第一話【祈る少女とぶっ飛びヤンキー(軽傷)】
筋肉って凄い。全編通してそんな話ですのでご注意を。
※この小説のタイトルの不倒不屈は造語であり、不撓不屈を打ち間違えたものではありません。
別に現実を理解していないわけではない。
ただ単純に、藁にすらすがらなければならないほど、現実が冷たいのだ。
「願いを捧げる。私の夢、私の理想、あなたを象る全てが、私の願いという血肉で成る」
少女は大地に膝をつき呪文を歌っていた。彼女の膝もとには、土の大地に描かれた下手くそな魔法陣が一つ。北に太陽を書き、西に盾を示し、東に剣を描く、そして南に少女が一人。中央には東西南北を繋ぐ星の印。
それは、ありもしない魔法陣と呪文だ。だが少女がそんな新しい魔法陣と呪文を生み出したのかと言えば、そうではない。少女は簡単な魔法こそ使えるが、せいぜいはちょっとした炎をともしたりといった程度、召喚を行えるほど、ましては新たな魔法を使えるほどの卓越した魔導師ではない。
「理想を紡ぎ、理想と化せ。あまねく悪をかき消す光、祖は太陽、其は無限の勇気を抱く奇跡」
だが詠唱は続く。両手を組んで胸の前、祈りを捧げる少女がまとう衣服はただでさえぼろぼろの上、土で汚れて身窄らしい。体にはいくつもの擦り傷、そして足首は痛めたのだろう、青く腫れているが、それらの傷の痛みを押し殺し、少女は意味のない詠唱をひたすら綴る。
少女は逃げてきた。平和な日常の中、ある日突然村を襲撃してきた巨大な魔獣、トロールの群れに追い立てられ、少女は家族、友人、全てに守られ逃げおおせた。魔獣の群れにより鮮血に溢れることになった村から逃げ、森に入り込み、ただ闇雲に走った。そしてつい先ほど、森まで追い立ててきたトロールにより、少女は友人と家族と引き裂かれ、一人孤独に逃げ続け、ついに足首を痛め大地に屈したのだ。
自分は無力だ。か細い腕に足、魔法を使えるほどの魔力もないただの少女。そんな自分に何ができるわけでもない。でも助けたかった。助けてほしかった。この理不尽を救う奇跡が欲しかった。
「其の総称は人の夢。其の理想は世界の夢。大いなるあなたよ、大いなる奇跡よ、この身、この言霊に応えたまえ」
詠唱は続く。だがその詠唱は、今少女の横に置かれた誰とも知らぬ人が書いた『絵本』に記されたものだ。そう、それはただの御伽話の言葉に過ぎず、どんなに願おうが祈ろうが、その全てに意味はない。
だが少女は歌う。歌うように祈る。藁にもすがろう。藁にしかすがれないから、藁にだってすがってみせよう。
絵本の名前は『太陽の勇者』。悪の魔王を打倒する偉大な勇者の物語。そして、少女が歌う詠唱と、下に描いた魔法陣こそ、絵本に出てくる勇者召喚の召喚魔法。
不可能である。出所不明の絵本の在りえない詠唱に意味はない。
詠唱は続く。でも少女にはこれしかなかった。小さなころから、手垢で汚れても読み続けたこの理想の英雄に願うしか、少女には残されてなかった。
だから祈る。お願いと、どうか奇跡よ起こってくださいと。
「誓約は今。応えよ、応えよ、奇跡を具体せよ。この世界に光をもたらせ」
お願いします。それだけが、弱い少女にできる唯一の抵抗だから。
「太陽の勇者よ!」
来て! 両手に力を込める。だが、どんなに待っても、少女の描いた魔法陣には何かが起きるわけでもなく、響くのは森の木々のざわめきばかり。
「そんな……」
わかっていたけれど、それでも奇跡のない現実に少女は今度こそ力を失った。組んだ両手は力なく大地につき、絶望感が少女の肩に重くのしかかる。
現実の理不尽を打倒する奇跡の存在はない。世界はいつも冷たくて、少女の穏やかな日常を守ってくれる英雄はいない。
「どうしよう……お母さん、お父さん、エイミー、トト……」
溢れる涙は、彼らへの罪悪からだ。何もできなくてごめんなさい。弱くってごめんなさい。
私には何もできない。圧倒的な力を前に、私はただただ逃げるだけしかできないんだ。
少女の中の芯が砕ける。犠牲にして逃げるだけの己への自責の念に潰されそうになる中、不意に木々のざわめきではない、木々をへし折る音が聞こえてきた。
それは膝をつく少女にどんどん近付いてくる。そして、最早動くこともできない少女の前に、音の主は現れた。
「あ……」
悲鳴すらあげられない。少女の前に現れたのは、少女の倍以上はあろうかという巨体の、緑色の皮膚をもつ異形の怪物。トロールと呼ばれる魔物は、恐怖に震える少女を見下ろして、手に持つ棍棒を見せびらかすように掌で弄ぶ。
トロールを見て、少女の記憶が掘り起こされる。突如群れをなして村を襲撃してきたトロールの群れ、駐在していた兵士は闘うでもなくなさけない悲鳴をあげて一目散に逃げ、村の人々が次々と死んでいく地獄が具現した世界。それでも母親や友が自分をここまで逃がしてくれたこと。
「嫌だ……」
立ち上がれもせずに、後ずさる。足首の痛みのせいか、最早起き上がることさえ難しいのが見て取れた。森のなかで転び、運悪く木に打ちつけてしまったときの怪我だ。これがなければ、少女はひたすらに逃げていただろう。
だがもう逃げられない。運悪くトロールに見つかった今、少女を守る優しい母に、頼もしい友人達がいない以上、少女の命運はすでに決していた。
「グビャビャビャビャ」
汚らしい鳴き声をあげながら、トロールがジリジリと少女に近づく。あくまでゆっくりと、絶望に沈む少女を見て楽しむように。
だがそんなトロールの下衆な思考など理解する余裕のない少女は、必死に後ろに下がるしかできない。大地に刻んだ魔法陣が後ずさる度に少女の体で消されていく。まるで願った奇跡はただの張り子であると言わんかのように、呆気なく消える少女の理想。
一歩踏み込んだトロールが、少女の絵本を踏みつぶした。踏みにじられ、蹂躙される少女の夢、理想。ありもしない奇跡に意味はない。世界はどこまでも理不尽で、この世に奇跡をもたらす勇者はいない。
「嫌だ……」
「ゲヒャヒャヒャ」
「嫌だ……!」
次々に零れる涙。否定しても迫る悪夢。と、少女の背中がついに木にぶつかった。これ以上逃げられない。絶望と恐怖、嫌だと言おうが、トロールはその醜悪な容貌に笑みを張り付けて少女に向けて手を伸ばし──
「誰か、助けて!」
吐き出される生への渇望。か弱い少女の、最後の抵抗。
瞬間、何の前触れもなく、トロールの手が横合いから伸びた手に掴まれた。
─
早森いなほは人類である以前に、喧嘩しか能のない糞ったれの畜生であると豪語するくらい、見た目も中身も筋金入りのヤンキーだ。茶色に染めて痛んだ短髪に、眼力鋭い目つき、二メートルに届くかという長身の彼は、道端であえば誰もが道を譲るほどの威圧感を放っていた。
何よりもその威圧感の元となっているのは、鋼か何かと見間違うくらい屈強な筋肉だろう。世間的には細マッチョと言われるような、厚すぎない筋肉だが、筋の一本まで丹念に鍛えた肉は、そこらの鉄なんかよりも遥かに頑丈である。実際はただの細マッチョなどではない。見栄えだけの余分な筋肉を搭載しない、戦いに特化した攻撃的肉体こそいなほの自慢なのだ。
そんな男が、まさか積載量一杯の十トントラックに轢かれそうになった少年を庇って轢かれ、さらに吹き飛んだ先で落ちてきた鉄骨に潰されたあげく、鉄骨をどけようとした瞬間ガス爆発に巻き込まれたのはなんという悲劇か。
ともかく何の気まぐれか、いらん正義感を発揮したいなほは、まるで少年を確実に殺そうとした連続攻撃を代わりにもらって、最後の爆発で結構な深手を受け気絶したはずだった。
普通は死んだと思うようなダメージの連続だが、いなほは自分が事故などというしょうもないことで死ぬなど考えもしなかった。せいぜい『もしかしたら骨折れたかもな』程度の認識である。
だが流石の彼も目覚めたらまるで自分に怪我がなかったということには驚きを隠せなかった。しかも世界各国のあらゆる文字と、地球にはない文字がいくつも浮かんだ空間にいて、目の前にそんな空間に似合わない革製の豪華なソファーに座る、ソファーに似合わないぼろぼろの黒いマントをまとった陰鬱な面持ちの男がいるとなれば、自分の正気を疑うのも致し方ないだろう。
「あー……なんだ、これ」
ガシガシと茶色に染めすぎて痛んだ髪を掻き毟り、いなほは男の前にまで歩み出た。
「で? こんなとこに連れ込んだのはアンタか?」
「……」
男を見下ろすが、男はいなほを見上げて視線を交わすだけで、何かを言おうとはしない。ムカつく態度にいなほの頬が引きつる。ガキの頃から喧嘩っぱやく、生粋のヤンキーとして生きてきたいなほにとって、自分を無視するような態度は、すなわち喧嘩の合図に他ならなかった。ただでさえ訳のわからない場所にいるのだ。いなほの沸点はすでに振りきれていた。
「テメ──」
「例えば、水が上から下に流れるがごとき覆しようのない必然、それが運命だ」
その胸倉に掴みかかろうとしたタイミングで、男が口を開いた。ボソボソした声の癖に、何故か沁み渡るようにいなほの心に響く。出鼻を挫かれ、しかも訳分からない話をしだしたとなれば、いなほの動きが止まるのも仕方あるまい。
内心の苛立ちをぶつけるタイミングを逃したいなほは、釈然としない面持ちで、男の隣の空いてる場所に大股開きで座った。男の座るスペースすら侵略して座るのはせめてもの意趣返しか。だが男は特に気にしたそぶりもみせず、淡々と、やはり陰鬱なまま口を開く。
「だが、そんな必然を覆す者がいる。因果の否定、絶対運命の改変。激流に抗う矛盾存在。しかしその資格を持つ者が、誰しも運命を覆せる力を持つわけではない。大切なのは不倒不屈の強靭な鋼の意志。これがなければ、資格を持とうが因果の否定を行うことができない。現にこれまで、資格の保有者で運命を覆した者は一人しかいなかった。お前で二人になったがな」
「へー」
話している内容など、県内最底辺の高校にぎりぎり合格した程度のいなほにわかるわけがない。いなほは男の言葉は話半分に、周りの増えたり消えたりを繰り返す幾つもの文字を目で追うことに集中していた。
だが構わず男は話を続ける。陰鬱なまま、しかしどこか願うようなその口調。
「お前はあの少年の死の運命をその意志のみで打ち壊した。それで私は確信したよ。お前こそが私の望んだ者なのだと。だからお前をこちらに引き寄せたのだ」
「……おい、そりゃ」
少年とは、あの事故で庇った少年のことだろう。言ってることはさっぱりだが、知っていることならば興味はある。
「安心しろ。少年の因果の鎖は生存の方向に切り換わった。矛盾を嫌う世界の選択はそうらしい」
「なんだ、つまりガキは死んでないのか?」
「あぁ。お前がそうした」
「……けっ、しぶといガキだぜ」
悪態とは裏腹に、いなほの表情はどこか穏やかだ。口は悪いが、心より少年の安否がわかって安心しているのが見て取れた。
「……お前を待っていた」
安堵するいなほに、不意にそんなことを男が呟いた。いなほは眉をひそめる。当然だ、いなほには男との接点がまるでないのだから。
「先に言っておく。お前はあの世界では死んだことになっている」
「道理が通らねぇなぁ。俺ァこの通り無傷でピンピンしてんぜ?」
「怪我のほうはここに至る途中で私が治しておいた。軽い火傷と右肩の脱臼と骨にひびが入った程度だったのもあるが、専門外でも存外、何とでもなるものだな」
「つまりテメェが俺の怪我を治したってのか?」
「あぁ、そしてその代わりに、お前にはこちらの世界に来てもらう。後は好きにやれ」
唐突な話に、いなほは言葉を失った。何を言えばいいのかもわからず、そもそもやはり言ってる意味がわからない。
当然、男はそのまま続ける。語りだすその顔は、僅かな安堵が現れていた。
「さて、今更だが自己紹介と別れの挨拶をしよう。私は第十一位『帰結運命』。名前はレコード・ゼロ。勝手にこちらに来てもらう上に身勝手な願いだが、どうか一つだけ私の願いを聞いてほしい」
突如、謎の空間に光が満ちていく。いなほはその急な変化を、何故か当たり前のように受け入れていた。思えばそうだ、こいつの話は理解はできないし意味不明だが、何故か『受け入れられる』。
「おう。何だ」
だからいなほは、不思議と素直に男、レコードの願いを聞き入れようと思った。光に包まれ、何もかもが白に染められていくが、心中は穏やかなものだ。いつの間にかソファーに座っている感触もなくなり、自身の肉体も曖昧になっていく。
それでも、その陰鬱な言葉は、
「世界の運命を、打ち砕いてくれ」
どうしてか、頭にではなく、心の芯に重く響き渡った。
「……」
光が消えると、文字が浮かぶ部屋の景色が戻ってきた。果ての見えない広大な空間にただ一つ置かれたソファーには、先程まで座っていたいなほの姿はない。変わらず陰鬱な面持ちのレコードがただ一人。次々に浮かんでは消えていく文字群を見据えている。
「さよなら、いなほ。何、君がそのまま不屈なら、必ずまた出会えるさ」
紡ぐ言葉を聞く者はいない。だがそれでも呟くレコードの瞳の奥底には、薄暗い情念の炎が灯っていた。
次回、ヤンキー大地に立つ。