レッスン8【絶望】
迷いの森の名の由来は、四か国を跨ぐ程に広大な森林地帯であることからきているとされている。あまりにも広大すぎるために、未だにその全容が解明されていないためだ。
だが、四か国のいずれも調査を怠ったわけではない。現にこれまでに数十度以上の調査団が組まれて、一番最近のものでは、初めての四か国による共同での調査団も作られて調査が行われた。
しかし、これまでの調査団がそうであったように、今回の調査団も誰一人として迷いの森の最深部から帰ってくることはなかった。
迷いの森。それは奥に行った者達を誰一人として帰さない奈落としての忌み名。その深淵には一体何が潜んでいるのか。何によって帰ってくることが叶わなくなるのか。
真実を知るものは数少ない。
そして、真実を知った者は誰一人として迷いの森の奥へと進もうとはしないだろう。
失われたかつての名は、狼の避暑地。
無数のキングバウトの群れがひっそりと暮らすその最深部は、他の異物を許すことのない神聖なる聖域。王の名を冠する、あるいはこれから王となるべく産まれた狼達によって守られたその場は、時折とある異物を産むことがある。
ここではない何処かへ。
閉ざされた世界ではなく未開の大地へ。
思考したわけではない。だが清涼な土地だけでは足りなくなった王が時折現れては、伴侶となった女王と共に最深部より出てくることがある。
そして、ここにもまた一匹。
青い空の向こう。
木々で閉ざされた世界の外。
求めたのはたったそれだけのちっぽけなもの。
そのために、邪魔となる者は食らい、腹を空かせれば食らった。
たったそれだけのことだった。
「……」
なのに、今、彼の前には顔面を損壊した伴侶が横たわっている。
もう息をしていない。動くことは無い。いずれ腐敗し、大地に溶けることを待つだけの肉塊。
外を見たい。
空の先を見たい。
思考ではないのかもしれない。
願いですらないのは確かだった。
だが獣にも感情はある。その衝動に突き動かされて群れを離れた。
その結果が、これなのか。
子ども達も大勢が死んだ。
悲しいことだけれど、それも自然の掟だと納得もしている。
「……」
そしてこれもまた自然の摂理。弱肉強食の掟に従い、彼の伴侶も強者に打倒されたのだということだけ。
それだけの話だ。
そうだと言い聞かせるように、喉を鳴らして――全身を掻き毟りたくなるような不愉快な感覚に歯噛みする。
「■■■■……」
息子達は死んでいった。
伴侶も居なくなり、残されたのはこの身が一つ。
「■■■■……ッ!」
摂理を知っている。
摂理こそが真実である。
だからこそ、この身もまた、摂理に殉じていくのも正しいことなのだと、獣は胸の内で燻る熱を吐き出すように咆哮した。
「■■■■ッッッ!!!」
報復ではなく。
復讐でもなく。
だが怒りに煮えたぎる己が血潮の昂るままに王は、今や一匹となった孤高の狼は、遠くから臭う敵手の残滓目掛けて疾走を開始する。
最早、この疾走から逃れられる者は存在しない。
空の先へ。
森の向こうへ。
あぁ、そのために――貴様が邪魔だ。
「■■■■ッッッッ!!!!」
狼の王、キングバウト。
ランクにしてEに匹敵する怪物。だが、通常発生する個体とは違って、狼の避暑地で王達によって育てられたこの狼は、野生のソレとは最早別種の存在。
あえて名づけるならば、キングバウト純血種。
獣王アルクの血統に連なるこの王を数値に換算すると――Cランク。
かつて早森いなほを追い詰めたトロールキングと五分を張る怪物は、未だ疲弊の色が濃い少女と、負傷した冒険者へ向けて、その牙を剥いた。
―
瞬間、死が背筋を駆け抜けた。
「ッ!? ガントさん!」
私は叫ぶや否やその背中から飛び降りて、強化魔法と同時に腰の鞘から右手で片手剣を抜き、左手は腰のポーションに添えた。
ガントさんも言われずとも本能に訴えかける寒気に反応して私の倍はある刀身の剣を引き抜く。
言葉を交わす余裕も無かった。未だに背筋が泡立ち、冷や汗が一瞬にして全身から溢れて気持ち悪い。
だけど拭う余裕はおろか、瞬きをする暇も存在しなかった。
あの殺気は他に比肩するものがない。いや、アトちゃんのような例外も存在するけれど、明確な敵意を孕んだこの殺気に匹敵するのは――。
「トロールキングと同じ……」
あるいは、込められた敵意を考慮すればそれ以上の怪物か。未だ姿が見えないというのに、この森の周囲一帯を貫くような殺気に知らず両手が震える。
武者震いと己を鼓舞するのは簡単だったし、きっといなほにぃさんなら破顔一笑して迎撃しようとしただろう。
だけど今の私の心には、ガントさんの言葉が小さな棘のように突き刺さっていた。
そのせいか、これまでなら容易かったことを容易く出来ない。まるでかつての無力だった自分に戻ったかのように恐怖という重圧に押し潰されそうになっている。
だけど歯を食いしばる。
負けるもんかと意地を張る。
「……私は、いなほにぃさんに追いつくんだから」
誓いは同時に、確定した事実である。
だから迷いなんて振り払え。あの日の熱はまだ胸で燻っている。その熱が突き動かす激情のあるがままに、私もまた堂々と――。
「■■■■ッッッッ!!!!」
瞬間、咆哮が耳を貫いた。
「これは……キングバウトだとでもいうのか!?」
隣で呻くように驚愕するガントさんに答えることも出来ない。
『……おいおい、アルクの血縁者だと? 二法め、戯れとはいえ我が主を死地に追い詰めるなど……!』
腰のぬれぞーが苛立ったように声を震わせるけれど答えることが出来ない。
何故なら、今この瞬間にも敵が襲い掛かってくる可能性が――。
瞬間、視界が反転した。
「え?」
何事かと思う前に、背中に激痛が走る。あまりの痛みに声すら漏れない。激痛だ。痛いのか。
というか、何があった?
何でガントさんが遠くに?
『主! 聞こえるのか主!?』
「ぬれ、ぞー?」
何で、そんなに慌てているの?
えっと、私、何でこんな遠くに飛ばされて……飛ばされた?
「あ……」
そこで私はようやく、視線の先に立つ銀色に気付いた。
本物の銀よりも鮮やかに風に揺れる体毛に覆われた巨大な狼。クイーンバウトと比して一回り以上巨大なそれが何なのか、考えなくても答えに行き着く。
あれが、キングバウト。
バウトウルフの最上位種。Eランクに匹敵する狼の王。
「……ッ」
そっか、私、いつの間にかあいつに吹き飛ばされたんだな。
油断したつもりはなかったけれど、不覚を取ったことは大いに反省。ミフネ師匠にも言われてたことだけど、油断する癖を直さないと――。
『待て! 動くな! 今は早く止血を優先しろ!』
「ぬ、れぞー? だから、どうしたの?」
『早くしろ! えぇい、意識が混乱しているのか!? 早く気付け、君は今――』
慌てた様子のぬれぞーの言葉を聞きながら、見惚れるようなキングバウトの一部に違和感を覚えた私は、霞む視界を凝らしてよく見た。
ゆっくりと鮮明になる視界、同時に全身の痛みもより強さを増すけれど、その痛みを無視して見つめた先の違和感を――。
え?
「あ、れ?」
赤く濡れたキングバウトの牙に食われているのって。
あの、小枝みたいな肉って。
『左腕を失ったんだぞ!?』
視線を下ろせば、当然のようにあったはずの私の左腕は、肘の部分から失われて――。
「あ……」
激痛。
「ぎゃああああああああああああ!!!」
そして私は、戦闘すらすることも出来ずに――キングバウトに敗北したのだった。
次回、敗戦。
例のアレ
アルク
A+ランク三十一席『孤高獣王』にしてアート・アートのペット。実は迷いの森はいつでもペットに会えるようにアルクの世界から直接空間を弄ってアースゼロに繋げた森の一部がベースとなっており、森の最深部に行くと強制的にアルクの住む魔獣のみが跋扈する世界に飛ばされる。なので生還者が居ないのは単純に世界の壁を超えたせいであるため。まぁ結局は転移したら「ご主人様から餌が来たお!」とはしゃいだアルクが速攻で食いにくるので、まぁ生存は普通に絶望的。それがなくてもキングバウトの巣なので普通に死ぬ。