表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不倒不屈の不良勇者━ヤンキーヒーロー━  作者: トロ
第四章【えんたー・ざ・やんきー!】
167/192

第十六話【燃えよヤンキー(全焼)】




「終わらせましょう」


 クーは初手から無詠唱で放てる最大の一撃を二つ解き放った。

 漆黒の熱線は、純粋な魔力を破壊に変換しただけの単純なものだ。だが単純なだけに、込められた魔力が多ければ多いほど、無類の威力を発揮する。

 膨大な出力を元に練り上げられた閃光は、普通の冒険者が数十人束になって、尚全力を振り絞って放てる規模の威力だ。以前、死闘を演じたハウリングの砲撃に匹敵する光の柱に対し、いなほは力の抜けた手のひらでその側面をはたいた。

 反発して身体は吹き飛ぶが、どうにか直撃を回避する。使用した手のひらからは最早、熱の痛みも感じない。

 どころか、全身が訴えていた激痛すら、耳栓越しの音声のようにぼやけていた。

 一分か、あるいは三十秒か。いなほがどれ程強靭な精神と肉体を持っていても、動ける時間は幾ばくも残されていない。

 たったそれだけの間に、切り札の覚醒筋肉すら使用できない状態で、立て続けに砲撃を放ち出したクーに近づき、一撃で倒すしか道は残されていなかった。


「消えなさい。イレギュラー!」


 火力だけならば砲門を全て開放したハウリングに匹敵するクーの魔道砲撃の雨が綿毛のように揺れ動くいなほの肉体を少しずつ削っていく。肉体もろとも意識と魂も失われていく錯覚。


「……」


 やせ我慢すら口にすることも叶わない。

 虚ろな瞳で、赤く歪んだ視界を新たに染め上げる暗黒の輝きを見据え。

 拳だけだ。

 拳だけは、強く握る。


「もっと……だ」


 閃光を弾く。意識の外、拳だけは肉体の赴くままに走る。

 一撃を弾けば、さらに二撃目。その全てが、いなほにとって必殺となりえる破壊力を秘めていた。

 だが迫る必死を認識すら出来ていなかった。

 拳なのだ。

 朦朧としながら、激痛すら感じなくなりながら。

 握った掌が、やけに熱い。


「もっと、だ」


 迫りくる破壊の一つ一つが、今の自分の限界を超えた威力。

 ならば、これらを一つ一つ超えていく度に、いなほはいなほ自身を超えていくのだろう。

 普段の豪快さなど微塵も見られないほど頼りなくふらついていた身体が、破壊の雨を逸らし、弾き、或いは踏み出した一歩が雨の隙間に滑り込む。


「もっとだ」


 乗り越えろ。

 限界の壁を砕いて、己自身を刷新しろ。

 拳と足は、最適の解答を求めて徐々に動きを変えていく。

 一撃ごとに加速し。

 一歩ごとに力を増し。

 満身創痍の肉体は、迫る熱量に傷つき、疲弊しながら──強くなっていた。


「馬鹿な……!?」


 クーも変貌していくいなほの動きに気づいた。

 吹けば倒れそうな体でありながら、吹けども押せども、決して屈することも倒れることもなく、それどころか動きの全てが速く重くなっている。


「おぉ……!」


 気合を乗せて、いなほの拳が閃光と真正面から激突して、吹き飛ばす。

 拳を突き出した体勢から、その両腕が力なく垂れ下がる。

 足は身体を支えきれず、左右に揺れて、やはり突けば倒れそうにしか見えない。

 だがクーは、いなほから立ち込める異様な雰囲気を感じ取った。

 力なく垂れ下がった顔が僅かに上がる。影の落ちた顔からは表情は抜け落ちていたが、屈することなくぎらついた瞳は、絶望することなくクーを見据えていた。


「ひっ……」


 燃える眼光に射抜かれて、クーは思わず悲鳴をあげて一歩下がった。

 確実に成長し続けるいなほ。だが隠し切れぬ恐怖を覚えたのと同時に、この男を『暗球』に、エビル・ナイトリングの元に辿り着かせるわけにはいかないという使命感が込み上げていた。


「……隊長、私はここで死にます」


 後は全てお任せしました。

 クーの両手に携えられた杖の先端、禍々しい雰囲気を吐き出す黒色の宝石が鳴動する。


「確実に貴方を抹殺するためにあえて距離を保ちましたが……それは間違いでしたね」


「まだ、だ」


「……目だけではなく、耳も聞こえていませんか」


 そこまで追い詰められながら、歩みを止めることなく、握り締めた拳を解くこともしないその気迫に尊敬の念すら覚える。


「ですが、それもおしまいです」


 振動の勢いを増した宝石が杖もろとも音もなく砕け散った。

 細かく砕けた破片が、大地に落ちることなくクーの頭上に集まると、再び一つの結晶として再構築された。


「魔法剣『天魔』」


 それは夜の闇を剣の形にしたような剣だった。

 刀身から柄に至る全てが漆黒。光すらも反射しない暗黒の剣は、誘われるようにクーの掌に収まった。


「これ自体は強度があるだけで大したことはないのですが……」


 天魔を逆手に持ち直した瞬間、クーの姿が消えていなほの背後へと現れた。

 反応する暇もない。クーは天魔で斬りつけるのではなく、黒い靄のようなものを纏った拳をいなほの脇腹に叩き込んだ。


「がっ!?」


 いなほの身体が木っ端のように吹き飛ばされる。激痛に悶える余地もなく、地面を二転、三転しながらも体勢を整えたいなほは、既に一歩の間合いまで距離を詰めてきたクーの拳を十字に重ねた両腕で受け止めた。

 防いだにも関わらず、およそ格闘とは無縁にしか見えないクーの細い拳の一撃で、踏ん張った両足の地面もろとも再度いなほを吹き飛ばす。

 ガードが意味をなしていなかった。防いだ腕に拳大の痣が刻まれている。新たに発生した未知の痛みに、ようやく途切れていたいなほの意識はクーを認識した。


「身体能力の劇的な向上と、四肢に闇の呪いを付加するのが、この天魔の能力……剣の形をしているせいで使いづらいから、普段は遠距離魔法の媒体として使っていますが」


 遠く離れていたはずのクーの身体が、瞬きをしただけで眼前へと到達する。


「その威力は……貴方の身体で味わってください」


 少女の細腕が、いなほの腹筋にめり込む。身体が浮き上がり、衝撃が内臓を超えて背中から突き抜けた。


「ぐ、ほ……」


 口から胃液と血を吐き出す。鳩尾を打たれ、呼吸が一時的に停止するほどだ。トロールキングを遥かに上回る威力が、女の細腕から放たれている。悶絶する肉体は余すことなくその火力を味わい、傷ついた内臓と骨がさらなる苦痛に悲鳴を訴えた。

 続けて強制的に止められた肉体を、クーの拳と蹴りの連撃が襲った。

 身体能力だけでミフネの速度に迫る速さ、破壊力はトロールキングの全力を小さな拳に一点集中させたほどで、さらに四肢に込められた呪詛によって、肉体だけでなく、精神まで削っていく拳と足。

 圧倒され、怒涛の勢いに飲まれていくいなほだったが、痛みの最中蘇った憤怒を浮かび上がらせて、反撃の拳を振り上げた。

 いなほの腕と比べて、枯れ木のようにしか見えないクーの腕が同じ射線を走る。ぶつかりあう二つの拳は、互いの威力によって弾かれた。

 驚愕したのは両者共々。たかが女の拳と互角を張らされたいなほも、動いていることすら奇跡である男の拳と互角であることを知ったクーも。

 続いて湧き上がるのは羞恥と屈辱だ。互いに自慢の一撃。互いが必殺と自負する武装。


 それが『こんな奴』に止められたことが、悔しかった。


「イレギュラー!」


「クソアマぁ!」


 互いに一歩後退した分を踏み込んで埋める。再度ぶつかり合い、半端しあう拳。

 拮抗している。その事実、先に屈辱を受け入れたのはクーだ。それはいなほの異常な成長速度をその目で見たからであり、時間をかけられないと悟ったからだ。

 だが引くことも受け入れることも忘我したいなほは、三度足を踏み出して拳を振りぬく。クーは唸る拳を刹那で見切る。天魔の刀身をいなほの拳の下に差し込んで頭上に逸らし、バランスを崩したいなほの懐へ。

 暗黒の呪詛を右手に集中させて、放つ先は鋼を遥かに凌ぐ腹筋。闇の尾を引いて身体ごと飛び込んだクーの拳を、いなほは右肘と膝で挟みこんで受け止めた。


「挟み!?」


 筋肉のアギトがクーの小さな拳を軋ませる。潰されるまで数秒もない。選択を誤れば拳のミンチが生まれる僅かな間、クーは挟まれた拳を引くのではなく、表面上ふさがっただけで、未だ傷癒えていないいなほの脇腹を蹴り抜いた。


「ぎ……!?」


 先程まで穴の開いていた脇腹の傷口が再び開く。堪えきれず力が抜けた隙に、クーは拳を引っこ抜く。

 いなほは激痛に悶えながらも、地面に両足をめり込ませて吹き飛ぶことは避けた。

 無論、衝撃を受け流せないという点ではいなほの行動は愚かだろう。

 だが耐えたことに意味があった。

 やせ我慢を行えるくらい、回復して、敵を真っ直ぐ見据えられるだけの力がある。


「貫け!」


 刀のように鋭い貫き手が襲う。受けて無事でいられるとは思わなかった。半身となりクーの一撃から逃れると、まだ力の入らない下半身を、腰を押すようして前へと突き出す。

 頭上高く振り上げた拳を直下に落とす。鉄槌の如く振りぬかれた拳を、クーは両手で支えた天魔の刀身で受け止めた。


「ぐっ……!」


 まるで巨大な山脈が落ちてきたような衝撃が天魔越しにクーに圧し掛かった。

 ここに来て、やはりこの男は回復はおろか、恐るべき勢いで成長をしている。


「化け物が……!」


 悪態を吐きながら、刀身を斜めにずらして拳を流す。恐ろしい敵だった。ジューダスの精鋭を打ち倒し、限界の肉体で自分に拮抗してみせたすべてが恐ろしく、尊敬すべき力の持ち主だと思った。

 それでも負けるわけにはいかないのだ。

 鋭い刃を象った左の手刀が、延びきったいなほの右腕の肘に叩き込まれる。関節を狙ったにも関わらず、クーの指先が軒並み砕けた。威力に耐久力が追いついていない。

 その代償に、本来なら曲がらない方向にいなほの肘が曲がった。


「が、ぁぁぁぁ!」


 痛みを吹き飛ばすように、いなほは咆哮をあげながらクーの腹部に膝を叩き込んだ。

 肘が砕けたことにすら怯むことなく放たれた膝に、幾つもの骨が砕ける感触が伝わる。浮き上がったクーの口元から多量の血液が溢れ、血の線を描きながらその体が宙を舞った。

 ここで逃すわけにはいかない。大地を踏みしめた足元が破裂して、いなほの体も飛翔した。動かない右腕を、筋肉の収束だけで強引に動かして腰溜めに。応じるように体勢を立て直したクーは、射出された拳に神速の蹴り足を合わせた。

 衝突の結果、振りぬかれた細足が、いなほの豪腕を今度こそ使用不可能なまでに破壊した。


「ぃ!?」


「舐めるな……!」


 肘を砕かれて力の入らない拳程度で倒せるはずがない。逆に手痛い反撃を受けたいなほは、捻じ曲がった右腕もろとも地面に激突した。

 衝撃でさらに内臓が傷つき、耐え切れずに血が口から吹き出す。呼吸も出来ない苦痛の荒波がいなほを飲み込む。

 だが相手はそんないなほの事情など関係なく、発生した煙幕を引き裂いて真っ直ぐに落ちてきた。

 握られた天魔の切っ先には多重に束ねられた魔方陣が、いなほの姿を視認したと同時に倒れふす肉体を取り囲むように展開される。


「『暗闇に溶ける魔』。『調律』」


 クーの全身から燃え広がる漆黒の魔力が、全ての魔方陣へと注がれていく。一瞬で密度を増した暗黒を、真っ赤に染まった視界でいなほは捕らえた。


「『燃やし尽くせ、紅蓮の腕よ』!」


 四肢を包む呪詛を媒体とした憎悪の光が、魔方陣より現出した無数の火球を暗黒に染め上げる。

 呪詛に揺らめく煉獄の炎。怨嗟の声を燃焼して燃え上がる邪悪の熱が、振り下ろされた天魔を皮切りに一斉にいなほへと降り注いだ。


「ッ……!?」


 逃れる時間は残されていない。視界ではなく、身体をなぶる熱量で危機を察したいなほは、絶死を告げる火刑が迫る中、どうやってこの場を脱するかを思考して──


「引くかぁ!」


 無謀と知りながら、諦めを超えるべく装填された、拳という最強の弾丸の撃鉄を落とした。

 熱量に燃やし尽くされるよりも早く、熾烈を極めた自慢の拳が直下の地面に叩きつけられた。

 直後、極大の破壊に晒された地面がめくれ上がり、飛び散った土と石の雨が漆黒の幾つかをかき消した。

 それでも全てが消滅したわけではない。威力を減衰されながらも、土と石の防壁を乗り越えた漆黒の炎がいなほの背中に着弾した。


「ぐ、おぉぉぉぉぉぁぁぁぁ!」


 白い炎にすら拮抗してみせた金剛石の如き筋肉が、物理的な熱量と精神を圧搾していく呪いによって悲鳴をあげる。しかし、苦痛を超えた鋼の魂が再度拳に力を与え、振るわれた一撃が容赦なく漆黒を薙ぎ払う。


「が、はっ……」


 口から煙を吐き出すほどの窮地から脱したいなほだったが、全身を裂傷、打撲、骨折、内臓からも出血した状態に、特に炎との距離が近かった背中と左腕に重度の火傷を負った状態では、動くにも動けないほどになっていた。

 得意の精神論ですら、瀕死のうえに致命傷を受けた身体を動かすことは出来ない。

 今度こそ、限界だった。限界を幾つも超えたと思っていた肉体は、絶対的な壁に激突する。

 何もせずとも、一秒後には倒れ付すだろう。だが、常識的に考えればトドメを刺す必要はないというのに、暗黒の魔女は瀕死のいなほへ突貫した。


「殺りましたよ! イレギュラー!」


 決していなほを侮るつもりはなかった。死に掛けだろうが、この男は実際に殺して死なせてしまうまで油断は出来ない。首だけになってもこちらに噛み付く程の壮絶さをいなほが備えるなら、クーは己の全てを投げ捨てても、いなほの全存在を消滅させる覚悟があった。

 死を決意した魔女に呼応して、天魔の強化と呪詛が全て左手に収束する。一瞬の間に漆黒の塊とでも言うべき結晶体になった拳は、ただそこにあるだけで、枯れ果てた大地を刹那の間に気化させて消滅させていく程の呪詛を込められている。

 こうなれば己の左手もただではすまない。この一撃の後、込められた呪詛に耐え切れず骨すら残さず崩れ落ちるのを覚悟して。


「はぁぁぁぁ!」


 その代償に尊敬すべき化け物の命を消滅させるべく、乾坤一擲の拳はいなほの胸部に叩き付けられた。


「 」


 最早、声を上げることも叶わなかった。

 駄目押しの一撃が、いなほの急所を破砕する。心臓へと叩き込まれた衝撃と呪詛が血流に乗って全身を駆け抜けた。破滅衝動が全神経と血管をサーキットに走る。

 膝から崩れ落ちる。物理的に耐えることの出来ない一撃は、いなほの耐久力の限界を超えて、ついに不屈の精神は不倒を誓った肉体は、今度こそ成す術すら見つからずに早森いなほの奈落の底へと消えていく。


「あ……れ?」


 ──死ぬのか?

 心臓を砕かれ、全身の神経すら蹂躙され尽くし、視界は一気に暗黒へと消える。

 意識があるのかどうかも定かではなかった。死ぬという予感すら己の意思で思ったことかすらわからない。

 何せ、天地が何処かももうわからないのだ。

 五感の全てが消え失せた今、何が残っているのか、もうわからない。

 ただ、細分化して消えていく全てを見届ける他なく。最強を誇った全てが液体にでもなったように腐食して、死した大地と同じく、亡骸の一つへとなっていく。

 亡骸となる肉体を自覚した。

 あらゆる存在ですら絶対に超えられない、『死』という明確な敗北に沈んでしまったのだと知ってしまった。

 肉体も、心も、全てがクーの一撃の壮絶が決着をもたらしたことを知る。

 限界を超えて敗北へと流れ着いたのだ。喪失した勝利への道。不可能という容赦のない現実がいなほの全てを支配し尽くして、最強の男は、死という事実の前にただ崩れ落ちていく。


(あぁ、畜生……)


 負けたのか。

 ここが、本当の限界か。

 何をすることも出来ない。

 何かをしようとする気力すら削られる。

 重くなった瞼がゆっくりと閉じていく。その最後、悔しさすらも感じられなくなったまま、眠るように目を閉じて。


 ──その不可能を、お前は乗り越えたのだろう?


 閉じられた意識の奥、暗黒に閉ざされた世界に、陰鬱とした声が届いた。

 だが陰鬱とした声はいなほの魂に染み渡る。

 鼓動の音も聞こえない無音の場で、唯一残った声は、敗北しようとしている最強の、ぼろぼろに傷ついた肉体を焚きつけるのだ。


 ──『帰結運命』を超えろ。お前がお前であるために。


 彼は誰よりも『それ』を望んでいるが故に。もう十分に戦ったいなほを鼓舞するのだ。

 陰鬱の裏に込められた切望の混じった声が心を射抜く。

 まだこれからだと。

 お前が何のためにここに居るのかを。

 強く。

 誰よりも強く望む声が響き渡り。

 あぁ畜生。

 己の情けなさに、泣きたくなった。


 ──わかったから黙れよ、『陰鬱野郎(レコード・ゼロ)』。


 返答は、己の内側から響いた声に応えるように。

 あるいは余計な茶々を入れられたことに奮起するように。


 何より、横槍を入れられなかったら敗北を受け入れていただろう己の不甲斐なさへの憤りをもってして、早森いなほが再動する。


「ま、だ……」


 いつの間にか、言葉は紡がれていた。

 確かなものが全て消え去ったというのに、心も身体も消えようというのに。

 停止した身体と心が敗北を享受したというのに。

 例え、ぎりぎりで背中を押してくれた誰かが居たとしても。

 結末は既に決まったにも関わらず。


「まだ……」


 まだ、何だというのか。

 何を望む。

 何を追い求めた。

 何でもない。

 何ものでもなく。


 たった一つの、確かな『絶対』がここに。


「まだ……だ」


 まだ、在る。

 ここに、在る。

 世界の全てが裏切っても、己自身が裏切ったとしても。

 ここに確かな、信念を一つ。

 未だに握り締められた拳だけ。

 いなほは見た。暗黒の中、見えるわけもないのに己の拳を見つめた。

 感覚はない。

 感触もない。

 視界には何も映らない。


 だけど、そこには確かに『拳』は在った。


「だったら……なぁ?」


 まだ行けるのだ。この敗北を砕いて散らし、新たな道を切り開いてくたった一つの確かな答えがぶら下がっているから。

 全ての絶望が、死すらも霧散していく。暗黒のカーテンは吹き飛んで、唯一無二の拳が一つ。

 自慢の拳。

 最強の絶対法則。


 それが、『まだ残っている』。


「俺の自慢の……」


 肉体の限界を超えて。

 精神論すら踏破して。

 拳を支えにいなほの自我が命の輪廻すら打ち砕く。

 崩れ落ちる足が無いに等しい力をかき集め、指先だけでも突き動かした。

 唯一動いた左足の親指が、鋼の肉体の全てを支えた。へし折れる親指。代わりに折れかけていた全てを立ち上がらせて。

 後一撃。

 拳。

 打てるならば、あらん限りをぶち噛ませ。


「こいつでぇ……!」


 光を失った瞳が生命の火を再燃する。

 指先に収束した最後の力が、全身を支配する呪詛と痛みを吹き飛ばしながら拳へ飛んでいった。

 叩き込むのは散り散りになった己の全て。

 かけがえの無い破滅願望。

 砕いて進むという愚直な意思を。


 拳へ乗せて、行け。


「おらぁ!」


 燃料タンクに残っていた最後の一滴を無限大に増幅させた渾身の打突が解き放たれた。

 在り得ない、奇跡としか言い様がない。恐れて、恐れて、尚、恐れ足りないのだとその拳を見据えてクーは思った。

 だがそれでも。

 奇跡はそこまででしかない。


「遅い……!」


 骨だけになった左手から天魔を握る右手に呪詛を移し変える。

 いなほの異常性を理解していたからこそ、クーの動きは迅速だった。そう、恐るべき男と対峙するこの女もまた、恐るべき戦闘者。

 一度殺したくらいで死なないなら。

 何度でも、殺して、殺して。


「殺し尽くす!」


 天魔を掴んだまま、クーの拳はいなほの拳と同じタイミングで解放された。

 だが左手を失ったとはいえほぼ万全のクーとは違い、いなほは奇跡に奇跡を積み重ねて動いているだけで、その拳にはいつもの速さの十分の一以下まで低下していた。

 確実にクーの拳のほうが速い。さらに回避も十分に可能であり、いなほの奇跡の抵抗は、勝利を掴み取ることなく空を裂くのは明白だ。

 そして現実は誰にでも分かる決着を迎える。彼我の速度差は決定的で、今一度、呪詛の塊はいなほの胸部へと吸い込まれ──


 ただ一つだけ、誤りがある。


 クーは油断も慢心も、命さえも捨てていなほを殺そうとした。

 だがそれでも尚、クーはいなほを侮っていたと言うべきほかない。

 奇跡ではない。

 全ては奇跡なのではないのだ。


「え?」


 クーはその時、いなほの拳を回避するために『その拳を見てしまった』。

 いや、最早その一撃は見ていようが見ていまいが関係ない。存在を感じ取った時点で、全てが結実するのだから。

 奇跡ではない。

 全ては、いなほが手繰り寄せた必然であり。

 噛み合った必然の全ては、奇跡のような完璧を作り出す。

 動きはあまりにも遅かった。

 だがその存在を認めた瞬間、クーは行動の全てはおろか、思考の全てすら忘却していなほの拳に『魅せられる』。

 完璧だった。

 傷つき、ぼろぼろの身体。

 倒れそうな肉体から放たれた頼りない一撃の何もかもが完璧だった。

 限界の向こう側。

 再び辿り着いた神域で、神すら魅せる『完璧』は顕現する。

 何もかもが完璧だった。

 それこそいなほの口から滴り落ちる唾液と血液のブレンドされた液体が溢れる様すら、完璧だった。

 指先から脳天に至るまで、全ての動きが完璧な動きを果たし、完璧なタイミングで混ざり合い、完璧はさらなる高次元の完璧で重なり、さらなる完璧は新たなる完璧を生み出す。

 究極を乗り越え続ける究極の動きだった。

 至高の芸術作品をまとめて駄作にしてしまうほどの完璧な究極を前に、クーはただ見惚れるばかりで動きもしない。

 むしろ立つことすらままならなくなり、全身の力が抜けて崩れ落ちるその瞬間。


「俺の……!」


 究極の拳はクーの意識を剥奪し、その命すらも奪い去った感触を確かに。


「勝ちだ!」


 閃光。突き出された拳を中心に、空気の膜が周囲を圧して、周囲ある枯れ木の全てが根こそぎ吹き飛んだ。

 速度も何もないふらついた拳だというのに、その破壊力はこれまでいなほが放った全ての正拳を凌駕していた。

 胸部を貫かれたクーは、その風圧に吹き飛ばされ、数十メートルの滑空の後、天魔もろとも力なく大地に突っ伏し、そのまま二度と動くことはなくなる。


「は……」


 後には、拳を突き出し状態で、表情すら欠落して立ち尽くすいなほだけだ。

 勝利の実感よりも、今突き出した正拳のほうへといなほの意識は向かっていた。

 ──俺は、また届いたのか?

 それとも、この実感もまた夢幻と消えていく空虚なものなのか。

 再び放たれた究極の一撃を反芻しようとした瞬間、全身の筋肉が内側から裂けて、新たな出血と激痛が駆け抜けた。


「ぐ、ぉ……」


 踏みとどまろうとするが、今度こそ指先にすら力がこもらず倒れる。


「お……?」


 身体が温かいと思ったら、ぼやけた視界に自分自身の血で作られた水溜りが映った。

 ──これ、全部俺の血かよ。

 驚くよりも呆れたというか。道理で全身の感覚がぼやけている訳だなどと、そんなくだらないことを考えながら狭まる視界が最後に見たのは、まるで遠足を楽しむ幼子のようにスキップをしてこちらに近づく少女という、意味不明な光景だった。





次回、妄執の魔王。


例のアレ

魔法剣『天魔』

とてつもなく太いし堅い、そして黒い。つまりエロい魔法具

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ