第三十八話【心の勇者】
僅かに時は遡る。
アイリスが次に目を覚ましたとき、最初に見たのは討伐隊のメンバーの一人の冒険者だ。「間に合ってよかった」と安堵のため息をもらす冒険者を呆と見つめながら、アイリスはゆっくりと体を起こした。
「づっ……!?」
左肩を襲う激痛。顔を顰めたアイリスを、冒険者は慌てて抱きとめた。
「駄目よアイリス。なんとか見た目は回復したけど、暫くは動けないわ」
「……不甲斐ない。それより、戦況は?」
「このあたりのトロールは殲滅したわ。でも、私達は完全に魔力を使いはたして戦闘は困難、私も、あなたの治療で魔力を使いはたして……」
「すまない、私のために……」
「いいのよ。それよりもアイリス、実は馬に乗った子が貴方を殺そうとしたトロールを馬で蹴り飛ばして、貴方を私に預けたと思ったら、落ちてた貴方の片手剣を持って、これ以上先には馬では進めないからそのまま走っていってしまったの」
「何?」
冒険者の言葉に、アイリスの記憶が甦る。そう、あのとき最後に見たのは、トロールの顔ではなく──
「エリス!? 来たのか!?」
その答えに行きつき、アイリスはどうにか起き上がるが、体中を襲う激痛に膝をついてしまった。
その背中を支える冒険者も、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「ごめんなさい。私以外の人はほとんど動けなくて、貴方は直ぐに治療が必要だったから私も追うことが出来なくて……」
「我々の怠慢か……治療、感謝する。私は行くぞ」
「ちょっと!?」
冒険者が引きとめようとするが、アイリスは痛む体を精神力で無理矢理動かし、近くに置かれていた氷の女神を持ち上げ、それを杖にして歩き出した。
「無理よ! もう彼がキングを倒す手助けは私達には出来ないわ! それにこの轟音が聞こえるでしょ。今すぐにでも撤退するべきよ!」
「悪いが、彼も、そして私を助けた彼女も、私がギルドに誘った口でね……責任があるんだよ、私には」
「……私達は撤退するわよ?」
「構わん。助力、感謝する」
アイリスは会話もそうそうにして、いなほのいる方向に歩きだした。遠くからでも聞こえてくる爆発と地響き、木々の落ちる音。いなほはまだ闘っているのだ。一人で、誰の手助けもなく、天災とも呼ぶべき化け物と戦っているのだ。
ならばアイリスは行かなければならない。例え出来ることがほとんどなくても、行かなければならない。満身創痍の体を押してアイリスは行く。一歩一歩、確実に。動かない体がもどかしい。今すぐにでも走り出したいのに命令をきかない体が不甲斐ない。
「……今行くぞ、いなほ、エリス」
音の響く方向へ。願わくは、たどり着くときにはいなほが勝利を謳う拳を天に突き刺していることを願って──
─
決着はついた。キングは拳に残る感触を確かめるように見つめてから、自身の身長を遥かに超える砂塵を手で薙ぎ払い、その向こうを見た。
大地が崩壊していた。円形に吹き飛んだ大地の深さは、キングの体がすっぽり隠れるほどである。広さもキングが入りこむには充分。それほどの深い傷跡が刻まれた大地の中心。
そこに、敗北した獣のなれの果てがあった。
閉じられた眼。だらしなく投げ出された四肢。糸の切れた人形のように起き上がる気配をみせない。全身が打撲と出血で汚れた体。
それは最強を誇った男の敗北した姿だった。彼を知る者なら誰もが目を疑う姿に違いない。
誰よりも鮮烈で。誰よりも豪快で。誰よりも強かった男。それが早森いなほだ。だがそこにいるのは、そんな姿などまるで感じられない薄汚れた敗者に過ぎなかった。
「幕切レハ虚シイモノダッタナ」
キングは共に灼熱の時を過ごした同士として、言いようのない寂しさを感じていた。体に刻まれた痣の数々は、いなほという強者から与えられた勲章にして、同時に二度と戻らない闘争を思い出させ、キングの心に冷たい風を吹き込む。
だがキングは魔で、いなほは人族だ。故に決定的な決着。つまりいなほの殺害をしなければならない。嬉しくもあり心苦しい話ではあるが、あの一撃を受けて、いなほはまだ気絶だけですんでいたのだ。驚嘆すべきは鋼のような筋肉か。しかしそれは、僅かな時間の間の延命でしかない。結局、いなほはキングに殺される。この事実は覆しようがない。
キングはゆっくりと折れた剣に向かって歩き出した。そして容易にそれを持ち上げて振り返る。いなほの眠る闘技場に再び赴き、墓標の代わりにこの剣をその体もろとも突き立てるつもりだった。
「セメテ一撃デ葬ッテヤロウ」
尊敬出来る相手であった。あるいは己を凌駕したかもしれない闘争本能から来る戦闘能力と、小さきながらも素の自分より力に溢れた肉体。惜しむべきは、そこまででしかなかったことか。
キングはクレーターの前に戻ると、折れた剣を両手で持ち、刀身を下に向けた。全力で引き裂く。そしてこれが終わったら今度こそ殲滅戦といこう。そう誓って剣を振りおろそうとして。
「いなほさん!」
そんな可憐な声辺りに響き渡った。
キングが視線を向ければ、まるで力など感じない弱々しい少女が肩で息をしながら、恐怖に染まった眼差しで自分を見上げていた。だが、その剣の先にいる者を感じたのか、少女は血相を変えて、キングという恐るべき敵を無視してクレーターに飛び込んだ。
剣を胸に抱いて、坂を滑っていく。そしてその中心で倒れるいなほの姿を見つけて、少女、エリスは目じり一杯に涙をためて駆けよった。
「いなほさん! いなほさん!」
駆けよると同時に剣を横に投げて、いなほの頭を持ち上げる。溢れだした涙が、いなほの土に汚れた頬に落ちた。まるで死んだかのように動かないいなほを見て、エリスは悲しくて悲しくて涙が次々に落ちては止まらなかった。
どうしてこんなことになったのか。これではまたあの時と一緒だ。自分を助けるために命を散らした家族と一緒だ。自分はまた助けられなかった。また間に合わなくて、まだ弱いままだった。
「うぇ……い、いなぼざんぅ……いなほさぁん……! じっがりしてよぉ! いなほざん!」
「無駄ダ。ソノ男ノ意識ハ完全ニ途絶エタ」
「ッ……! あなたが!」
キングがエリスに絶望を告げる。無情な言葉を聞いて、エリスはキングよりも圧倒的に弱い存在でありながら、挑むように涙に濡れた眼差しのままキングを睨み上げた。
その挙動にキングが驚く。普通なら、キングの放つ巨大な魔力の放出に情けなく気絶していてもおかしくない。だがエリスはそんなキングの魔力にまるで屈したりせず、むしろ怒りを露わにしていた。
許せない。相手はとても強大で、いなほですら敗北した相手である。だというのにエリスはそんなキングを許せなくて、いなほの頭をそっと地面に横たえると、近くにあった剣を鞘から引き抜いてキングに向けた。
「……剣ヲ向ケレバ、例エ弱キ者デモ容赦ハシナイ」
敵対行動には死を。キングの魔力が物理的な圧力を持って放出されて、エリスにぶつかった。だが、容易に吹き飛びそうになりながらも、エリスは剣を盾にして、身を屈め、必死にその魔力を耐えていた。その背中には気絶したいなほがいる。まるでいなほは自分が守るのだとでも言うかのように、エリスはキングにとっては児戯の如きものから必死になっていなほを守っていた。
「何故、ソウマデスル? 最早死ハ免レラレヌトイウノニ」
「……私は、いなほさんに沢山助けられた」
耐えきったエリスは、重たいはずの剣を力の限り持ち上げる。切っ先はふらついていて、型もまるでなってはいない。エリスはどんなに気丈でも、ただの村娘だった少女に過ぎない。
──でもよ、お前は『ここ』が強いじゃねぇか。
そんな体を突き動かす熱が『ここ』にあった。
「ガサツで、下品で、どうしようもなく単純で、馬鹿で、人の話も聞かないし、顔は怖いし、デコピンはするし、いなほさんはどうしようもない人で」
熱は心臓の奥。肉体の中ではなく、魂から発せられるものだ。それは、あの夜に刻まれた魂の火傷。決して治ることはない永遠の誓い。
「でも! 強くてかっこいい、私のたった一人の勇者様だから! だから今度は私が守って見せる! もう背中だけは見ない! 一緒に前を向いて! 一緒に闘う!」
『ここ』から発生する熱がエリスの小さな体に、キングすら超える大きな勇気をもたらしてくれる。自分はとても弱いけど、それでも彼が与えてくれた熱が、絶対に倒れず、絶対に屈しない強さを生み出すから!
「だから今度は、私が相手だ!」
「……吠エタナ、小娘」
キングが再び剣を構え直す。狙いは最初と変わらない。切っ先が裂く相手が増えただけのこと。だが、その心に敬意を表して、全力で葬ってみせよう。
「今日ハ良キ日ダッタ。サラバダ、強キ者達ヨ」
今度こそ断頭台からギロチンは落とされた。それはエリスという紙よりも薄い障害を超えて、いなほもろとも殺すだろう。だがエリスの瞳には諦めはない。剣を持ち上げて、迫りくる一撃を受け止めようと剣を振るう。しかしそれが振りきられるよりも早く、王の処刑は決行された。
次回、ヤンキーりみっとぶれいく