第二十九話【隣に居るために】
火蜥蜴の爪先のテンションは最高潮を超えてさらに上限知らずに上がっている。ここ一週間、血色の棺桶を攻略していっているということで賑わっていたが、ついにその半分までを攻略したことで、さらに盛り上がりを見せていた。
沸き立つセンス店内で、ギルド員全員が、いなほ達へと祝砲代わりの杯を打ち鳴らす。ここ暫くどころか、十年をさかのぼってもなかった快挙だ。今やシェリダン最強のチームとして噂され、道を歩けば畏怖と敬意の念を送られる。
そして当然一番浮かれているのはバンであった。成り上がることを夢見てたどり着いたシェリダンで、ようやく手にした奇跡のようなチャンス。それは見事に花を咲かして、今では血色の棺桶で得られた金は、センスで貯めたツケを払っても余裕で余りあるほどだった。
だがそれよりも嬉しいのは、いなほ達、天上人の戦いを生で見られることだった。英雄と呼ばれるような者の全力を肌で感じたバンは、店に来るたびに客へ戦いの様子を熱弁する。
「そして最後はサンタちゃんがズバーンと魔法を撃って、どばっといなほちゃんが締めたわけよ!」
熱弁するバンの話に盛り上がる火蜥蜴の面子と、来ていた客の面々。歓声をあげるかれらに向かってテーブルの上に立って演技込みで語るバンは、まるで演説をする政治家のようだ。
そんな彼らを見守りつつ、いなほとサンタは美味しそうに酒を飲むカッツァに、気になっていたことを聞くことにした。
「なぁカッツァ」
「んー?」
「お前、マジで倒したときのこと覚えてねぇのか?」
その質問にカッツァは苦笑を返した。
「ホントだよ。俺の種族はちょっと特殊でね。キレると、そのときの記憶が吹き飛んでしまうのさ」
または、本能に支配されるとでも言うべきか。獣人であるカッツァは、痛みによって本能が呼び起こされる。そのとき、獣人としての本領が発揮されて、一時的にだが能力が底上げされるのだ。
その代償として、心身への負担からそのときの記憶が消失する。他にも肉体が衰弱するという問題もあるが、これは回復魔法をしながら一日のんびり休めば回復する程度のものだ。
そういうわけで、カッツァは今体に回復魔法の術式が刻まれた札を貼って英気を養っている。
「まぁ、悪いけど、明日は一旦休みってことで頼むよ」
そういうわけで、一日空いたいなほは、その翌日サンタとともに散歩に出かけていた。
久しぶりに出たシェリダンの外の風景は、陰鬱な街の雰囲気とは裏腹に、草木生い茂っていて、開放的だ。
その光景を眺めるだけで、サンタの心は晴れわたる。簡単の声をあげて、瞳をきらきらと輝かせたサンタは、子どものように駆け出した。
「あはは!」
「おいサンタ! あんま離れるなよ!」
「いなほも早くおいでよ!」
「ったくよ……」
一気に草原を駆け抜けたサンタは、いなほへと手を振った。
子どものよう、どころではなく、これは子どもだ。しぶしぶサンタの元へと行くと、サンタはゆったりとした動作で歩くいなほを、楽しそうに眺めていた。
「ふふ……」
「ぁんだ? 人の顔じろじろとよ」
「面白顔?」
「そういうテメェはどこでも顔だな」
「何それ。変なの」
口に手を当ててサンタは笑った。
草原に並んで座って、再びとりとめのない会話を始める。
どこにでもある日常だった。当たり前の、そこらに転がっていそうな会話が楽しい。そんな世界が、サンタには宝物以上の価値を持っていた。
だってここには君がいるのだ。ここには私と君がいる。
前へ前へ、足を止めずに進む君の背中があったから、そんな君が手を差し伸べてくれたから、今のこの奇跡みたいな世界がここにある。
心の本音を告げるにはまだ勇気が足りない。それでもサンタはいなほに伝えたかった。
最初は、『誰もこの依頼に巻き込むつもりはなかった』。一人で全部を解決するつもりだった。例えその道中で死ぬことになっても、危険な場所に巻き込むことに抵抗があった。
そんな私の前に、君が現れた。あの日、本当はあんな大男に挑むのが怖かった私の前に、君はなんでもないように現れて、なんでもないように恐怖を吹き飛ばした。
その次の日に君と出会えたことを、運命だと信じるのは、決してくだらないことではないはずだ。それでも少しだけ不安だった。ダンジョンで腕試しをして、それが終わったら君の前から消えようとすら思っていた。
だけど、やっぱし不安を吹き飛ばしてくれた。言葉はなくても、その拳が見せてくれた。暗闇を引き裂いて、その向こう側へと連れて行ってくれた。
「いなほ……」
「あ?」
面倒臭そうに返される言葉ですら嬉しい。隣にいるだけで胸がとくとくと鼓動を早くしていく。鼓動が聞こえるのではないかと思うくらい、心臓がどきどきのリズムを奏でる。
全部、君が見せてくれた。そして全部、君が救ってくれた。恐怖から逃げ出した私を、それでも見捨てずに助けに来てくれた。
全部、全部、全部なんだ。サンタは、暖かいものを積み重ねていく。その暖かいものはきっと、もうすぐ、隣に座る彼の手に触れればすぐにでも告げ──
「……へへ」
笑い声をあげるいなほの顔を見上げたサンタは、優しい色を宿しながら遠くを見るいなほの視線に気づいて、伸ばした手を引っ込めた。
暖かかった心に、冷たい何かが流れ込む。
まただ。あの時と同じ瞳だった。ここにいない誰かを。ここにいる自分ではなくて、遠くにいる誰かを思うその瞳が、嫌だ。
いなほはサンタの葛藤に気づかない。それどころか、このくだらないやりとりを通して、あの日の懐かしい記憶を思い起こしていた。
そよぐ風の感触を楽しむ。だがそんな優しい世界を堪能しながら、いなほは己の肩が僅かに軽い事実に気づいて苦笑する。
エリスがいない。人の肩に乗っかっては頭を叩くはギャーギャー喚くはで、正直うるさいだけだったけれど、それでも、エリスがいない事実は、いなほの心に冷たい風を吹き込んだ。
今を悪く言うつもりはない。ここはマルクとは別の刺激的な毎日があって楽しくはある。だがそれでも、マルクで過ごした日々に思いをはせるくらいはいいだろう。
なぁエリス。お前は今どうしているんだ? 早くしねぇと、どんどん前に行くぞ? まぁどうせお前のことだから、すぐに追いついてくるとは思うが。
「いなほ……!」
咄嗟に、サンタは口を開いていた。ここに居るのは私だって叫びたいのに、出る言葉は勇気のない遠まわしな言葉だ。
「いなほ、何処見てるの?」
「何処も何も、ここで見れるのなんざ空か草か、テメェの面かのどっちかだろ」
「違う。いなほは、何処がいいの?」
言葉が足りないサンタの言が、いなほには十分と伝わった。
見透かされているな。思っていた以上に望郷の念が顔に出ていたのか。観念して、いなほは胸の内を吐露し始めた。
「ここに来る前はマルクってとこにいてな……そこで一緒だった奴のことを思い出してた」
「……それって、もしかして女の子?」
「あぁ、最高の相棒だ。今はちっと離れちゃいるが、いつか必ず、歩くって決めてんだ」
恥ずかしげもなく、むしろ誇るようにいなほは言い切った。早森いなほがこの世界に来て、初めて出会い、この先二度と同じような相手は出ないだろうと思えるくらいの同族。最悪で、最高の馬鹿を思う。
その横顔を見て、やはりサンタの胸に痛みが走った。陰鬱な気持ちがこみ上げて、暗い感情が心を支配していく。
「それって……さ。十五階に挑むときも、その子のこと、考えた?」
「十五っていうと……あぁ、あの時か。そうだな、あいつがいれば、とかは思った。まぁ、居なくても居るのには代わりねぇんだけどよ」
「どうして?」
「どうしてって……そりゃ、あいつは俺の隣だ。他でもねぇ、あいつが、エリスだけが俺の隣だ。誰にもゆずらねぇ。俺の隣も、エリスの隣も、俺とエリスだけのものだからな。滾るんだよ。熱がな、ドクドクって鼓動してやがる。熱さが、この熱だけは、俺とエリスの最強だ」
そしていなほは自分の胸を軽く叩いた。ここの熱は消えていない。消えるわけがない。
誰にも断ち切ることなんて出来ない魂の絆。
誓いと祈りは烙印のごとく。熱を帯びていつまでも前への原動力となる。今は少し離れているだけで、いずれはきっとまた出会って、今度は本当にともに戦うのだ。
そのときを思えば、不思議と笑いがこみ上げてくる。
二人で馬鹿をやるのだ。突き進んで、暗闇を砕いていき、馬鹿を笑ってアホになる。あらゆる好意を超えた、互いが自分だから共に笑うという、最高の同族好意。
描く未来は鮮明で、その未来では、自分達を後ろからしっかりと支えてくれるサンタの姿が──
「ずるいな」
そんな幻想が掻き消えるくらい、サンタの声は震えていた。
「サンタ?」
いなほが幻想から戻って隣のサンタを見ると、その顔は立てられた両膝の間に隠されて見ることは出来なかった。それでもその震える肩が、サンタの感情を表す。
泣いている。その理由は、単純で。単純だから、すれ違う。
「私は、隣じゃ駄目かな?」
「サンタ、お前……」
「一緒がいいな。いたいよ、いなほ」
居たいのか、痛いのか。どちらとも取れる言い方だった。
いなほは、言葉に詰まった。
迷いがあるのではない。答えは決まっているのに、それを告げるのに、自分でもわからない苦しさを感じた。
しかしそれでも、言わなければならない。いなほは、自分の気持ちも定かではないけれど、サンタに言う。
なぜならサンタ、お前は。
「それは駄目だ」
「ッ……!」
「お前は、俺じゃねぇ」
早森いなほの隣に立つのは、早森いなほでなければならない。無謀を歌い、無謀へと赴き、無謀を貫き、無謀を掲げなければならない。
バカにしかなれない。そして、そんなバカになりきれなかった末路をいなほは知っている。
キースとネムネが、普通の心で貫いた無謀の結果を証明した。
ならば、いなほはこんな自分に憧れて、バカになろうとする者を止めなければならない。これがカッツァに諌められる前ならば、いなほはサンタに自分を投影して、同族と勘違いして、隣を許したかもしれない。
しかし、サンタはいなほではない。互いの気持ちがわからなくて、通じ合うのは本当に一瞬で、すぐにすれ違って惹かれあう、そんな他人同士なのだ。なぜなら、今この瞬間だって、いなほとサンタは、互いの気持ちがまるでかみ合っていないのを自覚していた。
「どうして、そんなこと、言うのかな」
「これは俺の本音だ」
「私は隣がいいよ」
「止めろよ。俺に憧れても、お前は俺にはなれねぇよ」
そう言ういなほの言葉に、ほらやっぱしわかってないと、サンタは内心で冷めたことを考えた。
憧れではないのだ。違う、この胸に走る痛みは、決して憧れなんかではない。
もう、自分で自分を偽ることはできなかった。こみ上げる思いを、こみ上げる熱を、そして突き刺すような胸の痛みの理由から、サンタは目を背けることはできなかった。
だって。
「私は……!」
君のことが──。
「ッ……」
「サンタ?」
「なんでもない!」
立ち上がったサンタは、急いで顔に付着した生暖かい液体を拭うと、それでも少し真っ赤な瞳を隠すように、いなほに背中を向けた。
言えるわけがなかった。この想いを告げて、本当の決別を突きつけられたら、サンタは自分が立っていられないとわかっていた。
──答えなんて、もうわかりきってるけど。
いなほが見せた、エリスという女の子へと向ける気持ちは本物だ。いなほは、その女の子のことを、誠実に思っている。だから、自分が割り込む場所なんて何処にもないのだ。
だけど、サンタはまだ少しだけ、この暖かさに包まれていたかった。
どの道、いなほといられるのは『依頼が終わるまでの間だけ』だ。それを過ぎれば、気持ちも関係なく、二人は別離し、二度と会えなくなるだろう。
それでも。
それでもだ。
痛む胸を抱きしめるように押さえて、サンタは零れそうな嗚咽を唇が切れるくらいに噛んで堪えた。
いなほが立ち上がる。だがサンタは逃げるように距離を置くと、数秒だけ深呼吸をした。
「ふぅ……うん」
私はもう大丈夫。心配そうな顔で近づくいなほに振り返って、サンタはいつもの笑顔を頑張って浮かべて見せた。
「ごめんね。少しだけ、我が侭でした」
「あのなぁ……」
「それに、いなほがバカなのを改めて確認」
「しまいにはぶん殴るぞ」
「だったらほら! 拳骨でもしてみてよ!」
サンタはそう言うと勢いよく駆け出した。後ろでいなほが呆れた感じでため息を吐き出すのが聞こえるが、これくらいは許してほしい。
せめて、ここにいる間だけは共にいたいから。サンタは、いなほの想い人であるエリスという少女に、心の中で謝った。
次回、野郎どもの飲み会。