抗する。
信念の通った人の意志。それを見せつけながら、
「覚悟しておけ。後悔くらいさせてやる」
そう言い残して、その場を後にした。
「……むふっ」
一人残った魔は笑う。嬉しそうに体を震わせて喜びを露わにしている。
あぁ、そうでなくてはいけない。それでいい。だから人間が大好きなんだよ僕は。
「全くもう、だからマドカってば大好きなんだよ。後悔させてやるなんて、嬉しいこと言ってくれるんだからさぁ。ん、でも駄目駄目、今はマドカのことより、もっと大切な用事があるんだから」
込み上げる喜びを抑えつけることなく笑う。天使のような顔を悪魔の如く歪めて笑う。
でも今は違う。今自分を楽しませてくれるのは違うのだ。
「くひっ、はーやく会いたいなぁ。いなほくぅん」
魔は笑う。笑みを絶やさぬ魔が待ち望むのは、異界より誘われた鋼の男。
ではではこれより、不倒不屈の第二章。まずは変わらず異端の化け物より開始となります。
第二章スタート。一章とは随分と違う内容となっております。簡単に違いを話すと、戦闘シーンがほとんどないです。
次回、絶望ヤンキー。筋肉、タイトルに反して異世界に屈する。