第二十三話【ヤンキーふるどらいぶ】
「ハァ!」
新たなウルフを両断し、これで十匹を殺してみせたキースはようやく一息ついた。
肩は上下し、呼吸は荒い。本来ならまだ疲弊するような数ではないのだが、勢いのままにペースを考えず戦ったため、キースは思いの外疲労していた。ローブの下で汗が蒸れてもどかしい。額にも幾つもの汗が滴となって今にも顎を伝い落ちそうだ。
キースは不快感ごと汗を拭い去り、再びの全身を決意し前を向き、
溢れた汗すら一瞬で引くくらいの強烈な敵意を背中に感じて、呼吸を停止させた。
「グルルルルルル……」
獣の鳴らす喉の音。剥き出しの敵意が呼気とともに聞こえそうなくらい、その存在の放つ威圧感は強大だった。
それでもキースはおそるおそる後ろを振り向いた。今にも崩れそうな足を回し、気付けば落としそうな杖を持ち直し、そしてキースは振り向いて、自分の死を理解した。
「あ……んだ……これ」
キースの後ろに居たのは巨大な狼だった。
白銀の毛並みはまるでそこだけは別世界のように妖しい光を放っている。体躯は四足歩行でありながらキースよりもさらに頭一つ分巨大だ。全長はトロールすら優に凌ぐだろう。
眼光は鋭いというレベルではない物理的な圧力を持ってキースの体を刺しぬき呼吸を許さない。汗などとっくの昔に引いていた。おそらくこの魔獣を見てからまだ一秒も経っていないだろうというのに、一時間は睨みあったかのように遅くなった時間。
「グルぁ……」
キース等一飲みできそうな口を広げ、その牙を剥きだす。零れる熱気がキースの肌を焼いた。錯覚だ。だがそう思うほど熱い吐息。
確実で明確な死神だった。それは異次元の敵性存在。バウトウルフを生み出す深淵の魔。
クイーンバウト。それがキースの目の前にいる化け物の名前だった。
「あ、ひ、へぇあ……」
F-。それがこのクイーンの保有ランクだ。この異端と会うまでのキースなら、たかが一つ二つランクが上なだけで、学年トップ数人で戦えば楽勝だろうとタカをくくっただろうが、そんな考えが浅はかだったと思い知らされる。
甘く見ていたという問題ではない。ここに来てキースはようやくランクが持つ『危険指数』の意味を理解した。授業ではワンランク上の敵ならば下位ランクがチームで赴けば倒すことができるといっていたが、あんなのは嘘だ。
「あり、あああ、ありえ、ありえな、ない……」
動くことが出来ないまま、舌をかむのも構わず顎が震え歯と歯が恐怖の音色を鳴らした。
H+とF-、たがが一つとちょっと程度のランク差が地平線よりも遥か遠く感じる。人族を脅かす魔獣は、そんなキースにゆっくりと歩み寄り、ただ死を待つしかない少年に口を広げ──
「うるぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
刹那、大気が破裂した。
キースを縛っていた金縛りが唐突に響いた雄たけびに解ける。クイーンもその声に驚いたのか、自身の後ろで発生した声の方に体を向けた。
木々の隙間の向こう側、獣の如き叫びを上げた男が爛々と瞳を輝かせてクイーンを見据えている。
その瞳を見て再びキースの体が恐怖に凍った。何だアレは。『嬉しそうに殺気をまき散らす』人間等見たことがない。アレもまた異次元の化け物、人の皮を被った殺戮兵器。
「ケ、クケ、カカっ! テメェ! クハッ! テメェ! ギャハッ! 来たぁ! テメェ!テメェだぁ!」
蛇蝎のごとく気味の悪い笑い声を張り上げて、早森いなほがそこにいる。
そいつの気配を感じた瞬間の気持ちをどう表すべきか。まるで一目惚れに似た感覚だった。トロールなんかよりも圧倒的に格上の化け物。あれこそそうだ。気配で極上、ならば見た時の絶頂は筆舌出来ない。
いなほは興奮のあまり熱くなった体を冷ますために、脱ぐのももどかしかったのか、躊躇いなくタンクトップを破り捨てた。短パン一丁裸足裸拳。見事に割れた腹筋の中心に空気を取り込み、背筋を盛り上げる。
もう口からは唾液が溢れて止まらなかった。今すぐにでも殺したい。ただその感情だけがいなほの体を埋め尽くす。
「グガァァァァァァァ!」
クイーンもまたいなほの殺気に呼応して、全身から闘気を解放する。後ろに居たキースが絶望のあまり股間を濡らして膝をついた。
化け物の闘技場にたった一人放り込まれた裸の少年の心境だった。最早嵐に似た闘争が過ぎ去る以外、キースが生き残る道はない。
「ハッ!」
「グルォォォォォ!」
だがそんな路傍の石に二体の化け物が気をかけることはない。互いが互いのみを恋焦がれ憎しみ合う、愛憎のみの混沌をぶつけながら、磁石のように唐突に、木々をへし折り激突した。
「うるぁらぁ!」
両者共に、射程距離内の絶殺確信。いなほがまずクイーン目がけて右の拳を放った。手加減も何もない、トロールの腹に穴をこじ開けた必殺拳は、しかし巨体に見合わぬクイーンの速度を捉えきれずに空を切った。
暴風を巻き起こし、拳の先に合った木が風圧だけで斜めに傾いた。当たれば殺戮を約束する拳は標的の影すら追えない。
同時、拳を避けながら懐に入り込んだクイーンが口を開いて、全力を放ち隙だらけのいなほの腹に噛みつかんと駆けた。
「こ、の……ッ!?」
いなほが懐に入り込んできたクイーンに悪態をつき、牙から逃れるように身を捻じった。だがそれでもクイーンの速度からは逃れられず、クイーンの鼻先がいなほの腹に触れたと同時、いなほの体がくの字になる。
瞬間、大地が爆発して周りの木々が根こそぎ吹き飛んだ。風圧が爆弾のように破裂したかのようだった。暴風にあおられたキースが確認出来たのはそこからだ。爆発の以前、彼には衝突の瞬間すら見えない。ただ突然風が凪いだと思ったら二体の姿がなくなり、十メートル先の大地が爆発したとしか分からなかった。
だがキースの理解など置いていき、戦いは加速していく。体重と速度で弾き飛ばされたいなほは、巨大な大木を一本二本三本四本、五本を砕いてようやく両足で大地を踏み締めブレーキ。
威圧感満載の眼光を真っ直ぐ前に、クイーンを見据えて鼻を鳴らす。
「ハッ! トラックよか軽いぞテメェ!」
まるでビクともしていない。鉄をも凌ぐ筋肉が鼻っ面が掠った程度で敗北するはずはないという強烈な自負。とはいえ自分を容易く吹き飛ばしたクイーンに怒りを感じぬわけではない。周りの木々が木の葉を散らす程の殺気をまき散らし、一足でクイーンの目の前に躍り出た。
「マシンガンって知ってるか獣ぉ!」
いなほの巨体すら飲み込めるのではと思うほど巨大な口を開けて待ち構えるクイーンの目の前、笑いながら両拳を腰に構え、飛びかからんとするクイーンに先んじて、拳と言う弾丸を連続で放った。
「うおりゃぁ!」
右と左。拳で象る筋肉の弾幕結界。常人にはまさしく壁にしか思えぬジャブの嵐を前に、クイーンはその異常な動体視力を持って挑む。
一二三四五も避け六を掻い潜り七の拳を額で受けながら八の拳で顎を弾かれそれでもクイーンは前へと赴く。
「ッ!?」
「グルァァァァァァッッ!」
再び先と同じ構図。肉の壁が、獣の速度に敗北する。
大きく開かれる口がいなほのわき腹もろとも閉じ込める。鮮血がクイーンの牙を濡らした。鋼鉄を容易に引き裂くクイーンの牙は、噛まれた瞬間その部位を諦めろと言われるくらい鋭く、そして強固なものだ。
そんな代物が今、クイーンの突進の力を持っていなほを挟んだのだ。絶命は確実、致命は必死。だがいなほの腹に噛みついたクイーンは、追い打ちとばかりにその勢いを落とさず、眼前の木々にいなほを叩きつけてへし折りながら前進する。その間にもいなほの下腹部では出血が始まっていた。だがクイーンの表情は優れない。
「じゃれ合いてぇかワンコロぉ!」
あり得ぬ声が上がる。千切られる未来しか残されていないはずの男の快活な叫び声。
トロールの腹すら食いちぎる異常な顎に挟まれながら、いなほは未だ千切れていないどころか浮かんだ笑みを絶やしてはいなかった。背中で木をへし折り地獄めぐりドライブをしながら、いなほの余裕は全く持って崩れない。否、この男ならば余裕がなくても笑って見せただろう。
異常は腹で起きていた。脇腹を挟むように食われたいなほの腹周りの筋肉は、鉄の鎧も食いちぎるクイーンの牙を通さなかったのだ。流血は皮膚が切られたことによるものでしかない。どんなにクイーンが力を込めても、いなほの筋肉はそれ以上の力を持って牙の侵入を許さなかった。
叩きつけるのは無駄と思ったクイーンは立ち止まり、四肢を地面に踏ん張らせてさらなる力でいなほの筋肉を食い破らんと滾る。
全身の力を持って行われた噛みつきが遂にいなほの筋肉へと食いこんだ。痛みに顔をしかめるいなほ、流血が勢いを増す。
自慢しな犬っころ。いなほが吠えた。
「俺の筋肉裂いたのぁ! テメェが最初だぁ!」
弾丸も寄せ付けなかった己の自慢を破られ、いなほの顔が怒りのあまり鬼のように豹変する。同時、自由な左手でクイーンの下顎を叩き上げた。そのせいでさらに牙が食い込むが、体勢は悪くても人族の限界を極めただろう一撃にクイーンの拘束が緩む。
その隙を逃さずいなほは女王のアギトを抜け出した。女王の顔を両手で叩き、反動で虚空に飛び出すと、ただ逃れるだけではなく、中空で右足を百度近い角度をつけて振り上げる。
天に伸びゆく鬼の一撃。絶頂を極めた男の全霊が眼下の敵を捕捉した。
「ツァッ!」
「グガァァァァァァッッ!」
天より強襲する断頭台を見てもクイーンの覇気はまるで衰えない。むしろかかってこいとばかりに吠えたてると、再びその口を広げた。
いなほの右足が神速の勢いでクイーン前へと振るわれる。目指す先は女王の唇。大口広げて待ち構えるクイーンに盛大なご馳走だ。最高の飯をくれてやるとばかりの得意顔。
「俺の蹴りぃ! 食って腹壊せやぁ!」
体を回転させてさらに加速させた右足の踵の軌跡を王の眼は逃さない。褐色の必殺を、白銀の必殺が絶妙のタイミングで噛み受けた。
牙に挟まれた踵が牙との摩擦で火花を散らす。狼による真剣踵取りによって防がれたいなほの踵。
再び腹を噛まれていたときと同じ状況。踵を擂り潰さん破壊の顎がいなほの踵の骨をミシミシと圧迫する。
だが必殺を防がれたというのに、いなほの闘気に衰えはなし。むしろそれを待っていたとばかりに喜悦を吠えた。
「ぶぁかがぁ! 男一貫二足歩行ぉ!」
伸びあがる左の踵。知恵のなき獣にもそれが意味するところは即座にわかる。
つまりはそう、端から二段構えの踵落としの双連撃。
「足はもう一本あるだろうがぁ!」
しかし気付いた時にはいなほの踵は空気の断末魔と共に大地へと落ちていた。そして着弾点には狼の女王の鼻っ面。
鼻の先に炸裂する筋肉爆弾。肉が潰れ、優雅な曲線を描いていた女王の鼻が大きく凹み、先から血が噴き出していなほの上半身に浴びせられた。
「ヒャハッ!」
放さぬと誓ったはずの顎が、筋肉の暴挙に屈して力が抜け再びいなほを放す。素足の踵には牙による出血が零れる。足首に生まれてこの方感じたことのない痛みが発生。
だがいなほはあえて右足を四股を踏むように上げると、大地を震わす勢いで叩きつけた。
「へっ、俺ぁまだビンビンだぞ!?」
ただのやせ我慢に過ぎない。しかし気合いこそ喧嘩の勝敗を決めるのならば、ここで痛みに呻くなどという醜態は晒さぬ。浮かぶ脂汗も沸騰したような心臓の高鳴りも燃えるようなわき腹と踵の痛みも、全て総身を支配する歓喜の前には意味をなさぬ。
クイーンはいなほの絶技を受けたというのに、四肢をぐらつかせながらもまだ立っていた。眼には萎えぬ殺気が一つ。
まだやらせてくれんのか。いなほは嬉しさに失禁してしまいそうになった。まだ、もっとこれを続けることが出来る奇跡。
「そうだ! もっともっと! まだようやく俺達はスタートだろ!? 俺と! お前と! 絶頂でぇ!」
左の拳を天高く突き上げる。勝利を謳う鋼の信念を掲げて、いなほの口上はまだ終わらない。
「こっから急降下だ! 一緒にぶちまけて! ハイのまんま飛び降りようぜぇ!」
死へと向かう闘争というダイビング。より早く、より強く、勢いを落とした方が敗北必死のデスレース。その始まりこそこの刹那。
「グルァァァァァァァ!!」
「オォォォォォォォォ!!」
化け物の地獄は終わらない。
醜悪にゆがんだ狼が大気を震わして毛を逆立て突撃体勢。
凶悪にゆがむ野獣が左拳を腰の横に構え右手を前に不動の構え。
スタートでありながらクライマックス。全力で落ちるからこそ、その一撃こそ最初で最後に違いない。互いの距離はいなほが離れて五メートル。どちらも一歩で埋めることの可能な間隔しか二人の間にはない。
直後、吠えながらクイーンが突撃した。そこには呼吸を計る、機を狙うといった人間の駆け引き等存在しない。
ひたすら赴くままに。
四肢の駆けるままに。
牙が欲するがままに。
ただ駆け、飛び、噛みつき、食らう。それだけが獣の原初。本能のありし姿だから。
故にその突撃は完璧なタイミングだった。完全にいなほの裏を取った最速行動。不動であるがためにコンマのずれも許されないいなほからすれば確実に出遅れた形となる。
これこそ獣の強みだ。人の考える理合なぞ容易く飛び越えて本能のみで英知を蹂躙する。いなほが幼少のころから育み鍛えてきた武術を超える生物としての格の違い。人類の理性では届かない本能の領域。
だからこそ、理性ではなくいなほの内に眠る獣─本能─だけは反応してみせた。
クイーンが踏み抜いた大地がめくれ上がり、舞う埃と土の結晶すら知覚するほどの極限集中。一秒を百秒に、百秒を千秒に、そして零秒こそを無限の刹那へ変貌させて、止まった時間をいなほが動いた。
腰だめの左手がやけに熱い。熱湯に使っているかのような錯覚。思考だけが光速を突き抜けたようで、自分の動きも遅く感じる。
だが止まったはずの世界でいなほは動いていた。ゆっくりではあるが、熱血で濡れた体は、加速する思考にすらついていこうとしている。
いや、思考を無視して体は動いていた。鍛えた体は出遅れた主の思考を嘲笑い、理合に沿いながらも理合を超えた、最適最高最強最速の動きを果たそうとしている。そう、事実は逆だった。筋肉が思考に追いつこうとしたのではなく、いなほの筋肉に思考が追いすがろうと加速しただけなのだ。
激鉄は右の爪先だ。踏み込みを行うことで拳という弾丸を突き出す火薬となる。
そして叩きつけられた激鉄は足元から全身を走り抜け、引き絞った弓矢のように限界まで溜めた拳に到達する。脳髄がスパーク、脳内麻薬が頭を丸ごと埋め尽くす。絶頂であり底辺。瞬間のカタルシスを今こそ爆発させる。
「──!」
声は出なかった。零コンマの攻防に音はなく、今静かに女王の潰れた鼻に、空前絶後の筋肉の暴虐が、いなほ渾身のとっておきは直撃した。
「おおぉぉぉぉぉあぁぁぁ!」
拳に感じるクイーンの圧力に体中に血管が浮かび上がる。油断すれば吹き飛ばされそうな突撃の衝撃を左手一本で捉え、受け止め、気合いと根性で打ち抜く。解放の瞬間、全身を雷の如く突き抜ける快感に、いなほは静かに笑った。
まるでピンポン玉のようにいなほの拳に吹っ飛ばされたクイーンが、その巨体を十メートル以上木をなぎ倒しながら吹き飛ぶ。
筋肉の蹂躙、つまりは物理法則の悲鳴。それらを一身に受け止めたクイーンは、それきり起き上がることはなくなった。
「ハッ……! ハッ……!」
肩で息をしながら、等速に戻った世界で、いなほは確かな充実感を感じていた。
振り絞った。余力は『まだまだある』が、ここまで振り絞ったのはいなほの戦いの歴史で初めてのことだろう。
本当に戦った。戦いきった。まるで憑き物が落ちたかのような晴れ晴れとした表情でいなほは空を見上げ、
「俺、最っ強」
その拳は、天高く突き上げられたのだった。
次回、つかの間の平穏へ