第三十六話【女の戦い】
──戦いは激化する。
「お馬さん借りていきます!」
「お、おい嬢ちゃん!?」
「これ、お代です!」
エリスはあの日いなほに渡された銀貨のお釣り全てを投げるように男に渡すと、そのまま馬に乗ってアードナイ方面の門を抜けて馬を走らせた。
「いなほさん! いなほさん!」
いなほの力だったら何があっても大丈夫だとわかっているのに、それでもエリスは彼の元に行かなければならないと思った。確信は全くない。行けば迷惑をかけるということもわかっている。
だけど行くのだ。理由なんて必要ない。そうしないと駄目なのだ。駄目だってわかるのだ。
馬を全力で走らせるが、その速度すら遅く感じる。こんなとき強化の魔法を使えない自分の至らなさが悔しい。
「いなほさん!」
いなほの名を呼び続ける。か弱き少女には彼の無事をただひたすら祈るだけしかできないのだ。
こうしている間にもいなほの身に危機が迫っている。いやもしかしたらもうすでに──
「大丈夫、いなほさんなら大丈夫!」
弱気な思考を首を振って声にも出して振り払う。エリスの信じているいなほはまだ大丈夫だから。
「だから!」
林道を抜けて進めば、懐かしきメルル村が見えてくる。馬はだいぶ疲労しているが、酷ではあるものの行ける所まで進んでもらうしかない。
「やぁ!」
馬をさらに前へと進ませる。未だ悪夢に見るあの日の村。エリスは一瞬入るのを逡巡してしまうが、意を決して一気に入り口を抜けて迷いの森へと走らせる。
理由なんて何処にもない。もしかしたらいなほは迷いの森になんて行ってないのかもしれないが、あの夜叩かれた胸に宿る灯火が、自分を迷いなく進ませるのだ。
だから行く。既に数時間以上馬の上にいるエリスだが、滲む疲労も無視して馬も通れる獣道を駆ける。
ただその心臓が導くままに、エリスは初めて自分から立ち向かうことを選択したのだ。
──戦いは激化する。
これで何度になるかわからない激痛。横薙ぎに飛ばされたアイリスは、それでもお返しとばかりに氷の槍を作り出すとトロールの顔面に突き裂した。
脳まで一気に突き刺さった氷の槍がさらにその頭の中を瞬時に凍らせる。だがトロールを一体倒した所で、まだまだ数は残っている。
「ハッ……! ハァッ……! グゥッ……!」
足りない酸素を取り込もうとして、折れた肋骨が痛んでアイリスは顔を顰めた。額から流れる出血が目に入って視界が狭まるが、拭うような暇もない。
「ガァァァァァァ!」
雄たけびを上げて新たなトロールが襲いかかる。受けるのは難しいと判断したアイリスは転がるようにして棍棒を潜りぬけると、その足を氷の女神で両断した。
突然足がなくなりバランスを崩したトロールが倒れてくる。だが焦ることなくその体を避けて、アイリスは起き上がりざまにトロールの背中に氷の女神を突き立てた。
「こんな戦い……マスターが聞いたら呆れるだろうな」
自身の身を遥かに凌駕した高ランクの依頼。他の者も何とか善戦してはいるが、アイリス同様に、最初のときの動きのキレは見られない。
だというのに敵の戦力はアイリスを取り囲む奴だけでも、ナイト一体とトロール五体。あれからもう一体のナイトも倒したが、再び新たなナイトが現れたのだ
しかしアイリスは笑った。何故ならトロールの新たな追加が出てきていないのだ。
「底は見えたぞ。トロール共!」
先が見えなかった終わり。だが明確なゴールが見えた今、アイリスの闘志は再び燃え上がる。痛む腕で氷の女神を持ち上げて、森中に響くように声を張り上げた。
「我らの意地を見せつけろ!」
返事はない。代わりに至る所で膨れ上がった魔力が応じる。
良し。アイリスも清涼とした青色の魔力を放出しながら、周りを取り囲むナイト達を睨んだ。
直後、黒色の邪悪な魔力が森の中を駆け巡り、誰もが動きを停止させた。
「……ッ!?」
これまで感じたこともない凶悪な魔力の奔流。心胆を凍えさせるような濁流を前に、矮小な存在はその余波だけで呼吸を停止させてしまうだろう。
アイリスすらも弱小な存在でしかない。敵を前にして武器を降ろしてしまうという暴挙。だが敵もまた武器をぶら下げるだけで体を震わせるばかりだ。
生物としての本能が警報を鳴らしていた。直ぐにでも逃げ出せと叫んでいた。だが理性はそれでも踏みとどまることを選択する。だがそんなアイリスの覚悟を嘲笑うかのように、魔力の放出は増していく。逃げないと誓い、戦うと決めた心がぼろぼろと壊れていく。
だけど君は、こんな化け物が相手でも笑っているんだろうな。
「共にした時間は僅かだというのに、君は本当に面倒な奴だ」
氷の女神を構え直し、いち早く覚醒したアイリスは、まず近くにいた呆けているトロールの首を容赦なく切り捨てた。
「ゲギャ!?」
「ふん。他所見をしている貴様が悪い」
トロール達が驚きの声をあげる中、何の悪びれもなくアイリスはこびりついた血を振り払う。これで何度になるかわからぬ同胞の死に、トロール達が怒りをあらわにするが、それこそ何を今さらだ。
「先に手を出したのは貴様らだろうが!」
重い体を押してアイリスが駆ける。四方から迫る棍棒と、ナイトの洗練された一撃。辛うじてその全てを防ぎきっても、返す太刀ではナイトに浅い傷を与えることしか出来ない。
いつの間にか攻勢防御も切れていた。だがアイリスの剣捌きは衰えどころかさらに冴えわたる。一刀でトロールを切り伏せ、背中に強烈な棍棒の一撃を浴び、吹っ飛び血反吐を吐いて再び起き上がり、突撃してきたトロールの首を突く。
滴る鮮血。戦いの狂気がアイリスにどす黒い笑みを浮かばせた。まだだ。彼が戦っている、ならば動け。
「まだま……ッ!?」
飛びだそうとしたアイリスの動きが止まる。トロールの喉を突いた氷の女神を引き抜こうとしたが、まるで引き抜けない。
「ゴ、ガ……」
トロールが僅かに残った力で氷の女神を掴んだのだ。そのためにアイリスの動きが不自然に硬直する。
そして、その隙を逃すナイトではなかった。
「ゴォォォォォォ!」
ナイトが同胞の体もろともアイリス目がけて断頭の刃を振り下ろす。なんとか氷の盾をその間に展開するが、最早殆ど残っていないアイリスの魔力では、ナイトの一撃を抑え込む盾を作ることは出来ず。
結果、氷の盾は砕かれ、トロールもろともアイリスの肩に刃がめり込んだ。
「ギッ!?」
左肩を潰す鉄塊。肩当と、氷の女神によって幾分勢いは減少したものの、アイリスの肩は完全に粉砕された。肉と骨がミンチになっているような錯覚。
痛覚が来ない。つまりは緊急事態。
そして鮮血。切れた血管から流れたそれが、ようやく仇敵を食らった鉄のアギトに滴り落ちる。
崩れ落ちる両断されたトロールとアイリス。左半身に力が入らない。腕どころか足まで取られたよう。だがそんなアイリスのことなどお構いなしに、ナイトは肩にめり込んだ鉄塊を引き抜いた。
赤い線を引いて再び空高く持ち上がる死神の切っ先。絶対に逃さないと、鎧越しにナイトの体が隆起する。まるで弦を目一杯に引き絞った弓のよう。放たれればそこで終わり、そして躊躇など何もなく死が落とされ──
「動けぇぇぇぇ!」
アイリスは普段のクールな表情を崩し、絶叫しながら片手で氷の女神を振るった。さらに一瞬、展開を終了した攻勢防御も現れて切っ先に集中する。
交差。吹き飛んだのは、ナイトの剣だった。
「ゴォ!?」
信じられないと驚くナイトの両手はなくなっている。あの刹那、アイリスは鎧の手首の僅かな隙間に氷の女神を通して見せたのだ。
遅れて、アイリス以上の出血がナイトの手首から発生する。痛みに悶えるナイトを、アイリスは光の灯らない目で嘲笑った。
「……舐めるな。豚が」
最後の力を振り絞って、狂乱するナイトの首に刃を突き立てる。今度こそ絶命するナイトもろともアイリスも倒れこんだ。
体が重たい。視界の半分が暗くて霞んでよく見えない。でも闘わないと、そう思って視線を上げれば、片腕を失ったトロールがこちらを見下ろしていた。
「あっ……う、あ……」
声すら出ない。器官に熱血が溢れて、出てくるのは血ばかりだ。どんなに意志を導入しても、動くのは指先のさらに先、その間にもトロールがこちらの首を掴もうと手を伸ばそうと迫ってきている。
そしてとうとうアイリスは首を掴まれ、そのまま容易く持ち上げられた。普段なら苦しいのかもしれないが、全身の感覚が遠い今、首を掴まれ持たれても苦しいという感覚すらない。
これまでか。諦めるのではなく、ただ事実を事実として受け入れる。何、最低限の義理は果たした。このトロールもいなほの元に行く前に死んでしまうはずだろう。他の敵だって、優秀な冒険者と教員によって殲滅されているはずだ。
だから負けるなよ、いなほ。遠くなる意識、音を立てる首の骨。そしてアイリスの意識は。
「アイリスさん!」
暗闇に落ちた。
次回、決着。