第三十九話【ヤンキーりみっとぶれいく】
記憶が甦る。これはかつて、排気ガスとそびえたつビルのジャングルにいた頃の記憶だ。ジャングルの隙間、暗がりで誰かを殴りつける。前には次々と武装した悪ガキ共が溢れてきて、いなほはそいつらを殴って黙らせる。
背中には仲間がいる。だから背中の心配をする必要はない。突き進む。目の前には敵。後ろには仲間。だが前には一人。自分はいつも前を向いて一人だ。
場面は代わり、今度は比較的新しい記憶だ。初めての依頼。現れる魔獣達、自分は一気に敵中に飛び込み、ガントとネムネとキースとアイリスがその背中を守る。昔よりも強くて頼りになり、気も合う楽しい仲間達。そんな彼らに背中は任せ、自分はひたすら目の前を殲滅する。後ろには仲間。だが自分は一人。いつだって一人。
さらに切り換わり、これは本当に先程の記憶だ。いざ戦いが始まれば、いなほは先陣を切ってアイリス達を引きつれてトロールを薙ぎ倒していく。ナイトだって一撃で、そして自分はもっと前に行こうとする。振り返れば、アイリス達が自分の後ろにいた敵と戦っていた。あいつらになら任せられる。だから自分は行く。後ろには仲間。そして自分は一人。仲間はいるけれど、いつも一人。
闘ってきた。一人だ。
戦ってきた。一人で。
勝利してきた。ただ一人。
背中を任せられる仲間、それは何にも変えがたい大切なものだろう。かつての時も、今も、気の合う友人が背中を守ってくれることに不平不満はない。そうしてくれるからいなほは無謀な突撃をすることが出来るのだ。
だが、どんなに過去を振り返っても、いなほの隣には誰もいなかった。一緒に前を向き、無謀に飛びこんで道を切り開く者はいなかった。いつも仲間は己が作った道を付いてくるばかりだ。不満はない。己が切り開き、その道を舗装する仲間。振り返れば真っ直ぐ通した道が一つ。大切に築き上げた泥臭くも誇っていい歩み。
でも本当にそれだけで良かったのだろうか。勝利は一人で手にするもの。それは当然だし、いつまでも変わらないに違いない。
でも欲しかったのは、背中を守ってくれる仲間だけだったのだろうか。
「いなほさん! いなほさん!」
ふと、暗闇に再び飲まれた視界の向こうから声が聞こえてきた。
──あぁ全く、いつものうざったらしい声だ。キンキンキンキン声張り上げてうるせぇんだよ。
どうしてこんな場所にいるかわからないが、ツッコミだけは忘れない。泣いているような声、それが暗がりにいたいなほの指針となる。
──ったく、泣くんじゃねぇよ。
いなほは見えない道を歩き出した。どうしてか体が重たい。体を鎖で雁字搦めにされているかのようだ。でもいなほは歩く。泣くなよと、お前は笑えと言ってやりたかったから。
暗闇を手探りで行く。迷ってしまいそうになると、少女の小さな、でも強い意志のこもった声が道を示す。灯りという程の光はない。でもいなほの『ここ』が訴えていた。熱の宿った『ここ』が叫んでいた。
いつの間にか重しはなくなり、駆けだしていた。早鐘の鼓動。脈動する全細胞。目指す先、疾駆しろ。駆けて駆けて、辿りつけ。
「……っあ」
靄の掛かった意識が浮上して、いなほはゆっくりと目を開いた。
そういえば奴と戦ってる最中だった。ちょっと気持ちよくて寝てしまったが、まだやれる。
だが筋肉は主の命令を受けつけずに動かない。ふざけるな。なんとしても動かす。無理矢理に体を動かそうとするが、動くのは指先一つが手一杯。
──動け!
強靭な精神が、切れていた視界とのリンクを繋ぎ直す。まずは状況確認。そうして目覚めた視界の先で。
「来なさい化け物! 私が相手になってやる!」
背中を、見つけた。
「エリ、ス……?」
声はかすれて届かない。いなほはエリスの名前を呼びつつも、その小さな背中から目が離せなかった。
これまで、自分はずっと前を行っていた。それで良かったし、これからもそうだと思っていた。でも、エリスの背中を見ていなほの心に衝撃が駆け抜けた。どんなに闘っても、どんなに勝ち続けても、乾き続けた心に潤いが与えられる。
そのときようやく、自分がエリスにここまで魅せられていた理由が理解できた。
「……そっか」
キングの太刀が襲いかかる。でもエリスは逃げずに立ち向かう。無謀への突撃、それはいつもいなほが行うこととまるで違わない。
「俺ぁ……」
当然、無謀は無謀である。妨害にすらならずにエリスは敗北する。だがそんなことは関係ない。敗北とは、心の死。闘う意志がある限り、絶対に負けることはあり得ない。
だがそれすらも打ち砕くと、魔の暴虐が小さくも輝かしい火を消さんと駆ける。終わりの一撃、幻想を砕く現実の襲撃。エリスには抗うことは不可能だ。
でも決して目を閉じない。誓いがあるのだ。信じた約束と、交わした思い、そして真っ直ぐ走った背中を見つめ続けたから、エリスは凶悪な風圧に押しつぶされながら手を伸ばす。
意味のない抵抗。意味のない誓い。だが誰よりも輝く炎を宿した行動は、動きもしないいなほの心を熱く滾らせ、一つの思いを胸に宿す。
己の背中を守る仲間ではない。
馬鹿をして騒ぎ合う友人でもない。
ましてや、互いを見つめ合い愛を囁く恋人ですらない。
誰よりも、何よりも、欲しかった者はきっと、ただ隣で己と同じ馬鹿をやる──。
「相棒が、欲しかったんだ」
瞬間、眩いばかりの閃光がいなほの体から迸り、世界が光に飲み込まれる。
そして、信じられないことが起きた。
「……え?」
エリスは停止した剣を見て目を見開いた。突然地面がなくなって尻もちをついて見上げる先には、巨大な切っ先と、それを受け止める、太陽のようなオレンジの光を纏う浅黒い筋肉質な腕。
「う、ぇ……」
エリスの目から、乾いたはずの涙が再び込み上げてきた。ごちゃ混ぜになる感情。でも一つだけ分かっていることがある。
信じていた。絶対に大丈夫だって信じていた。それまでは自分が守るって決めていただけで、きっと立ちあがるって信じていた。
「ナ、ニ?」
キングが困惑の声を上げる。決して手を抜いたわけではない。強化の魔法は最大限まで引き上げて、力の限り振り下ろした、先程と遜色のない渾身であったはずだ。
それがどうして受け止められている。
そしてお前は、どうして立ち上がっている。
「何故ダ!?」
キングが叫ぶ先には、エリスの信じたどうしようもなく不敵な笑み。傷だらけの体だというのに、その男は全く疲労を見せずに、膨大なオレンジの魔力を放出して立っている。
エリスの脳裏には、かつて助けを求めた太陽の勇者が甦っていた。太陽の光を身に纏う勇気の戦士。
誰よりも圧倒的な力を漲らせ。
誰よりも圧倒的な誇りを宿し。
誰よりも圧倒的な自我を張る男。
「いなほさん!」
早森いなほが、そこにいる。
「へっ、お前は目を離すと直ぐ泣きやがる。面倒な奴だなオイ」
相変わらずの軽口に、エリスは不満とばかりに頬を膨らませた。全く、自分がどれだけ心配したのかもしらないで。
「もう……もう! いなほさんの馬鹿!」
「今さらだぜぇエリスよぉ。俺ぁ根っからの馬鹿だしなぁ」
でも、そう続けていなほはエリスに左手を差し伸べた。
「そういうテメェも、根っからの馬鹿だろうが」
「……はい!」
エリスがその手を掴んで立ち上がった。そしていなほはエリスを背中に隠すでもなく、自分の隣に立たせた。
「飛ばしてくぜ。お前の『ここ』は、俺の隣だ」
いなほが自分の胸を強く叩く。それに応じるようにエリスが頷いた瞬間、いなほは手に掴んだ剣を引きよせて、一気に投げ飛ばした。
「オォ!?」
キングが剣に引っ張られて背中から転んだ。まるで先程とは力量が違う。驚愕に困惑しながらも起き上がったキングと同時に、いなほもひとっ飛びでクレーターから飛び出した。
「馬鹿ナ。ソノ魔法ハ一体ナンダ」
いなほから吹き出す魔力。それは強化の魔法のように全身が発光するようなものではない。胸から吹き出す魔力が、体中にどんどん吸い込まれているという摩訶不思議な現象だ。
「さぁな。俺にだってわからねぇ。でもよ、こいつが言うこときかねぇから、だったら無理矢理動かしてやろうと思っただけよ」
そう言ういなほは、しかりつけるように腕を軽くはたいた。見れば、砕けたはずの右手はとっくに回復している。まるで時間を戻したかのよう。傷口も出血がなくなっていて、打撲跡もなくなっている。
誰がそんなことを予想できただろうか。早森いなほは、己の筋肉を理解し尽くしているが故に、そこに魔力の意味をもたらしてしまったのだということを。
無形の力である魔力、そこに意味を与えて力となす魔法。これには幾つもの種類があり、その一つに『自然魔法』と呼ばれるマイナーな魔法がある。これは、自然の様々な物体の在り方を理解し、そこに魔力を通すことで、その自然が内包する在り方を強くする魔法である。例えば、木の種を理解し、そこに魔力を与えれば、瞬く間に成長して大木となり、新たな実をつける。炎を理解し魔力を与えれば、その熱量はさらに増加すると言った風に、その物体の持つ意味をより強くする魔法といったところか。
しかしこれは、物の意味を深く理解しなければ使えない上に、言語魔法よりも使い勝手も性能も低いため、現在では使う者などほとんどいないし、いつかは忘れ去られる魔法である。
それといなほの魔力の運用の仕方はほとんど酷似していた。魔力が発生したとき、誰に教わるでもなく魔力を出し入れできるほどの深い理解、そして、身体の仕組みを理解し、効率的な運用を目的とする武術も、現代の達人を遥かに凌駕する技量で備えている。
であれば、そこまで完璧な理解をされた筋肉に魔力を通せば、魔法として発生するのは自明の理である。普通の人間なら、その常識外れな魔法などあり得ないと断ずるかもしれない。
確かに肉体とは自分が誰よりも理解している物である。だが、何故これまでそこに魔力を通そうとした者がいなかったのか。答えは簡単。それが不可能であったからだ。
肉体とは魂から発生し、精神を抜けて発生する魔力のいわば射出口である。つまり本質的に、無形の形である魔力の媒体であるために、その概念的性質も純粋無垢、つまりは無である。なのでこれまで、魔力を有する生物に魔力を直接付加することは不可能とされてきていた。自然魔法自体がマイナーだったということもあるが、そんな考えに至った者などごく少数だったに違いない。
しかしここに例外が現れる。概念的な理解ではなく、単なる物質として己の肉体を理解し、かつその運用方法に長けて、完璧なまでに制御している人間。それがいなほだった。
そして奇跡ともいえる偶然の末に発生した魔法は、筋肉の持つ意味、というよりも、その潜在能力を覚醒するに至る。
人間は、普段どんなに全力を出しても、その全開の三割程度しかだせないと言われている。だがいなほという筋肉化け物の筋肉は、さらに常人の何十倍も危険なため、これまでいなほはどんなに力を込めたといっても、『その潜在能力の一割もだせていなかったのだ』。
「ま、理屈なんざどうでもいい……」
いなほ本人すらその込み上げる力に驚きを隠せずにいた。本来使用されるはずだった性能の全てを発揮したいなほの筋肉は、粉砕した右手を即座に治す程の治癒能力を発揮。力に関しては、解放された十割の力によって、強化の魔法を使ったキング以上となっていた。
いなほは軽く拳で掌を叩く。発生する破裂音と衝撃波。軽く叩いてこれだ。いなほは今、圧倒的な全能感に包まれていた。
こうして、遂に人外の筋肉は魔法の力によって覚醒する。世界でたった一つ、早森いなほという化け物筋肉を搭載した男のみに許された魔法。
「これでまたテメェをぶん殴れる。それだけで充分だろ?」
名付けるならば、人の業と筋肉、二つの常識破りが産んだ『覚醒筋肉─マッスルマジック─』。常人の理屈と理解を屁理屈と不条理で覆すような力技こそ、その魔法の正体であった。
「オモシロイ! オモシロイゾ!」
あり得ない存在感に武者震いを起こしながらキングが起き上がった。やはりこの男だった。キングもまた頂に達した好敵手の姿に興奮していた。それがキングの闘争心を刺激して、限界を超えた魔力の嵐が吹き荒れる。ここに来てさらに増加するキングの存在感に、いなほもまた笑って見せた。
「ケケっ! テメェも王だ何だと言われてるくせによぅ! 結局は俺と同じ糞ったれじゃねぇか!」
「然リ! 闘争コソガ魔ノ真髄! 魔ノ存在! 闘争ヲ望マヌ魔族ナド、家畜ニスラ劣ル畜生ヨ!」
「吠えたな! テメェ! でもよでもよぉぉぉぉ!」
漲る魔力の総量は増加の一方、先程までのいなほならば、今度こそ一撃で死ぬしかないだろう戦闘能力の昂り。王の名にふさわしき力の証明。魔の在りよう。
だがそれでも証明する。何度倒されても、何度屈服させられても、それでもいつだって謳ってみせる。
己の業。己の存在。己の己たる絶対理由。
つまり、最強こそが、全存在。
「勝つのは『俺』だぁぁぁぁ!」
いなほの左拳が、勝利を謳い天高く伸びる。その先に吸い込まれるオレンジ色の輝き。太陽の光にだって負けない、不倒不屈を知らせる勇者の輝き。それは、情けなくも与えられた敗北を返上しようと叫ぶ筋肉の咆哮でもあった。最後を超えても抗おうとした主につき従えなかったことを恥じ、もう生涯その意志についていき栄誉を挽回しようとする戦士の輝きであった。
その輝きを引きつれて、いなほが最後の戦いへと突撃する。全存在を明かす今、灼熱のワンセコンド。開始は互いに、ゴング代わりの咆哮を。
「ぃッッぞオラァ!」
「来イ!」
いなほが大地を蹴った。爆発。土の塊を発生させながら、信じられない速度でいなほが駆ける。走る度、衝撃に耐えきれなかった筋肉が断絶するが、断絶した筋肉は、体中のカロリーを壮絶な勢いで消費しながら無理矢理回復。キングは目を見張るほどに早くなったその動きに驚くが、それでもどうにかその影を補足して拳を振るった。
迫る漆黒。先程まで縋るのがやっとだった破滅を前に、やはり男は破顔一笑。握りこんだ右手。屈したからこそ再び挑む。オレンジを吸い込んで筋肉が膨張した。まるで押さえつけられていた鎖から解放されたかのように盛り上がり、皮膚が限界まで伸び切る。
力の割に細いと思われていたのはなんでもない。これまでは潜在能力を抑えつけられ、それに合った大きさになっていただけでしかなかったのだ。だが突然の限界行使に、血管が弾け出血し、筋肉すらも自身の力に千切れていく。
だが破壊される度に体は修復されていく。体を動かすだけで常に激痛が走るが、この敵を倒すための代償ならば安いものだ。繰り返される再生と破壊。今まで容易く行ってきた全力がこんなにまで苦しいとは思わなかった。
踏み込んだ瞬間。遂に筋肉の暴虐に耐えきれずに足の骨が砕けた。だが代わりに筋肉が骨の代わりになる。巻き込むエネルギーは以前の何倍か。地面は踏み込みの熾烈に弾けるのではなく消し飛ぶ。かつて土だった煙幕がいなほの周りに発生。その煙を抜けて拳は飛んだ。
激突。勝利と敗北の図式は逆転する。
「グォォ!?」
「らぁぁぁぁ!」
己の身すら削る肉の弾丸は、狙いすまして一点集中。キングの拳に着弾と同時に、その拳を弾き飛ばす。
キングの拳が吹き飛ぶ、頭上高く跳ねかえった拳は、骨と筋肉がミンチになってしまい、赤い出血を発生。それでも痛みに苦しむといった醜態をキングは見せない。返しの牙として、左足が巨大な壁となっていなほに飛んできた。
まだやろうってか! 体が震える。極限の先、限界突破の果てをさらに見れる奇跡に感謝。
「もういっちょぉぅ!」
いなほはその場で軽く飛ぶと、両足を折り曲げて体を真横に倒した。迫りくる緑色の肉の壁。いなほは折り曲げた両足の爪先を伸ばすと、そのまま両足を蹴りだした。
俗にドロップキックと呼ばれる一撃。違うのは両足の爪先が槍の矛のように伸びていることか。それがキングの足の甲にぶつかると、まるでドリルのようにその肉を抉った。
「ゴォォォ!?」
そして巨人の一撃は、筋肉という魔法に敗北する。体重差など関係ない。弾くつもりが逆に弾かれた足。そしてキングはバランスを崩してしまう。だが攻撃を与えたいなほの両足もまた、骨が完全に砕けていた。
だがそんな激痛など微塵もみせずにいなほは即座に着地すると、回復を待たずに一気に駆けだしてキングの右足に辿りついた。そして、両手を拳、射出方法はガトリング。かつてクイーンにぶつけた弾幕結界を、本当の全力全開で放出する。
「いいぃぃりゃぁぁぁ!」
いなほの両拳が残影すら残すことなく消えた。全く見えぬ連続攻撃がキングの脛を叩き潰す。一秒で何十発以上放ったかわからない。ただその攻撃により、キングの脛が砕け、そして代償としていなほの両腕から吹き出した血液が霧のようにいなほの周りを漂った。
どんなに直ぐに回復しようが痛みだけは消えはしない。断裂する度に修復される筋繊維。砕かれる度に筋肉に締めつけられ固定される骨。しかも体のカロリーと血液は、僅か三十秒にも満たぬ肉体の全力行使で、もうこれ以上の消費は死に繋がる程までになっており、いなほは体感的に自分に残されているのが後一撃であることを理解した。
そしてそのタイミングはもうすぐそこだ。両足を潰されたキングが前のめりに倒れこんでくる。いなほは一気に後ろに後退。出血する大腿。構わずキングの顔が落ちてくるところに構え、二人の視線は交差した。
「決着ダ!」
「応ぉ!」
雄たけび、残るありったけの力をいなほは左手に注ぐ。キングも落ちながらまだ無事な右手に全ての力を込めた。
「こいつがぁぁぁぁぁぁぁ!」
互いに残された力は一撃。
互いに限界を超えた一撃。
互いにこれまで消費した全てを超える一撃。
これが本当の、決着となるならば。
光速すら突き破る気合いで駆け抜ける拳。拳閃は、遂に光の尾を引くように大気を砕き、限界を突き抜けて撃滅の瞬間を望む。脈々を疾走する血液すら質量を得て拳へと集中した。体の全てが拳に引きずり込まれる。いなほはこの瞬間、ただ一つの拳となっていた。何もかも拳と化して放たれるその拳は、マックスのマックス。限界突破の向こう側。いなほという常識外れの常識を上回る非常識の煌めき。
「必ッッッッ殺ぉぉぉぅぅぅぅぅ!」
渾身と渾身。崩壊する世界。音すらも掻き消える無窮の間。踏み込みは激烈を超えた。ただの踏み込みが、四方百メートルはある天然闘技場の、端から端まで亀裂を走らせる。得られるエネルギーは無限大。激痛と共に拳へと到達する力。炸裂の間際、いなほとキングは互いを見て、そして、全てを悟り。
壮絶な笑みをこぼしたのは燃えるオレンジ、太陽を取り込む男。
「ソウカ……」
激突する拳と拳。瞬間、キングの拳は筋肉の暴虐、王の暴力を上回る強き力に吹き飛ばされる。上がる声、敗北を告げるその小さな拳を、キングは清々しい心のままに見据え──
「コレガ、敗北カ」
落ちるままに、いなほの拳が炸裂した。
アッパー気味に入ったいなほの拳。全身に感じる重量感は、トラックなどよりも遥かに圧倒的。血管が次々に千切れ、腕の至るところがはちきれる瞬間の風船の如く膨張。それでも歯を食いしばり、体を捻り、僅か二メートルの小さき体のたった一本の腕、たった一つの小さな拳に全ての重量を乗せ、全長十メートルの巨体をその数倍以上の高さまで吹き飛ばす。直後、キングを絶殺した左腕から順に、体中の筋肉があまりの負荷に皮膚を引き裂いて出血した。砕けた大地は、今度こそ敗北を認めた物理法則の悲鳴。百の力を発揮したいなほの肉体は、最高の強敵の顔面を破砕しつくし、その断末魔すら奪い、勝利を完璧にもぎ取る。
打ち上げられる巨人の骸。それが沈めば、空には栄光をたたえる輝かしい太陽の光があり、いなほの体を祝福するように照らし出す。
そして終わりは、大胆不敵な笑顔を一つと。
「……ヤンキーパンチだ。クソ野郎」
早森いなほは、鮮血滴る左手の中指を、勝利の旗代わりに『おっ立てた』。
─
闘技場に静寂が戻ってから、エリスはクレーターを必死によじ登って脱出した。視線の先には、仰向けに倒れ動かないキングの亡骸と、その直ぐ近くで尻もちをついて荒い息を繰り返すいなほ。
そのいなほの体が、とうとう横に傾く。
「いなほさん!」
エリスは慌てて駆け寄ると、その体を支えようとして、あまりの重さに一緒に倒れこんでしまった。「ぐぇ」と少女にあるまじき潰れた蛙のようなうめき声。恥ずかしさに頬を染めながらどうにか筋肉布団から脱出すると、エリスはなんとかいなほの頭を持ち、自分の太ももの上に置いた。
体中が血で濡れているが、エリスはその顔を見て笑ってしまった。なんとも気持ちよさそうな寝顔である。まるで遊びつくした少年のように穏やかで満足げな表情。先程まで死闘を行っていたようにはまるで見えない。
「ホント、敵わないなぁ……」
エリスはその染められて痛んだ茶色の短髪をそっと撫でてから、顔についている血と土を服の袖で拭う。
「ケ、ケケ。俺、のぉ……勝ちぃ……」
「戦いばっかだね。いなほさんは」
寝息も穏やかだ。時折呟かれる寝言は恐ろしいが、まぁそれについては目を瞑ろう。
何せあんな戦いの後なのだ。筋肉だって今はゆっくりと惰眠を貪っているはずである。
戦いは終わった。エリスは最初から見ていていないのでその詳細まではわからないが、想像を絶する戦いに違いない。途中で会ったアイリスも、あんなに強そうなアイリスですら重傷を負ったのだ。
だから今はゆっくりと休んで欲しい。自分にとっての悪夢の象徴であるトロール達を全部叩いて追い払ったいなほに、自分はまるで恩を返せる方法が見つかってなくて、心苦しくはあるけれど、せめてこうしていなほが穏やかに休める場所にはなれるはずだ。
「だからせめて、今だけでも……休んじゃってください。私、これだけしか出来ないから……だから……ゆっくり……」
そう言いながら、エリスの瞼も落ちていき、頭が船を漕ぐ。無理もない。長時間の乗馬を行い、迷いの森という強いストレスを感じる魔獣の巣窟を駆け抜け、そして短時間とはいえトロールキングの凶悪な魔力と殺気に当てられたのだ。そこらの少女と変わらない体力しかないエリスは、むしろここまでよく頑張ったといったところだろう。
そしてエリスの瞼が落ちて、頭も下を向いた。肩が上下し、完全に眠ってしまう。キングのせいでほとんどいないとはいえ、迷いの森という魔獣のはびこる場所で堂々と寝るなど、普通なら考えられないだろう。
だがせめて今は一時の休息を。互いに前を向いて戦った二人の勇者に束の間の安息が──
「むっ……」
地鳴りなどがなくなり、不安に駆られながらも天然の闘技場に出たアイリスが最初に見たのは、あまりにも目立つキングの巨体ではなく、その横で小さく丸まっている二つの影だった。
少女の膝枕で眠るヤンキー。場違いであり、だが何処か冒しがたい神聖な光景に、アイリスは自分の心配が杞憂だったことを悟り、安堵と呆れ、二つが入り混じった溜息を漏らした。
「名づけるなら天使と悪魔。いや、馬鹿と馬鹿、だな」
起きたらどう説教してやろう。アイリスは重い体を引きずって、しかし二人を起こさないように静かにその側に寄っていく。
残響するのは木々が奏でる優しい歌。風が包むように二人の馬鹿の間を吹き抜け、太陽が労うように暖かな日差しを送った。
戦いの後は、いつだって穏やかな結末が待っている。
中指を突き立てたままのヤンキーは、二人の女性の気苦労など気にした素振りもみせることなく、気持ち良さそうに眠り続けるのであった。
男は背中で語る。そんな男が初めて見た背中は、小さい少女の、大きな背中。
次回、兄妹