幕間【天上に座する者たち】
あらゆる世界の言語が空間中に張り巡らされている異界。そこに一つだけある革製のソファーに腰掛けているのは、陰鬱な男、レコードではない。ゆったりと全身を包む天使の衣が羽織るような白いローブをまとった、小悪魔的な笑みを浮かべる少年とも少女ともとれる中性の人間だ。いや、それは人間などという者ではない。人間の形をした別種の生命体、それが彼、あるいは彼女だ。ありとあらゆる善性と悪性を孕んだ黒い眼、闇のように冷たく、恐ろしい色彩で、だというのに包まれてそのまま眠りたくなるくらい柔らかそうな長い毛髪。ローブから出た手足は陶器のように美しく、その素顔は見る者に恐怖と安堵の両方を与える極端な性質を持っていた。
それがこいつだ。この世の全てを持つ者だ。例えるなら純正の魔、それである。
そんな者が何故このような場所にいるのか。そう問うたところで、明確な答えは返ってはこないだろう。深刻な理由かもしれないし、もしかしたら気まぐれを出るものでもないのかもしれない。
だが目的は確かにある。待ち人のついでに新たな趣味の模索。とはいえ、前者はともかく、後者のほうに関しては少々上手くいってはいなかった。
「むぅ……」
小さく愛らしい口を広げてコーヒーを一口。舌を楽しませながら、魔は目の前の紙に書いた自作の小説を見て眉を潜める。
はっきり言って酷い出来である。書いてる最中は楽しかったが、改めて読み返すとストーリーが支離滅裂でよくわからない。だが眉を潜めたのは一瞬だけ、それすらも面白いとばかりに、「ニヒッ」と見た目に合わぬ笑い声をあげた。
「困った困った。でもよくよく考えてみればほら、僕にだって欠点があるってことがわかっただけでも儲けもの? つかこの年になるまで物語ってのを書いたことがないってのも笑えるよね。そう思わないかいレコード」
魔が目の前に視線を向ければ、陰鬱とした表情のレコードがいつの間にかそこにいた。あるいは最初からいたという可能性もあったが、そういう細かい因果も含めてこのタイミングで出てきたということはわかっている。
「……お前がここに来るのは一万を飛んで二十三年振りだな」
「あ、そんなになる? 一年位だと思ってたよ」
「残念ながらな。それにこのタイミング以外でお前と会うということは、必然私の死を意味した」
「何だそれ! 僕ってば超野蛮じゃん! ゲヒャ! クソ笑えるんだけど!」
気味悪い声をあげたと思えば、魔は突如レコードに詰め寄ると、絶対零度の視線でその顔を覗き込んだ。
「そぉうだレコード。だったら今すぐ殺してやろうかぁ? きっと楽しいぜぇ。ここだったら地の利は君にあるしさ。間違いなくやりあったら『僕は殺せる』よ? グヒッ! んでさぁ! 派手に殺してくれたら『私』が君を追い詰めてぇ! 『俺』が叩き潰してやんよぉ!」
楽しい楽しいと狂人が笑う。ヘドロを固めたような黒い眼。ただの人間ならそれに見られただけで絶命は必至だというのに、レコードの態度は相変わらず冷静そのものだ。
「落ち着け……本能に引っ張られているぞ」
「おっと……」
レコードの声で我に返る。まるで別人になったかのようにその表情が豹変する。理性と本能、この化け物はその二つがあまりにも異常すぎるゆえに別個に分かれてしまっている。
「むぅ、こうも簡単に引っ張られるとなると、いよいよ時間ないなぁ……あぁそうそう。本題とは関係ないけど、次暴れるなら君的には何処が良い?」
レコードは魔の気まぐれな言葉を聞くと「ふむ」と陰鬱な面持ちのまま、考え込むように自分の顎を撫でて、常人が聞いたら気が狂っていると思われるような言葉を口にした。
「そうだな。発達具合から言ってもアースゼブラがいいだろう。人口は魔族と人族合わせて十億人程度だ。全滅しても問題あるまい。超越生命も魔神皇帝も、そこでなら文句はないだろうよ」
まるで今晩のご飯を言うかのような気軽さで言ったレコードの発言によって、アースゼブラと呼ばれる世界に存在するありとあらゆる生物の死が確定する。だがそんなことなど二人にはまるでどうでもいいのか。世間話か何かのようにその話はここで終了することになった。
正直、この二人にとってその問題は対処可能な些細なことでしかないのだから。これでその話はおしまいとばかりに少年にも少女にも見える魔は、可愛らしい小さな掌をパチンと合わせる。年相応の可愛らしい仕草。
結果、十億の命運は決した。
「まっ、百年も先の話しててもしょうがないしね。てかさレコード、こっから本題だけど、君、最近面白い玩具手に入れたみたいじゃないか」
「玩具、か。お前にとっても、今は有象無象でしかないだろう」
「有象無象ってわけじゃないんだけどねぇ。ほら僕ってば世界中で生きているありとあらゆる生物がだぁい好きだしさぁ」
先程の発言とことごとく矛盾する発言だが、魔というものを知っている者からすれば、生物が好きだと言う言葉は、全くもって矛盾していない。
そう、レコードの前にいる化け物は、そういった異常者なのだ。
「会うなら好きにするがいい」
「本当!?」
レコードの言葉に、両手を合わせて目を爛々と輝かせる。その姿は見る者を瞬く間に魅了するだろう愛くるしさに満ち溢れている。不自然でありながら、それでも慈愛に満ちた可憐な表情を浮かべた。
「わぁ……! どうしよう! 何せ君が折角見つけてきた玩具だしね。うん、一杯お持て成しをしよう。あぁ! そういえばマドカが丁度地球に行ってるんだった! 早速お菓子でもお土産に買ってきてもらうことにしてよ!」
「わかった……」
魔の無邪気なお願いに、レコードは変わらぬ無表情で答えた。その手が文字列の中に沈み込み軽くその位置をずらす。
すると、その周囲から一気に文字が変わっていき、たちまち全体の文字が変換されてしまった。
それからは再び同じように文字ばかりが流れる空間となる。文字を変える前となんら変わりはない。しかし、レコードと魔だけは、その変化を感じ取っていた。
「んー。僕、あのお菓子あんま好きじゃないんだけど」
「……彼の好きな菓子だ」
「なら……我慢するぅ。お客様の喜ぶ顔が一番大事だしね」
魔は不服そうに憮然とするが、レコードの言葉に渋々といった様子で了承する。
「それで、要件はそれだけか?」
「そうだね。君のお気に入りが折角近くにいるし、許可だけとっておこうと思っただけだからさ。後はそうだね……彼を使って君が何をしようとしているのか、とか」
挑発するように笑って魔はレコードを見た。だがあくまで陰鬱としたその表情は微塵も揺らぐこともなく、ただ淡々とレコードは返す。
「別に隠す程度のことではない。いつも通りのことだ。我々がこの星の敵であるのならば、当然この行動は世界の意志に反逆する行為に他ならない」
「そこまでこだわる理由が僕にはわからないな」
「今のお前は星よりに引っ張られているから無理もあるまい。何ならお前も自らの切り札を持てばいい。ともかく彼が私の望んだ通りの逸材なら、きっと必ず期待に応えてくれるだろうよ」
「ハハッ、だろう、だなんて、君が言うと面白い冗談にしか聞こえないよ」
それじゃ、と魔は立ち上がると右手で虚空を払った。瞬間、その軌跡に沿って黒い空間が広がる。
「彼には僕のほうからよろしくしておくよ。伝言とかある?」
「特にない。適当に相手してやれ」
「はいよ。バイバイ、レコード」
その空間に、魔は別れの言葉を告げると消えて行った。
そしてレコードは再び一人に戻る。ソファーに掛け直すと、突如現れたコーヒーカップを片手に、空間を埋め尽くす情報の集積体を見つめた。
「五割程度だったが、どうにか切り抜けることが出来たか。そしていなほ、これによりお前もまた死の可能性に踏み入れることになる。五割程度の確率で安堵する私と違って、お前はこれから可能性の潰えるゼロ領域を超えなければならないだろう。屈して倒れ、そしてその果てに絶望する未来しか君には残されていない」
でも、しかし、それでも一度、お前は確かに超えて見せた。
レコードが僅かに笑む。淀んだ瞳に僅かな光を、希望の光を宿して。
「無限の可能性と人は言うが、その実、ゼロという確率は間違いなく存在する。ではゼロの向こう側には一体何が存在する? 繰り返し紡がれるゼロ地平、可能性の根はいずれ、ゼロの闇に飲まれて消えることになるだろう。だからいなほ、見せてくれ。お前のその手で、私の代わりに──」
レコードは眠る。そのまどろみの中、描く未来は紅蓮の地獄か、栄光の天国か、はたまたどちらでもない可能性の閉塞した終わりの未来か。
そして、舞台は再び無敵の男に移り行く。これにて幕間、終了と相成ります。
次回より二章開始。世界は怪しくうごめくけれど、ヤンキーはいつも通りの平常運転となりまする。