第三話【ヤンキーと少女】
「おい。何ガキに手ぇだそうとしてんだよ」
え、と疑問を口に出す。涙で滲んだ少女の視界に、トロールとは違う、不思議な出で立ちの男が立っていた。トロールより低いが、充分に大きな体と、細いように見えて、綺麗な調度品のような筋肉は、太陽の光を反射して何故か神々しく感じた。
強い意志の籠った目は、違わずにトロールへと向けられている。そして少女を掴むはずだったトロールの醜くぶよぶよとした腕は、男の逞しい腕に掴まれ、それ以上少女へ近づくことができなかった。
「ギャギャギャ!?」
トロールの混乱は、突然の乱入によるものではない。たかが人間の腕の力で、自分の腕を全く動かすことができないことに混乱していた。怪物にとっての悲劇は、先程の戦いに参戦しておらず、男、いなほの能力を知らなかったことか。
だが万力のようだったいなほの手が突如緩められてトロールは拘束から脱することができた。掴まれた部分はうっ血しており、緑色の皮膚にいなほの手形がくっきりと残っている。
「ガァァァァァァァ!」
トロールが怒りのままに咆哮した。叩きつけるような声を聞き、少女はたまらず耳を塞いで縮こまる。そんな少女を庇うように、トロールとの間にいなほは立ち塞がった。
「あ、あの……!」
少女は、武器も持たず、魔法も使おうとしないいなほに危ないと声をかけようとしたが、恐怖から上手く声を出すことができない。
いなほは少女に振り向くことはせず、ただ拳を天高く突き上げることで応じた。鉄塊を思わせる拳を少女は目で追う。光に濡れるそれはやっぱし綺麗で、見ているだけで体を捕らえていた恐怖の鎖が解かれていく。
「ガァァァァァァァァ!」
だがそんな少女を現実に引き戻すのはトロールの雄たけびとこちらに迫る地鳴りのごとき足音だ。巨体を揺らし襲いかかるトロールに対し、いなほは掲げた拳を腰だめに、迎え撃つように腰を落とした。
「危ない!」
少女の悲鳴は当然だ。普通、トロールという魔獣を打倒するためには、装備を整えた兵士が数人、または熟練の冒険者でなければ打倒が難しいとされる生き物である。
だというのに、目の前の男は、肌の露出の多い衣服しか身に着けておらず、武器もなければ魔法を使う気配すらない。
言ってしまえば生身一貫、己の肉体のみで肉体という点で人間を凌駕するトロールと対峙しているのだ。
「おう、ありがとよ」
少女の叫びに、いなほの返事は場違いなまでに軽い。そこらに散歩にでも行く気軽さだ。だが少女の悲鳴が当然ならば、いなほの余裕もまた当然。ここに至るまでに、何匹ものトロールを葬ったいなほからすれば、今更一体どうしたところではない。
見慣れてしまった棍棒が頭上より来る。いなほは慣れた動作でそれを避けると、対象を失い前のめりになるトロールの顔面に、カウンターの拳を突き出した。
「そらぁ!」
巨体を持ち上げ、拳は振り切られた。まるで体重がないかのように吹き飛ぶトロールが木と接触し崩れ落ちる。少女は人類が力で勝る魔獣に単純な力で勝った事実に目を見開いた。
「凄い……」
他に出る言葉がない。「チッ、野郎ども完全に逃げやがったか」ぼやくいなほを、少女は驚愕一転、今度は神聖なものに祈る巫女のように羨望の眼差しを向けた。
「本当に、勇者様」
「あっ?」
声に釣られて、ようやくいなほは膝をついたままの少女を見た。
向けられる視線に込められた尊敬を感じてか、いなほはむず痒そうに頬を掻く。「あー……」何か言おうとするが、生憎と女さらにガキの対応なぞしたことのないいなほは、何を言っていいかわからず、とりあえず手を差し出した。
「立てよ。いつまでもケツ汚す必要はねぇだろ」
「あっ……」
慣れないことに恥じているいなほの赤い頬を知らず、少女は差し出された大きくて固そうな掌に視線を移した。
たくましくて、鋼のように堅牢だというのに、大樹のごとき安心感のある無骨な手。少女はいなほの手をマジマジと見てから、次いで自分の掌を見た。土で汚れ、畑仕事と毎日の家事でひび割れかさついた自分の手。目の前の強くて傷も知らない鋼の手と比べ、なんと汚く、弱弱しいのだろう。
そんな自分の手で、はたしてこの手を握っていいのか。逡巡する少女に、いなほはしびれを切らしたのか、その手を無理矢理掴んだ。
「ひゃ……!?」
強引に立たされると、少女はいなほの大きさを改めて認識した。トロールに比べ低くはあるが、それでも充分人間にしては巨大な体躯と、その体がまとう細くしなやかな筋肉は、パッと見は確かに鍛えて入るが、トロールを打ち倒せるほどには見えない。だが、間近で見た今ならわかる。皮膚の内側の筋肉は、一本一本の繊維すら感じられるほどの力強さを放っていた。一体どんな鍛錬をすればこの境地にいたるのかわからない。
「やっぱし、勇者様だ」
だから少女は確信した。家に唯一あるおとぎ話の絵本。そこに描かれていた悪を打倒する強き正義の勇者。それが彼なんだと少女は信じた。
「勇者ぁ?」
だが言われた当人であるいなほとしては意味不明である。偶然助けた女が、何を思ったのか自分を勇者と呼び潤んだ眼差しでこっちを見ている。
とりあえず、立ち上がった少女が日本語を話していることに感謝した。天然だろう肩まで伸ばした金髪と、緑色の大きな瞳に、形のよい高い鼻、そして透明感のある白い肌の少女は、いなほの胸よりやや低い背丈しかなく、見た目の幼さと相まって、そこそこに可愛い少女ではあるが、いなほ的には後数年先に期待といった感じである。おそらく十四、五歳程度といったところか。ともかく、そんな見た目であったため、まさか会話が通じるとは思わなかったのだ。
それにしても田舎っぽい服装である。使い古されてよれよれのシャツと、足もとまで隠すぼろぼろのスカートとは、まだいなほの服のほうが丈夫であろう。靴もぼろぼろで、ただ底がある程度といった感じか。
まさか初めて会った人間が(いなほとしてはトロールは豚の進化系でしかない)ホームレスとは、内心少女に対して失礼なことを考えながら、まずはとばかりに、少女の手を握ったまま、力加減に気を付けてもう少し力を込めて握った。
「いなほだ。早森いなほ、俺の名前な。テメェは?」
「えっ!? あっ……わ、私はエリス、です……あの、助けてくれて、ありがとうございました!」
少女、エリスは言い終わると同時に頭を勢いよく下げた。手を離したいなほは「まぁそりゃついでだから気ぃすんな」などと感謝にむず痒そうにして眉をひそめ、照れ隠しを呟く。
流石勇者様、謙遜するなんてなんと奥ゆかしい。などと、エリスは勘違いをする。だが実際彼女の目の前にいるのは、勇者などという強く優しく凛々しい人ではなく、気合いと根性と喧嘩が大好きでしかない場末のヤンキーでしかないのは何たる皮肉か。
「とりあえずよ、ここが何処かさっぱりなんだ。エリス、どっか近くの町まで道案内頼むわ」
「道案内……そうだ! 皆!?」
突如、エリスはこれまで見せていた安堵の表情を青ざめさせた。そして弾かれるように走り出そうとして、足首から走る痛みにバランスを崩しその場に倒れた。
「オイ!」
慌ててその体を抱きとめる。そこでいなほはようやくエリスが足首を痛めていることに気付いた。
「っ……村に、皆が……!」
「なんだかわからねぇが、村にいきてぇのか?」
エリスはいなほの問いに頷く。「あの……」お願いだから村の皆を助けて、そう続けようとしたエリスの頭に、いなほはその大きな掌を乗せた。
「理由は知らねぇ。だが、状況は理解してるつもりだ。あの豚、お前の村に来たのか?」
「は、はい」
「任せろ」
掻き毟るように、エリスの頭をなでると、荷物を持つかのようにいなほはエリスの体を肩に担いだ。
「わわ!」
いきなり高くなった視界にエリスがたじろぐ。その反応が可笑しくて、いなほは口を弧にして笑った。
「んじゃ、道案内は任せたぜエリス」
「は、はい!」
コクコクとエリスが応じて指を指した方角に向けていなほが駆け出す。
その一歩こそ新たな門出。不倒不屈の不良の冒険が、今始まる。
次回、ハイパーグロタイム