第三十一話【ヤンキー、家族を見つける】
その夜。エリスは何かの物音らしきもので目を覚ました。寝ぼけ眼で起き上がり音の方を見れば、部屋の奥、月光の射す窓際でゆっくりと動くいなほがいた。
何かの構えをしながら、足を頭上高く伸ばしたり拳を突き出したり、体の位置を入れ替えたりといったことをしている。素人であるエリスにはわからなかったが、いなほには狭い室内の中で体をずらし、拳を突き出し、足を蹴りあげる。これらの動作一つ一つを十秒以上の時間をかけて行い、なお且つ木造の床が僅かな音しか立てないというのは驚嘆すべき技術である。
暫くエリスは異国の武術の真髄を観察していた。そうしていれば集中していたいなほだって直ぐに気付く。
「悪ぃな。起こした」
そう言いながら正拳突きを繰り出す。
エリスは首を横に振った。月光に映えるいなほの動きを見れるのならば、睡眠欲などどうでもいい。
「何か凄いですね。カッコいいです」
「当たり前だろうが」
再び右足が伸びあがる。ゆっくりと伸びた足はピタリと脛が額につくまで上げてから降ろされた。遊んでいるように見えていなほの表情は真剣そのものだ。普段の恐ろしい顔ではあるが、今は何故か神聖さすら感じられる。
「いなほさんは不思議ですよね」
だからふとそんな言葉がエリスの口から洩れた。
「不思議?」
「怖いのに、怖くないです」
「ヘッ、なぞなぞは苦手だ、よ」
「そういう意味じゃなくて……! その、ごめんなさい。私も言っててよくわからなかったです」
恥ずかしさに目を伏せるエリス。いなほはようやく型の確認を終えると、椅子にかけていたタオルを肩に乗せて、ついでに持ってきた水差しに直接口をつけて一気に飲んだ。
「俺も、お前が不思議だよ」
半分ほど飲みほしてから、いなほがそんなことを言った。
エリスはいなほの言ってることに首を傾げる。自分が不思議? 自分はただの普通の村人だ。
「私は、いなほさんみたいに強くないです……」
「当たり前だ。俺以外の奴はただの雑魚に決まってんだろ」
何言ってるんだと今度はいなほが眉を顰めた。呼吸同然に己を信じているその自信。エリスはそれが羨ましかった。こんな強さが自分にも欲しいって。
「でもよ。お前はスッゲーよ」
だからこそ、いなほのその言葉があまりにも意外すぎた。
「え?」
「二度も言わすな……これでもよ、俺はお前に惚れてんだぜ?」
と、さらなる爆弾にエリスの顔が真っ赤に染まった。今、この人は一体何て言ったんだ?
惚れている。自分に。惚れているだと!?
「ちょ、え、いなほさん、惚れ、って、えぇ……!?」
深夜ということで声は小さいが、エリスの内心の混乱は最早内紛レベルである。眼をぐるぐる回し、今にも倒れそうになっているエリスにいなほは頷いて答える。
「おう。お前はテメェが思う以上に最高の女だ」
「そそそそそそ、そんにゃ……!」
湯だった思考が嬉しさと恥ずかしさで一杯になる。素直に言えば嬉しかった。だがいなほは自分の何処に惚れているというのか。
──だって自分には誇れる所などないと言うのに。
そう思うと、浮かれていた気分がすぐに消沈してしまう。突然うつむいてしまうエリス。
「エリス?」
「私、そんなに魅力的じゃないですよ。アイリスさん所か普通の人よりもちっちゃいし、その、オドオドしてますし、それに……」
そうしていなほに目を合わせずエリスは自分の駄目な部分を次々に言い始めた。言ってて情けなくなってくるし、言いながら幻滅されたかなと思ってしまう。いなほの呆れただろう顔を見るのが怖くて顔を上げられなくなる。
さっきまでの気分は地平線の彼方まで飛んでいった。自分は何処までもいなほという男におんぶに抱っこで、何一つ誇るべき部分はなくて。
「だから私は……いなほさんが思うような人じゃないです」
言い切って、沈黙が生まれる。一秒か十秒か、秒数は関係なくエリスには長い沈黙に感じられた。みっともなくて今すぐに塞ぎこみたくなる。
と、いなほが溜息を吐きだした。エリスの体が震える。呆れられてしまった。ジワリと目頭に滲む涙。
そしてエリスの予想通り、いなほの呆れた言葉は──来なかった。
「でもお前は、強いじゃねぇか」
エリスの頭に、何度も感じた大きな掌がのっかかる。髪を掻き分けて優しく撫でる手つきは、ガサツないなほには珍しいことだ。
その優しい感触に身をゆだねながら、エリスが恐る恐る視線を上げれば、あんなにも醜態を晒した自分を真っ直ぐ見詰める強い瞳と交差した。
「そりゃお前が言った通りタッパもなけりゃ物怖じしねぇわけでもねぇし強くもねぇ。でもよ、お前はここが強いじゃねぇか」
そう言っていなほは自分の胸を叩いた。
「あんなことがあって、泣いて叫んで碌に寝れずに夜を過ごして、でもお前は笑える強さがあるじゃねぇか」
それは、誇るべき強みなんだといなほは思う。物語には良く出てくる逆境に負けない強さを持つ人。でもそんなことは万人に望めるものではなく、その万人の一人にしかすぎず、決して特別な境遇にあったわけではないエリスがその強さを得られたことは奇跡みたいなものに違いない。
「誇れよ。お前の強さは、俺の知らない強さだ」
だからいなほにとってエリスは特別な人だ。体を鍛えて心も強くなったいなほは、体を鍛えてもいないのに心が強いエリスが羨ましくもあり、未だ答えは出ないが、エリスがいなほには必要なのである。
「どんなに自分をクソだって言ってもいい。でもよ、誇れるテメェは持っておけ。『これ』っていうテメェが腹に真っ直ぐ刺さってりゃいいんだ」
「なら、いなほさんにとっての『これ』ってなんですか?」
エリスがそう問いかけると、いなほは得意げにいつもの笑みを浮かべた。そして腕を掲げて拳を握りこむ。
「俺は人の話なんて聞かねぇし、出てくる言葉は全部クソ以下で、短気で喧嘩っぱやい上に人殴るしか出来ない糞ったれだ」
それは、言葉は違うとしても、エリスが自分自身を蔑んだのと同じだった。だというのにそこに愚痴を言うような卑屈さはない。そんな糞ったれが自分であると理解していて、そんな自分をありのまま受け入れている。いや、完全には受け入れてはいないのだろう。迷いもするし、怯みもする。でもいなほはそれも含めて自分を誇っている。
何故そこまで自分を蔑みながら、自分をそこまで誇れるのか。その答えは単純明快。
「でもよ、俺の拳は最強だ」
誇れる自分が、ここにある。
「……いなほさんも、自分が嫌いなんですか?」
「なわけねーよ。確かに俺は糞ったれだが、俺にはこいつがある。俺が俺を嫌うってことは、俺の自慢も嫌うってことだろ?」
「そっかぁ……」
握りこまれた拳を見てから、エリスは自分の両手を見つめた。
田畑の仕事、ここに来てからの皿洗い、それらによって幼いながらにタコやら肌荒れやらが目立つ自分の掌。
でも握りこめば、そんな汚い部分は閉じ込められて、突き出た拳がエリス自身の強さを現す。
「私にも、『これ』」
「あぁ、んで『ここ』だ」
いなほは軽くエリスの胸を小突いた。いなほの拳に叩かれた胸がぼんやりと熱くなる。心の奥に種火が灯ったような気分。
見上げれば太陽のように笑ういなほがエリスを見ていた。気恥ずかしさと嬉しさがこみ上げるが、それでもエリスははにかむように笑って見せる。
変わらない。この人も自分と同じように、自分の良い所なんて殆どない人なんだ。
でも、だからこそ大きい。どんなに自分が駄目でも、誇るべきものが一つあって、そこを微塵も疑っていないからこんなにも強い。
ならいつか自分もこの人みたいに、ちっぽけな自分を誇れるようになったら、彼のように強くて大きく──
「明日、ちっとまた出掛けてくる」
不意に視線を切ったいなほが、窓の向こうを見ながらそんなことを言った。
遠くを見つめる眼差しは、付き合いのまだ浅いエリスでも、いや、『同類』であるからこそわかる。
「怖いです」
あえて何処にとは聞かず、エリスはそう曖昧な言葉を口走った。「そうかよ」いなほもあえて言及はしなかった。
「まっ、湿気たツラする必要はねぇだろ」
そう言って鼻を鳴らすと、いなほはエリスをベッドに寝かしてその額に手を置いた。
「おやすみなさいいなほさん」
「おう」
まどろみに再び飲み込まれる。また少しいなほとの距離を詰められたことで、内の不安はまだあるものの、エリスは穏やかな眠りに落ちるのであった。
そして、決戦の時は来る。
次回、決戦直前