レッスン6【空想を成し、我意を通す。ということです】
「『風林火山』」
クイーンバウトが飛びかかる直前、エリスは身体強化魔法の詠唱をしながら備えていたポーションを取りだすと、片手剣の刀身にぶちまけた。
瞬間、火の属性を付加されたポーションの効果を受けた刀身が赤熱の輝きを灯し、切っ先から炎の舌先を覗かせる。
ここまで僅か会合から数秒足らず。躊躇が死に直結する遭遇戦にて、エリスの出だしは完璧と言ってよかった。
「■■■■ッッ!」
「悪いけど……!」
鼓膜を震わせる野生の高鳴りへと真っ向から突撃しながら、エリスは己の全長よりも遥か巨大なクイーンバウトへ片手剣を大上段から叩き込んだ。
しかし、手応えはあまりにも硬質。脳天にぶつけた刃は、その皮膚はおろか毛の鎧すら斬り裂くにも至っていなかった。
炎の付加をされた刀身は、強化の術式と合わさることによって丸太を一息で両断する威力を秘めている。だが相手はランク持ち、しかもF-ランクという、ランク無しでしかないエリスでは敵うはずがない相手。
故に、エリスが如何に鍛錬を行い、上位強化魔法を扱い、ポーションによる炎の付加を与えたとして、この結果は当然の帰結であった。
赤子と大人の差以上に覆らない戦力差。クイーンバウトは比喩でもなく蚊が刺してきた程度の痛みを与えたエリスを食い散らそうと、そのあまりにも巨大な口を大きく開く。
跳躍からの一撃を与えたエリスは未だ虚空。逃げ場などない空間にて、残された結末は瞬きの後に臓物をぶちまける最悪の結末。
「それをねぇ!」
だがあろうことかエリスは笑った。目前に現れた絶望を哄笑し、むしろこの絶望こそが望んだ末路。
否。
エリスはクイーンバウトが口を開くと同時に空いた左手にいつの間にか握っていたポーションを、クイーンバウトが己を食らうよりも早くその口に叩きつけた。
「■■■■ッッッッ!!!???」
「どうだぁ! アトちゃん直伝硫酸ポーションのお味はさぁ!?」
口内で弾けた高濃度の硫酸がクイーンバウトの口内を溶かしつくす。あまりの激痛に悶える狼の姿を見て、エリスは会心の笑みを浮かべると、口から煙と肉の溶ける不快な音色を漏らしながら悶えるクイーンバウトの懐へと飛び込んだ。
「そぉらぁ!」
勢いのまま振り下ろした刃は鋼鉄が腹部を痛打する。当然のようにクイーンバウトの堅牢な毛と肉を斬るには足りないが、虫が纏わりつくような不快感に狼の女王は咆哮をあげた。
踊り狂う女王の四肢は、当たった箇所が抉られる威力。しかしその四肢の只中を転がりながら抜け出したエリスは、こちらに向きなおって牙を剥いたクイーンバウトの形相を真っ向から笑い飛ばした。
「■■■■ッッッッ!」
「キレましたか!? でも嫌いじゃないよ、そういう面はね!」
懐から取り出したポーションを指に挟んで胸元に掲げる。それだけで口内の痛みが未だ燻るクイーンバウトが逡巡した。
だがそれは所詮見せ札。エリスはおちょくるようにポーションの蓋を開けると、見せびらかすように中身を飲み干した。
「おバカさん。こっちは普通の魔力回復用のポーションですよ」
「■■■■ッッッ!」
――我を侮るか!
己が謀られたことを悟った女王が昂る怒りをそのまま魔力の乱気流として全身から迸らせる。
最早、矮小な獲物の中でも一際脆弱な少女に対する加減は一切ない。身の程を知らず、愚かにも遥か格上の強者に抗う弱者へと、女王は全霊の一撃を叩き込むべく四肢へ魔力を充実させ――。
「『進まず、歩ませず』『束縛の抱擁』」
見計らったように、いつの間にかクイーンバウトの周囲に張り巡らされた魔法陣エリスの言語魔法によって励起した。
飛びかかる直前を見切られたためか、避けようにも真っ直ぐに飛ぶしかクイーンバウトには道がない。だが、それすらもエリスは予測していたのか、自身とクイーンバウトの間には周り以上に密度の濃い魔法陣が展開されていた。
そして最早、クイーンバウトの判断はあまりにも遅すぎた。解放された魔法陣は、無数の糸と化してクイーンバウトの四肢に纏わりついた。
「■■■■ッッッ!?」
暴れ狂うクイーンバウトは、咄嗟に逃げようとするが全身を、特に四肢を巻き込んだ糸の拘束は解けない。
それも当然だ。あの一瞬、懐に飛び込むことで死角を作り出したエリスは持てる魔力の殆どを使用してクイーンバウトの周囲にこの魔法陣を描き出した。さらに駄目押しとポーションで魔力を回復し、言語魔法を上乗せして魔法陣から放たれる糸の強度をより高めている。
だがそれでも、F-ランクの怪物を拘束するには脆弱すぎた。
既に引きちぎられ始めている糸。保有する能力差を考慮すれば数秒の足止めにすらなりはしない。
何よりも、クイーンバウトには未だとっておきの一撃があるのだ。
「――!」
全身を覆っていた魔力が口内に収束していく。眩い光放つまでに充実するのは狼が誇る必殺の牙。あらゆる有象無象を塵芥と化した必滅の咆哮。
捕食のためではなく、外敵を葬るために得た一撃こそ、魔獣でありながら魔法を操る魔の乾坤。
野を駆け抜ける狼の疾駆に似た槍の一撃を、人々は畏怖を込めて『王の旋風』と名付け、最も気を付けなければならない技として警戒している。
そう。
「『語らせず、動かせず』『口唇の縫い針』」
警戒を、しているのだ。
「――!?」
クイーンバウトは激情のままに放とうとした一撃が直前で口内に押しとどめられたことに気付いた。
それどころか、咆哮をあげることすら出来ない。
見れば、いつの間にか口許に展開されていた魔法陣が王の旋風と咆哮を禁じていた。
何故という疑問を挟む余地は無かった。既に状況はエリスの思惑通り。エリスを凌駕する神速と必殺、そして仲間を呼ぶ雄叫び。この両方を封じられた今、捕らわれた女王が行えるのは、一刻も早い拘束の解除のみ。
問題は無い。確かにあのポーションは脅威だが粘膜で受けずに体毛で覆われた表皮であれば受け止めることは出来る。何よりもあの忌々しい弱者の攻撃では己を傷つけることはおろか、痛みを与えることすらできないのだ。
だから女王はエリスの存在を一時的に思考から追いやり拘束の解除に集中する。一刻も早くこの束縛を食いちぎり、おごり高ぶった弱者を食い散らすがために。
「バーカ」
そして、それもまたエリスの思惑通りだった。
「『其は水面を現す肉』『描く空想を質量へ』『我が創造は本物に比する贋作なり』」
この瞬間、こちらを侮った敵手を前に真の切り札を詠唱する。
最初の一撃で己の脆弱さを見せつけることで、他愛無い相手であると、獣の優先順位の遥か下に己を貶める。これにより、今まさに行われている必殺の展開にクイーンバウトは気付くのが遅れてしまった。
遭遇から全てがエリスの狙い通りの展開であった。
己の脆弱さすら戦略に織り込み、クイーンバウトに出会うや否や、相手の力を想定したうえで最適な行動を一瞬で行いきる決断力。
一手間違えるだけで死に繋がる綱渡りを笑いながら行える胆力。
何よりも、絶対強者を前に勝利を確信する精神力という、弱者に秘められた無敵の力を混ぜ合わせ。
「『小さき腕は不屈を映す』」
いや、確信という生温い意志ではない。
エリスには敗北する己など微塵も思考によぎることは無かった。
何せこの身が辿るのはこの程度の脅威は脅威とすら呼ばない頂。最強無敵の道の果て、追いつくと決めたその日から、エリスに敗北はあり得ない。
だから掲げる。
あの日見た時と同じ大きな拳を証明するように。
あの日見上げた最強を誇るように。
小さな少女の左手に重なるようにして現れるのは、いつか隣に立つと決めた拳。
布石の果てに練り上げた、必滅を祈った真実をここに。
あの背中を模倣した、最強の一撃を叩き込め――!
「『肉体投影・左腕』――『装填』!」
――言語魔法、『偽・肉体言語』。
魔力によって象られた無敵の左腕がエリスの腕に重なるようにして顕現した。それはまさしく、エリスが追いかけ続ける男の拳。
最強無敵。確約された勝利の御旗。
この腕をもってして、少女の細見に具現化された目標の拳をもってして、己では抗えない敵すらも打壊せん。
「■■■■ッッ!」
突如として現れた脅威をクイーンバウトは遅れて認識した。しかし既にエリスのとっておきは解放されている。その見た目には不釣り合いな筋肉の塊を搭載した左手に思いの全ては乗っているから。
「遅せぇ!」
憑依具現した左腕に引きずられるように、普段とは違って野性をむき出しにしたエリスが、唾棄するように女王のミスを哄笑した。
では、これよりたった一撃の空想を。
構成にかかる時間。紡ぎあげた幻想の収束。クリアすべき過程を全て完了した今、この左腕は、あらゆる困難すら打倒する最強の拳ならば。
そして拘束を解くと同時に飛びかかってきたクイーンバウトを、掲げた左腕腰だめに構えたエリスが迎撃した。
「にぃさん直伝!」
大木の枝木の如き細く頼りない右足が、大本である大木の生やす根の如く地面を噛んだ。術式強化の恩恵だけではない。何百回以上も見た背中、早森いなほが編み出した術理の魔技を模倣したその踏み込みは、大地の反発を余すことなくエリスの足先を伝って体を登り始めた。
さながら昇竜の如き圧倒的力のうねりに僅かだが表情が歪む。
どんなに模倣をこなし、魔法によってオリジナルに近づけてもエリスという少女の性能は誰よりも劣っている。
だがそれがどうした。
歯噛みではなく、振り絞るために奥歯を食いしばり、そのままでは全身を貪り食らうエネルギーの塊を、大腿を超えて腰に至った時に捻りを加えて新たな指向性を持たせた。
すなわち火薬。
拳と言う弾丸の尻に叩き込まれる加速装置は、腰という撃鉄の唸りを持って具体化する。
「必殺のぉ!」
激突まで零秒。未だ爛れたままの口がエリスの脳天から下腹部まで閉じ込め、今まさに必殺の牙が閉じられようとする直前、魔力とは違う膨大な大地の反発力を得た拳は、エリスの思考を置き去りにした。
仮初の不倒不屈が同じ信念を宿した少女の激情すらも質量に変えたかのように、放たれた弾丸はその牙が閉じられる瞬きを突き抜けて、喉の奥を貫いた。
「握り拳ぃぃ!」
相手が例えF-ランクであろうが関係ない。エリスの渾身はクイーンバウトの巨躯を中身のない人形のように吹き飛ばす。
そして大木を何本もへし折ったクイーンバウトは、そのまま起き上がることなく力無く崩れ落ちたまま動かなくなったのだった。
「や、やった……」
本来なら模倣すら不可能な芸当を、類まれな理解力と精神力、何よりも誰よりも心に根付いた相手だからこそ可能とした一撃を放ったエリスは、その代償で激痛を発する左腕を庇いながら、動かないクイーンバウトを見る。
かつての自分なら、対峙した瞬間に生を諦める存在だった。
だが今、自分は立っている。それどころか本来なら打倒不可能な存在に勝利をもぎ取っている。
何よりも相手は、早森いなほが初めて負傷を負った相手――。
「やった……!」
心より溢れだす歓喜の念が、左腕の痛みすら忘れさせる興奮の波となって全身を駆け巡る。
エリスは勝ったのだ。
自分の力で、自分で研鑽した全てを行使して。
絶対なる死を相手取り、勝利を収めたという実感を、握り締めた拳を突き上げて爆発させた。
「うぉっしゃぁぁぁぁぁぁ! 初勝利ですよぉぉぉぉ! 私勝った! サイキョー! 私ってばサイキョー!」
周囲への警戒も忘れて、手にした勝利の美酒に酔う。
これが勝つという感覚。きっと、おそらくは負け続け、逃げ続けた人生で初めて手に入れた勝者の特権。
確かにこれは病みつきだ。一度味わえば何度でも味わいたくなる。
最強という幻想を確固たる現実にしたくなる気持ちを、ようやくエリスは理解出来たのだ。
「これなんだ……! いなほにぃさんが浴びてたのはこれで……! ふふふ、そうだ。私、勝った。ぶっ倒して、勝った……!」
早森いなほが張り続ける最強の意味はここにある。
どんな相手であろうと、貫ける自我を矛にして、あらゆる障害を突き崩す快楽は、きっと『本能では満足できない』。
理性的に貪れ。
理性的に狂え。
人として勝利に酔うため、本能が忌避する絶対強者を貪り食らえ。
その果てに立つのが――。
『早森』
思い出したように、腰に差したぬれぞーがその名を口ずさんだ。
『そうか……君が、この世界の早森か』
「え?」
『というか……ハハハハッ! 何という事だ! この世界に早森だと? 誰が君を名付けた? もみじ? ひめ? まこと? それとも、はな? ……というかあいつら生きてるのか? いやいや、そう言えばまことは念入りに殺されていたな! だがしかしそうなると……今生きてるのは――まさか、ころねかい? あのバカが早森を与えたのかね!?』
「あの、それは一体」
どういうことだ、と。
聞こうとする間も無く、ぬれぞーはやはりエリスの言葉に耳を貸さずに言いたいことを捲し立てる。
『いやいやいやそれはあり得ないか! 彼女が早森を名付けるなら、今頃君は生きていないだろうからね! ならば、また別の地球の早森……いなほ? 君の早森は、いなほという男なのかね!? フハハハハッ! 何にせよ面白い! 言われてみれば納得だ! 確かに君も早森らしい早森でしかない! 本能より理性を優先するその異常! いずれはと思っていたが、まさかたかだか数千年たらずで芽吹くとは思ってもいなかったよ!』
「だからね、ぬれぞー……」
『どこまでが計画通りなのかは知らんが、くくくっ、計画通りではないことが計画通りというのも皮肉なものだが……これで面白くなってきたぞ! そしてこの無限地平に生まれた唯一無二の早森の元に私と言う超絶美剣が現れたのもまた必然! 楽しい! とても楽しいぞ! そう! 理性のみで森羅万象を超える者にこそ、この私、ぬ――』
「話を聞けよ!」
エリスは拳に天岩戸真打を巻きつけると、一向に黙ろうとしないぬれぞーの柄に渾身の一撃を叩き込んだ。
『れぇぇぇぇぇぇぇ!? 痛い! 総じて痛み! でもちょっと病みつきになってきた今日この頃』
「もう一発いっとく?」
『あ、ごめん。嘘嘘冗談だよマイエンジェル』
鎖を巻いた拳を今一度掲げる。
どうやらこの放置すれば一生喋りかねない剣を黙らせるには、この鎖を使うのが一番手っ取り早いらしい。
「それで?」
『ん?』
「ん? じゃなくて、ハヤモリがどうとか言ってたけど、もしかしてぬれぞー、君はいなほにぃさん……早森いなほについても何か知ってるの?」
ハヤモリではなく、早森と。
エリスとは違って何かしらの確信を持ってぬれぞーは確かにそう呼んでいた。
それはエリスにとっても知りたかったことである。何せ、エリスはいなほがここに来るまでどんな生活をしてきたのかを知らない。だが少なくとも、いなほが非常識であることを踏まえて、彼がこことは違う文化の中で生活してきたことだけは何となく分かっていた。
では、それは何なのか。ここでは聞いたこともない名で呼ばれ、衣服も違い、使う文字も違う。
早森いなほ。
エリスの知らないヤンキーと自称するあの男の正体は何なのか。
『ハヤモリイナホ? え、何それ? 新種の虫? 筋肉堅そう』
だが、エリスの問いに返ってきたのは、本当に何を言っているのか分からないといったぬれぞーの疑問であった。
「は!? いやでもさっき確かにハヤモリがどうって……」
『私がかい? ハハハッ、おかしいことを言うんだねマイリトルエンジェルマスター時折撲殺天使な愛し子よ』
「で、でも――」
そこで、自分の拳に巻き付いた鎖について思い出した。
そういえばぬれぞーと一方的な契約を交わした日も、こうして鎖でぶっ叩いたせいで記憶が吹き飛んでいた。
「ま、まさか……」
また、私はやらかしてしまったのか。
あまりにも喧しくうざったらしいぬれぞーに我慢できずに殴ったせいで、また記憶喪失をやらかした。
しかもよくよく思い出せば、あの日と同じく自己紹介の直前で殴ったような。
「……ところでさ、ぬれぞー」
『なんだい、我が主よ』
「君、本名思い出した?」
恐る恐るエリスが問いかけると、ぬれぞーは柄の装飾を嬉しそうに名言させて、
『はっはー! まだ思い出せなくて申し訳ない!』
なんて、想像通りの返答をしてエリスを落胆させるのであった。
次回、現状のアレコレ
例のアレ
偽・肉体言語
エリスが編み出したオリジナルの言語魔法。読んで字のごとく、とある人間の身体能力を疑似的にだが再現する魔法である。ただし再現できるのは一部のみで、展開可能時間は僅か二秒、しかも魔力の大半を持っていかれるうえに、その出力に肉体にかかる負荷が強い。なので使用後はポーションを飲んで暫くは安静にする必要がある。だがその分直撃させたときの威力は折り紙付き。何せ模倣先が例のマッスルヤンキーなのだから。