第三十五話【魔の業、ヤンキーの業】
森の奥へと入っていくいなほは、突如として開けた場所に出ていた。まるで天然の闘技場か何かのようだ。事実、ここは遥か昔から、魔獣同士の縄張りを争う場となっていたのだろう。迷いの森の王を選別する戦いの儀、そこに唯の人間が踏み入れる。
いなほはゆっくりとその中央に向かって歩いていく。雲ひとつない空から射す太陽の光は、僅かに歩いただけで影に覆われてしまった。
構わず真っ直ぐ進み、中央に到達した時点でいなほは頭上を見上げた。その視線はトロールを見たときよりも遥かに遠い。例えるならビルを見上げているかのようだ。
そう、比喩でもなくそこにはビルの如き巨体があった。全長は約十メートル、一体何がどうなって成長したのかわからぬ巨体は、いなほが誰よりも待ち望んだ好敵手。
大の大人数人分以上の太さの両手両足。巨大な城壁のように分厚い胴体。防具は腰布一枚だけだが、それはいなほと同じく自身の体に絶対の自信を誇る証明。顔は醜悪ではあるが、その瞳は野獣の本能ではなく、理知的な光と戦士の誇りを湛えている。その手にはその巨体と同じ大きさの、鉄を剣っぽく加工しただけの棒が握られていた。体躯だけでも人ではないという確信。そして緑色の肌が、慣れ親しんだ魔獣と同族であると示していた。
否、それは魔獣というレベルの者ではない。異常なる進化の果て、知恵を持つに至った魔なる者。
Cランク─天災級─。その名を蛮族の王、トロールキング。
「待ッテイタゾ。小サキ者ヨ」
腹の底まで響くような低い重低音。いなほはキングを見上げると、照れくさそうに鼻を擦った。
「何だ。迎えられるってのは慣れてなくてよ」
「私モダ」
キングもまた僅かに笑うと、いなほより一歩引いて、冗談でも笑えないレベルの剣を容易く天高く構えて見せた。巨体に似合わぬ流麗な動き、そして構えは山のような不動。そして予想される一撃は烈火のように激烈に違いない。
「語ルコトモアルマイ。イザ」
突如、キングから放たれた殺気が物理的な圧力を持っていなほの髪をなびかせた。いなほの体が震えだす。恐怖? 違う、武者震い。
いなほは着ているシャツを脱ぐと、深呼吸を一つ二つ。誇るように浅黒い上半身の肌の内側、最強を謳う筋肉を漲らせた。その体を伝う汗を太陽が照らし出し、まるで神聖なもののようにいなほの体が光輝く。黒色の筋肉ダイヤモンド。無敵の証を存分にキングに見せつけてから、ゆっくりと目を開けると、微動もしないキングを見据えた。
「あぁ、俺も同じだ」
いつも通りに構えながら、いなほはまるで底の見えない敵の力に今すぐにでも飛びつきたいくらい喜んでいた。だというのに、頭のほうは氷のように冷たく冴えている。集中力は、クイーンに最後の一撃を与えたときと同じくらいに、それ以上の状態に昇り詰めていた。
クイーンすら目でもない。最初から全力全開。一瞬の油断が敗北に繋がる綱渡りをする以上の恐怖と興奮。ない交ぜになる全ての感情を握りこんだ拳の内側に仕舞いこみ、身長差五倍以上という敵へと対峙する。
「……」
「……」
クイーンの時とは違い、突如始まるということはなかった。隙を窺う武士の居合いやガンマンの早打ちのように、互いに瞬きすら隙になると動かない。
そしていなほは相手の隙を探りながら、冷静に互いの能力を比べていた。リーチはまず間違いなく相手側に有利。馬鹿でかい剣も相まって、初手は譲る形になる。トラックの重量など優に超す重量の一撃を掻い潜る。あの日もろに受けた衝撃など比にならない痛みが直撃したら総身を駆け抜けるだろう。
その死線を越えなければ攻撃を与えられない。これまで通ってきたどんな戦いよりもスリルに満ちた初手。
様々なプランがいなほの脳内で組み立てられる。だが最終的にそれら全てを忘却して、いなほは筋肉の赴くままに動くことを決意した。
「行くぜ」
己に言い聞かせていなほが一歩踏み込む。静寂に生まれた僅かな波紋、しかしそれは対岸に行けば巨大な波となる決定的な揺らめきだ。
「オオオオオ!」
いなほの動きに合わせて、キングがクイーンと同じレベルの早さで踏みこんできた。立った一歩、それだけでいなほを容易に射程に収めると、物理的な圧力も圧倒的な剣が、神速の勢いで解き放たれた。
例えるなら空から鉄筋のビルがスーパーカーの最大速度レベルで襲いかかってくるといったところか。あり得ぬあり得ないのレベルではない。想像すら絶するとはこのことだと言わん一撃が、キングにとっては小動物程度のサイズでしかないいなほの脳天を、違うことなく補足している。
二歩目をいなほが踏みこむときには頭上のほぼ間近までそれは迫っていた。ぶつかれば脳漿が飛び出るとか内臓が破裂して四散するという問題ではない。物理的に体が消滅してしまう脅威。天災規模の人外。
だが忘れるな。王に挑む男もまた、人の域を超えた獣である。
いなほの二歩目は、敵へと近付くためのものではなかった。踏み込んだ足は、過去最大級の規模での踏み込み。地面がクレーター状に弾け飛び、いなほの周りに舞い上がる。左腕は隆々と漲り、ガソリン代わりの血液を送る血管が今にもはちきれそうなくらいに浮かびあがった。発生した力は音速を置いて光速で筋繊維のサーキットを疾走する。
さらに力を込めるためにいなほは歯をへし折る勢いで噛みしめた。打突の要である背筋が生き物のように盛り上がり、光速のエネルギーをさらに加速。加速に加速。零秒を突き破る無限の加速。
最大級を超えて、全力すら踏み躙り、今、王の最大を最強で迎え撃つ。
「うぅぅぅるぅぅぃぃやぁぁぁぁぁ!!!!」
いなほの短い髪に剣が触れた瞬間、剣の腹に渾身の左拳が突き刺さる。
瞬間、ミサイルが着弾でもしたかのような轟音と共に、剣が地面をめくり上げて砂塵を巻き起こした。
世界が粉々に砕け散ったかのようだった。この世の終わりを具体した一撃。現実を食いつぶす魔性の脅威。人間では生涯届かない魔の領域。
砂塵の向こうの動きはない。真っ向から打ちあって勝てるはずがない。人間ならば、その敗北は必定であった。
「……」
キングの頭頂部まで舞い上がる砂塵。振り抜いた形で制止するキングは、容易く終わった戦いに些か拍子抜けしたかのような表情を浮かべた。
「……ヤハリ、弱キ者カ」
キングもまた期待があった。突如、何の前触れもなく迷いの森で目覚めた彼は、まず手始めに森の主であるキングバウトとの戦いをしたが、それでも戦士として本気を出しきることが出来ず、言いようのない虚しさを覚えたものだ。
そこに現れたのが、遠くからの気配でもわかる極上の相手。それが小さき者であったことは意外だったが、もしかしたらこの男ならば、自分に全力を出しきらせてくれるのではないかと。
だが、結果はこのザマだ。この程度ならまだキングバウトの方が歯ごたえがあったというもの。決して弱い相手ではなかったが、それでも落胆を感じずにはいられない。
「デハ、殲滅トイコウカ」
剣をまだ晴れぬ砂塵から引き抜く。砂が生じた風で晴れ、うっすらと見えたその先で。
「ナニ?」
見慣れた鉄の塊が、地面に横たわっていた。
「へっ、何処見てんだよぉ」
声、しかも持っている武器の先。キングが咄嗟に目線を移すと、半分にへし折れた剣の上に、潰したはずのいなほが両腕を組んで堂々と仁王立ちしていた。
驚愕するキングを他所に、口に入った砂を吐き捨てて、いなほは指をゴキゴキと鳴らす。
「射程距離だぜ。王様ぁ!」
剣の上をいなほが走る。キングは咄嗟に剣を振っていなほを払い落そうとするが、その前にいなほは刀身を蹴った。
「オラァ! 俺の拳舐め腐ったお灸だよぉ!」
目指すは間抜けた顔したその顔面、全力を持ってぶちかます!
「うぉぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁ!」
「ニンゲン!」
絶対に逃さない。空中で身を捻ったいなほは、その勢いのまま、キングの横っ面に回し蹴りをぶち噛ました。
そのあまりの威力に、キングの顔が捻じれ、足がたたらを踏む。圧倒的な体格差をものともせずに、それどころか痛烈な一撃を与えると言う離れ業。だが追撃は終わらない。地面に落ちて行きながら、揺らぐキングの胸元に狙いを定めて、さらに踵落としを鉄壁である胸にぶち込んだ。
鋼か何かのような緑色のキングの胸筋が、無敵の筋肉の一撃に陥没する。確かな手ごたえ。いなほが着地すると同時に、キングもまた背中から大地に沈んだ。
「っっしゃぁ!」
残心の構えを取りながら強敵から取った一本に思わず声を上げる。クイーンですら一撃で沈めるいなほの蹴り技を二度受けたキングのダメージは相当なものであろう。でなければその巨体が倒れるということはあるまい。
だがそれでも王は王である。それは単純に頂点という名の王であるが故、いなほは決して自分の勝利を確信してはいなかった。
まだだ。まだ俺達の戦いはこれからだ。もっともっと、まだこの先がお前にはあるはずだ。
「さっさと立てぇ! いつまで寝てるつもりだぁ! アァ!?」
「……フン。ドウヤラ、舐メテイタノハ私ノホウダッタカ」
「ったぼうよぉ! 俺の自慢の拳が、たかが鉄如きに負けるわけなんざねぇだろうが!」
キングは言われるまでもないとばかりに上体を起こした。いなほの全力をその身に受けたというのにまだ話す余裕すらある。とはいえキングの内部に蓄積したダメージは、久しく受けたことのない心地よい痛みだった。まさか生身で自分にこれほどのダメージを与える者がいるのかという驚きもまたある。
それはいなほも同じだ。キングの剣に合わせた拳が未だに痺れている。そして頭ごと吹っ飛ばすつもりだった回し蹴りも軽い脳震盪しか与えられず、クイーンの鼻を潰した踵落としは、その厚い胸筋を貫くには至らなかった。
未知の領域。今度こそ絞りきれるかもしれない愉悦。
馬鹿め。そう笑ったのは蛮族の王だった。
「ドウヤラオ前ハ勘違イシテイルヨウダナ」
「何?」
いなほの笑みが消えた。それは事戦いという場で彼がしたことのない行為だ。
そうせざるを得ない程、今目の前にいる巨人の放つ空気は異常なものだった。
「確カニオ前ハ強イ。生身デ私ニ肉薄スル肉体。ソシテソノ肉体ヲ最大限ニ使ウ技量。脅威ト言ッテモイイダロウ」
だが、まだその程度でしかない。キングが起き上がる。体中から邪悪を具体化したかのような『漆黒の魔力を吹き出しながら』キングが立つ。
いなほの体が再び震えた。だが今度のそれは武者震いではない。それは恐怖だった。人間という種であるがゆえに感じる、絶対強者に感じる恐怖。だがいなほは逃げない。無意識に理性の感じる恐怖を本能が抑え込む。
その間にもキングの体から溢れだす漆黒は勢いを増していく。膨大な量の魔力、昼なのに夜が具現化したかのようなそれを従えて、キングは挑戦権を得た敵を見下ろした。
「オ前ハマダスタートニ立ッタニスギナイ」
──魔族は、人間の使う魔法を使う。
そんなことをアイリスが言っていた。そう、魔族は魔獣の身体能力を持ちながら魔法を使う。ではこれまでのキングは、ただ単に魔獣として闘っていたにすぎない。
「ソレデモ私ノ頂ニ至ッタオ前ニ敬意ヲ表シヨウ」
──戦いの力をこの身に。
その時、迷いの森の中にいる全ての生物が動きを止めた。
「久シブリニ敵ト会エタ」
「ッ……! テ、メェ、は……ッ!」
いなほの体中から汗が溢れてくる。重圧感に押し潰されそうだ。呼吸が意図せずに荒くなる。何とか呼吸を整えようとしても、眼前にいる強者を前にそんな悠長なことをしている余裕はない。
それは、先程までいなほと戦っていたものではなかった。
それは、まさしく魔を冠するに相応しいものであった。
それは、人が抗えるものではなかった。
それは、闇の衣をまとい、全てを破壊するものだった。
そう、それは、地獄だ。
「デハ、良イ戦イヲシヨウ」
絶望が牙を剥く。抗いを不可能と断ずる極限の暴力の具体者。
それを前に、いなほは顔を伏せていた。体中から汗を噴き出し、情けなく手足を震わしていた。絶望に折れるかのように背を丸めていた。人であるなら仕方ない醜態を晒していた。
な、わけがあるまい。
「ヘ、ヘヘヘ」
顔を伏せているのは、見れば直ぐに襲いかかってしまうから。
迸る汗は興奮で温度を上げ続ける筋肉を冷やすためだから。
震える手足は、主の意志を無視して飛び出そうとしているのを無理矢理抑えているから。
丸まった背は、早く行けと背中を押されているからであった。
そう、人として最悪なまでに、早森いなほは戦闘を欲していた。
遂に来たのだ。待ち望んでいた絶望が遂に来たのだ。渾身を振り絞り、土を舐めて這いずっても勝てないかもしれない敵が現れたのだ。
地獄? 上等だ。自分はそれを望んでいた。そんな敵をひたすらに望み続けてきた。
「ご、ごご、ゴキゲンだぜぇ……」
興奮しすぎて呂律が回らない。どうにか言葉を吐いて前を向けば、見ただけで背筋が凍りつくような敵がそこにはいた。
そして、いなほの理性は崩壊する。
「ゲハッ! ギャハハ! 最ッ高だぁぁぁぁ! もう待てねぇ! 我慢出来ねぇ! 仇だとかどうだっていい! テメェだ! テメェが俺の終わりだ! ひひゃはひゃ! たまんねぇぇぇぇ! 殺してやんよぉぉぉぉ糞野郎がぁぁぁぁぁぁ!」
いなほもまた一つの地獄。どちらも災厄の名にふさわしき地獄と地獄がぶつかり合う。
「カァァァァァァァ!」
「オォォォォォォォ!」
互いの拳がぶつかり合った直後、崩壊する闘技場。それは早森いなほの人生最高の祭りの始まりを告げる狼煙であった。
━━戦いは激化する。
次回、エリス駆ける。アイリス、バトルエンド。