捨てられていたと思っていた私が、家族の絵を描くまでの話
ざまぁ要素は控えめです。よろしくお願いします
私、リディア・アッシュフォードは絵を描き続ける。
三年前、父である公爵から辺境に送られた時から、仕事を終えると、私は決まって絵筆を取った。
与えられた役目などこちらへ送られてからほとんどなくなっていたが、絵だけは私に残る義務のように残り続けた。
「違う……」
私は山の絵を描いたはずなのに、空の色も、木々の影も、自分が見たいものとは別物になってしまった。線もバラバラ。とんだ失敗作だ。
幼い頃からそうだった。花を描けば花には見える。人を描けば人には見えるけれど、どこかおかしい。輪郭が曖昧で、色が濁っていて、見ているものの美しさが、紙の上では死んでしまう。絵画教師は、努力が足りないと言った。父は、才能が無いと言った。
そして、妹のエレナは……。
『私はお姉様の絵、好きですよ』
……なんてことはない。ただの褒め言葉じゃないか。そう自分を説得しようとする。
でも、その言葉を思い出すたび、心がざらつく。
本当にそう思っていたのだろうか。そんなわけがない。エレナは何をやらせてもできた。勉強も、礼儀作法も、音楽も、絵も。同じ教師に教わっているのに、エレナは一度見ただけですぐに理解した。八歳の頃には、大人の画家が描くような精密な人物画を仕上げていた。
『エレナは本当に絵がうまいな。王都の画家に見せても恥ずかしくない』
そして私にはいつもこう言うのだ。
『リディア。お姉さんなんだから、もう少し頑張りなさい』
リディア、リディア、リディア……父から何度も呼ばれた私の名前が、いつの間にか、必要の無い娘という意味に聞こえるようになった。
そして私は十六歳のある日、父の執務室に呼び出された。私はあの時の顔を覚えている。諦めと落胆の混じったあの表情。
『お前も、疲れただろう……』
ポキリ、という音がした。
「……失敗作」
真っ二つになった細筆はまるで私の心のようだと思った。
◇
「素晴らしい絵ですね……」
ある日、領地の少女が私の絵を見てそう言った。素晴らしいわけなんかない、線もガタガタ、構図もめちゃくちゃ。こんなの落第点だ。では、なぜこの子は私のことを褒めるのか。それは、簡単な理由だ。
ここには美術館も絵画教室もありはしない。芸術知識のある人間などここにはいないのだ。だから私の絵を見ても、それがうまいのか下手なのか判断できる人はいない。
「あら、そう?」
でも、久しぶりに私は笑顔になれた。褒められたことなど無い私が、誰かに褒めてもらえる。それだけで少しだけ絵を描いていてもいいような気がした。
「じゃあ、あなたの絵を描いてあげる」
少女は嬉しそうな顔をしていた。私の絵を褒めてくれたから、この子に何かしてあげたいと思った。
少女を座らせて、じっと私は見つめる。
絵は観察から始まる。細部まで、その人の内面まで描くように。描くのは苦手だが、対象物を見ることは昔から得意だった。
「ん?」
彼女は嬉々とした笑みを浮かべていた。だが、それと同時に私はその笑顔に一点の曇りを感じとった。本当は元気がなく、無理に振る舞っているような気がする。
……そうだ、表情筋が固いんだ。口元が妙につり上がっている。自然に笑うときはこんなにはならないはずだ。
だから私は違和感があると思ったんだ。
「……何か、嫌なことでもあったの?」
その言葉に、ぴたりと少女の表情が固まった。
「探したぞ、エマ!!」
突如背後から聞こえてきた怒号に振り返ると、一人の壮年の男が息を切らしながら走ってきた。
「黙って家を出たりして、何を考えてるんだお前は!」
怒っているようにしか聞こえない。私は、その声を聞いて父を思い出した。
「来ないで!!」
その顔は、さっきまでとはまるで違っていた。歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、全身を強張らせている。
でもなぜだろうか。父親もエマも怒っている。だがなぜだろう。私には、怒り以外の複雑な感情も見える気がする。この思いを、本心を、どうやったら二人に知らせることが出来るだろうか。
「二人とも、待ちなさい」
そして、私は筆を取った。
◇
「あ、あの……領主様?」
「いいから、動かないで。表情もそのまま」
二人をその場に固まらせ、私はキャンバスに向かう。
私はこの二人の表情に隠された感情を追求したかった。
これを描くことで自分が小さな頃から感じた違和感が何かが分かる気がした。
夕日に照らされる二人。
父は散々走ってきたのか、疲れ果てた様子でいる。怖い顔をしているが、その殺気は不思議と伝わってこない。
エマも怒りの表情をしているが、私に見えるのは悲しみの色。
何だ......?何だ……?何がおかしい?どうしてもその正体が分からない。
『リディアはどうしてうまく出来ないんだ……』
父の否定する声が聞こえる。だめだ。出来ない気がする。私には今日も何も描けない。でも、負けるな。逃げるな。描けなければこの二人の仲は一生このままだ。
この子のために何かしてあげたい。そう思ったんだろ!!
表情?動き?
二人を見るんだ。細かな動きを見落とすな。
その時、少女が父に目をそらした。
知っている。それは、三年前、父に呼び出され、その顔を見ることすら怖くて、同じように目をそらした私とそっくりだった。行ける!これなら……。
「できたわ」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
そこに描かれているのは、追いかける父と後ずさる娘の絵。先ほどの状態を書いただけだ。でも違うのは色。娘だけが悲しみの青によって構成されている。私が理解できたのはそれだけだった。
「顔は飾りに過ぎません。これはエマさん、私があなたから感じた色です。お互い言わないと分からないこともあります。だから、一度ちゃんと話してみたらどうでしょうか」
そう言われて、父と娘の表情はだんだんと緩んでいった。
長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開く父。
「……お前なら、俺より立派な教師になれると思っていた。だから、もっとできると思っていた。なのに、お前が諦めたような顔をするから……つい、厳しく言ってしまった」
エマが目を見開く。
「でも私、教えるのが下手だし、お父さんにも迷惑かけて……」
父親は首を振った。
「そんなこと気にしなくていい。お前は子供と話すのが好きだろう?教え方なんてこれから覚えればいい。お前のやり方で頑張ればいいんだ」
エマの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……そんなの、もっと早く言ってよ」
二人の間に、ようやく張りつめていたものがほどけていく。
「領主様、こんな素晴らしい絵で、私たちを取り持ってくれてありがとうございました」
そう言って二人は去って行った。
素晴らしい?いや、まったくひどい絵だ。顔なんてどっちが娘か父か分からない。それでも、色だけは初めて本質を捉えた気がする。怒っているように見えて、その奥には焦りがある。突き放しているように見えて、その奥には悲しみがある。
私は初めて見えたものを描けたのだ。
「家族か……」
うらやましいと思った。私もあんな風に父に何かを褒められたかった。怒られてばかりじゃなく、喜んだ顔を見たかった。
私はまた筆を取った。
いつも怒られてばかりの怖い家族ではなく、私が夢にまで見た欲しかったもの。それを描きたいと思った。だけど、何度も何度も描いても、その構図だけはどうしても私には思いつかなかった。父がいて、母がいて、子供がいて、そんな当たり前の構図はいくらでも思いつく。
描いても描いても、思いつくのは嫌なものばかり。
「あら、もうこんな時間」
結局私は風景画を一枚描いてから屋敷に戻ることにした。
◇
辺境へ送られてから、七年が過ぎた。
私ももう二十三歳になっていた。仕事の合間に、相も変わらず絵ばっかり描いていた。
「マルクと申します」
今日は王都からのお客さんを描いている。最近はこういう人も増えてきた。
「いやぁ、この街もすごく変わりましたねぇ。本当に立派な街になったもんだ。郊外の奇跡、なんて呼ぶ人もいるんですよ」
「それはよかったですわ」
あの親子の一件から、私のところに悩みを相談しに来る人が少しずつ増えていった。
本人たちにも分からない心の痛みを描くと、不思議なくらい人が変わる。人と人との間にあったわだかまりが少しずつ消えていくと、この街も少しずつ変わっていった。私が何か特別なことをしたつもりはない。
でも褒められると気分がいい。
だが、その直後発された言葉で私はすぐ正気に戻ってしまった。
「王都では最近、アッシュフォード公爵家の令嬢の話でもちきりですよ。社交界に出てきたばかりだというのに、すっかり注目の的だそうです。聡明で、礼儀作法にも長けていて……『今代きっての逸材』なんて呼ぶ人までいるとか」
「へ、へえ……」
私は筆を動かしながら、今しがた、ふっと湧いた黒い感情に気取られないよう、何気なく相槌を打った。
エレナ。
また胸の奥がざわつく。
「なにやら、最近きな臭い話を聞きますねぇ……国王が戦争を進めている、だとか。実際に武器やら馬やらが減っているんですよ。酒場では持ちきりの噂です」
しかしこのマルクと言う男。意外に情報通だ。
王都にいる人間なら、辺境の小さな領地の話など普通は知らないはず。何よりおかしいのは彼の身なりだ。明らかに普通の人とは違う服装。埃一つ無い綺麗すぎるシャツにやけに整った髪型。肌のきめだって平民にしては細かすぎる。
だとしたら……。
「むむむ……」
マルクが私の描いている絵をのぞき込んだ。
「リディア様の絵は確かに考えを読まれているような気がしますね……」
精密に描くという点ではあまり上手くならなかったものの、内面を描くという点において、私は上達した。
人々の心の機微を理解したことで、その人の顔だけではなく、奥底に眠るその人の本当の表情まで見ることが出来るようになったからだ。
そして今、目の前にいるマルクを描いていて気づいた。今回、私が描いたのはいかにも情報通で暗そうで意地の悪い男の絵ではない。むしろ、こちらを静かに伺う気品高い者の絵。それを描いた。
すべてを知りつつ、情報を小出しにして、相手の出方を見る。逆に私が探られているようであった。
私はことり、と筆を置いた。
「……あなた、普通の人じゃないでしょう」
そのとき、男の表情がふわりとほどけた。
「おや、バレてしまいましたか。さすがはリディア様。卓越した観察眼を持つと名高いお方だ」
そう言われると少し照れる。
「リディア様に重要な話があってここへ参ったのですが、少しあなたを試してしまいました。申し訳ございません」
丁重に頭を下げる男。重要な話?一体私に何の用があるというのだろう。
「実は私、国王陛下の命を受けて、各地の情勢を調べているものでして」
マルクは少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「ここだけの話ですが、……先ほどの王都の噂はすべて本当のことなのです。ここ数ヶ月、王都で軍備に関する動きが増えている。武器、兵糧、軍馬、その買い付けが以前とは比べものにならないほど増えています」
「それは……ずいぶんと物騒な話ね」
ようやく、話の筋が見えてきた。領主の私に伝えに来たというところかしら。
税が高くなる?それとも兵を出せという指示?
最悪、領民を避難させる必要があるかもしれない。
「ですが、今回の件には妙なところがあるのです」
しかし、ここにきて男の話は予想とは全く違う方向へと動いた。
「隣国は一切戦争の準備をしていません。むしろ新しい協定を結ぶ話まで進んでいます」
それなら、隣国は戦争を望んでいない。むしろこれから関係を深めようとしているというのが、道理だ。なのに、こちらは武器を買い、兵糧を蓄え、軍馬まで集めている。
「……国王陛下は何をお考えなのかしら」
「このまま戦争が起これば、間違いなく、両方に不幸が訪れる」
マルクは、私の描いた肖像画を見つめた。
「そこで、リディア様にしかお願いできないことがあるのです」
◇
「この度はお招きいただきありがとうございます」
私は深く頭を下げた。……エレナならもっとうまく社交の台詞でも、話せたかもしれないが。
「うむ……」
王は怖い顔をして玉座にたたずんでいた。歓迎されている、という感じではない。
広間には、小娘一人を警戒するには十分すぎる人数。
そして、王の冷たく険しい表情がそれを物語っていた。
「人の心を読める、というのは本当か」
「読める、というほどたいしたものではありません。話や表情の機微から心を察することが出来るといったものです」
本当のことを正直に言ったつもりだが、額のしわはさらに深くなる。
「では、私を見て、何か分かるか?」
突然の問いだった。
私は王の顔を見た。険しい目つき。固く結ばれた口元。深く刻まれた眉間のしわ。
けれど、それだけではない。私は黙って王の目を見る。
マルクさんから教えてもらった戦争の準備をしているという言葉が頭をよぎる。
そして、このやり過ぎなぐらい防備を固めた部屋が多くを物語っている。
王が心を読んで教えて欲しいといった。それは、側近たちには言えないことを私に言わせたいのかもしれない。
私は、意を決して伝えた。
「陛下は、何かを恐れていらっしゃるのではないですか」
広間の空気が凍った。
「無礼だぞ!」
側近の一人が声を上げる。
けれど、王は手を上げ、それを制した。
「怒っている人の顔とは違います。内側へと向かう、疑いの顔」
「……よく見ているな」
その声には、先ほどまでの冷たさとは違うものがあった。
驚きと、わずかな期待。
王はしばらく黙ったあと、静かに口を開いた。
「余は、自分が何を恐れているのか分からぬ」
私は息を呑んだ。
「だから、お前を呼んだ」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
国王は、自分自身の心を知りたがっている。
けれど、それを他人に知られることすら、恐れているのだ。
「絵を描け、リディア」
王はそう言った。
その瞬間、私は初めて理解した。
この人が欲しいのは、立派な肖像画ではない。
自分自身ですら分からない、自分の姿なのだ。
◇
「民の間では、同盟国に戦争をする準備をしているのではないか、と言う話も上がっておりますが……」
私の言葉に場がまたざわついた。
言ってやる。みんなが言えないことをこの人は言って欲しいのだ。
ただ、王は怒るでもなく、手を上げて場を制した。
「……疑問を感じるところもある、とだけ言っておこう」
王はただ、そう言った。はっきりとは言えない。それは王という重い立場からだろうか。
私が最初に描いたのは王冠だった。
派手さとは違う、大きく、重い王冠。それがまるで王の頭にずしりとのしかかっているように見えた。
「向こうが裏切っていると、そういった確信があるのですか?」
私は次の言葉を提示した。
「分からん」
分からん。私はその言葉を強く反芻した。
王は、本当に分からない表情をしている。何かを隠している訳でもない、苦しく険しい表情。
間違いない。これだ。これがこの人の真の姿だ。
確信はない。だが、疑っていれば自分を守れる。王はずっとそう思い込んできた。
期待すれば傷つく。信じられれば裏切られる。
ふと、エレナの言葉を信用できない私も王と同じなのかもしれない。と思った。
次々に構図が定まっていく。王の絵、遠くの見えない何かを見つめている悲しげな表情。そして、剣を持つ震える手。
そして私は最後の一言を発した。
「本当は、誰かを信じたいのではありませんか?」
王の目がわずかに揺れた。
広間にいる者たちは、息を呑んでいる。
王は何も言わなかった。だが、その沈黙だけで十分だった。
筆がさらに進んでいく。ほどなくして、絵が完成した。
「これは、余の絵なのか?」
そう。全く違う。私は絵が下手だ。顔の形も体の細かなところも、きっと宮廷画家の方が立派に描ける。
それでも……。
王冠の重さ、剣を握る手。
そしてなにより、剣の先には何もいない。空虚な場所を悲しそうに見つめる王。
「なぜ、余は悲しそうな顔をしているのだ」
だが、私は王の気持ちだけを的確に表現したつもりだ。
「きっと、剣を握るしかないからだと思います、平和のために、信じることをやめて、すべてを壊そうとしている。だから悲しいのだと思います」
王は答えなかった。
ただ、絵の中の自分を見つめていた。
そこから少しして、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「……父が、先王が、誅殺されたのは、余がまだ若い頃であった」
王の指が、玉座の肘掛けをゆっくりと撫でる。
「父は人をよく信用した。側近を信じ、臣下を信じ、隣国との盟約も信じた」
その声には、かすかな苦味が混じっていた。
「そして、最も信じていた男に殺された」
広間の空気が重くなる。
「その日から、余は思ったのだ。人は醜い、決して信用してはならん、と」
王はひどく苦痛な顔をした。それは怒りに満ちた、過去を回想する顔。
「確信はない。だが、父のように裏切られたらどうする。儂の誤り一つで国は滅ぶ」
「……だからその前に攻める、と」
王は何も言わなかった。いや、言えないのだろう。
でも、もし王が裏切りを恐れるのであれば、エレナの言葉を信用できない私とよく似ているのではないだろうか。エレナはそんな私に対してどう思っていただろうか……。そう思いつつ、王に思いの丈を申し上げる。
「相手から見れば、どう見えるでしょうか。隣国からすれば、何の理由もなく軍を集められ、武器を買われ、兵を国境へ向けられている」
私は完成した絵を見つめた。
「こちらが裏切られる前に、こちらを裏切ろうとしている。そう思うのではないでしょうか」
王の顔から、表情が消えた。やがて、小さく息を吐く。
「もう良い。下がれ」
その言葉は、王のものとは思えないほど弱かった。
◇
それから数日後、私は本家に呼び出された。
再び見る邸宅は昔と変わらず、栄えていた。
父とエレナがうまく仕事を切り盛りしているのだろう。
「……緊張、してらっしゃいますよね」
侍女の一人が心配した面持ちをする。
私は自分の手を見る。確かに指先に力が入っていた。父と、エレナに会わなくては。
昔の私なら、二人の顔を見るだけで、自分がどう思われているのかばかりを気にしていた。
嫌われている。見下されている。馬鹿にされている。そう決めつけていた。
でも今は、その人の中にあるものを、ちゃんと見ようとする。
私は、それができるようになった。
だからこそ。本当の父がどんな人間なのか。本当のエレナが私をどう思っていたのか。
真っ直ぐ見なければいけない。
行かなくては。
◇
私は父の書斎を開けた。
「……リディア」
七年ぶりに見た父の顔は、やつれていた。
白髪も増えた気がする。
「ずいぶんと変わったな」
この台詞も昔なら全く違う意味に捉えていたかもしれない。
田舎者になってしまったな、とか。
うちの娘らしくないな、とか。
しかし、父の目は非常に落ち着いている、むしろ納得や、安堵のようなものに見えた。
「絵描きとしての活躍は儂の所にも届いているぞ」
「ご存じだったのですか」
「国王陛下の肖像を描いたのなら、知らない方がおかしいだろう」
強い言い方だった。知っている、と言えばいいだけなのに、相変わらず不器用な男だ。
「王都では軍備の縮小が始まったと聞いている。隣国との交渉も再開されたそうだ。これで結果的に多くの血が流れずに済んだ」
良かった。国王は分かってくれたんだ。疑ったまま攻めてしまえば、きっと取り返しのつかないことになっていた。裏切られたとしても、それはそれ。疑ったまま終わるなんて悲しい。きっとあれでいい。私はそう思った。
そして、父は真っ直ぐ私を見た。いつも険しいその表情が、少しだけ緩んだような気がした。私の実家は天下の公爵家。王都で起こっていることで知らないことなどきっと無いだろう。
でも、なんか、今すぐここを出てしまいたい……叱られるはずなんかないのに。
やがて、父はその言葉を口にした。
「……感謝する」
……。
その言葉に一瞬、私は思考を失った。
別に、感謝の言葉が欲しくてやったのではない。必要に駆られてやっただけだ。
でも……。
いつ以来だろうか。いや、これが初めてかもしれない。
褒められたなんてことは一度も無かったかもしれない。
だから、胸の奥の、ずっと昔に置き去りにした何かが、ほんの少しだけ動いた。
「ありがとうございます……!」
そんな私は、きっと涙ですごい顔をしていただろう。
ようやく認めてもらえた。そんな感覚がどうしようもなく嬉しかった。
「……あと、お前には謝らなければならないことがあるな」
そして、父の顔は曇っていった。それは後悔に満ちた表情。
私は何の話をするのかをなんとなく察した。
「七年前、儂はお前を無能だと決めつけ、辺境へと送った」
その言葉を聞いた瞬間、また、子供時代に聞いたあの声がよみがえる。
『お前にはもう任せられる仕事がない』
『辺境へ行って、絵でも描いているといい』
私は何も言わなかった。
「お前に何もなかったのではない。ただ私がお前に何があるのかを知ろうとしてやれなかっただけなのだ」
父は、ゆっくりと言葉を続けた。
「エレナにできることと、お前にできないことばかりを見ていた」
その言葉が、胸の奥に落ちてくる。
「絵もそうだ。儂は、お前の絵をどれだけ正確に描けているか、それだけで見ていた」
父の目には、後悔があった。
「もしあの頃の儂が、お前の絵をもっとちゃんと見ていたら」
言葉を詰まらせながら、丁寧に言葉を紡ぐ父。そこからは裏も疑念も感じ取れなかった。
「お前が必死に何を見ようとしていたのか気づけたのかもしれなかったな」
ただ、私にはまだ残る疑念がある。私が成功したからそう言っているだけなのでは……と。
でもそれは考えないようにしていた。
そんな私を見て、父は見透かすように言った。
「……これはお前が国王陛下のために役に立ったからではない。お前が多くの人々を助け、領地を発展させたからでもない。ただ、儂は儂自身の間違いにようやく気づいた。だからこそだ」
はっと、気づかされた。私のお客さんはこういう気持ちなのだ、と。
最後の最後に、人の心を読む画家たる私がその本心を見抜かれたのだった。
「知らないはずないか……」
「ああ、お前のことは逐一、侍女から聞いていた」
そして、父は頭を下げた。
「許してくれ、とは言わん。だが、これが今できる儂の謝罪だ」
それは信じられない光景であった。一生無いだろうと思ったのに。
でも、あれほど聞きたかった謝罪なのに、今は怒りよりも別の感情がわいてくる。
「私は辺境に行って、自由に絵と向き合えたから、今の自分があると思います。だから辺境に行ったことを悪かったとは思っていません」
父は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「昔のことをすぐに忘れるというのはできません。許すことも……今はまだ出来ないと思います」
それでも、私は父を見つめた。
「ですが、そのお言葉は確かに受け取りました」
それを聞いた父はなぜか憑きものが落ちたような顔をしていた。私も似たような気分であった。
いつも心の底にあった、その言葉は私の中から薄れようとしていた。
「顔を上げてください」
◇
廊下を歩いているとき、妹にすれ違った。
「……お姉様?」
七年ぶりに聞く声に足が止まった。でも、正直、なんか振り向きたくなかった。
エレナを見るのはまぶしすぎて、どうしても真っ直ぐ見られなかった。
「久しぶりね。お姉様」
相変わらず、完璧な礼儀作法。本当に、昔と変わらない。
「家を継いだんですってね。貴族の方が言ってたわ」
「……ええ」
何を話せばいいのか分からなかった。昔の私は、エレナの顔を見るだけで考えてしまっていた。私のことを見下している。とか、本当は私の絵なんて好きじゃなかった。私がいなくなって、せいせいしたと思っている。などとと思ってしまったかもしれない。
でも、今の私は違う。エレナは笑っている。けれど、その笑顔の奥には、わずかな震えがあった。
「あなた、ずっと寂しかったの?」
その瞬間、エレナの笑顔が崩れた。
「……どうして分かるんですか」
「絵を描いてきたから」
エレナはしばらく黙っていた。そして、小さく笑った。
「お姉様は昔から、変なところだけ鋭かったですよね」
「そ、そうかしら」
私は一瞬目をそらした。
苦手だ。エレナはなんだか本心が見えにくい。それは未だに私自身にもどかしさがあり、あまり顔を見ることができないからだろう。
それに今日はお父様とも会ったし、すごく疲れた……。
「じゃあ……」
帰ろうとしたその時、突然手を強く握られた。
「……私、お姉様が嫌いだったことなんて、一度もありません!」
思わず目を見開く。エレナは、私の手を握ったまま、真っ直ぐこちらを見ていた。その顔には、もう貴族令嬢らしい完璧な笑みはなかった。
ただ、昔と変わらない、私の大好きな妹の顔だった。
「本当は……行って欲しくなんかなかったんです。お姉様がいなくなるって聞いたとき、本当は嫌だった。横でずっと姉様の絵を見ていたかった。でも姉様の心が日に日に遠ざかって行ってしまうから……」
私は目を見開いた。私も画家としてそこそこやっている。なんとなく、嘘ではないんだろうなというのは分かっていた。
こうしてはっきり言われてみると、わずかに残っていた疑心が吹き飛ぶ。
自分が愛される価値のない人間だと思っていたから、誰かの優しさまで信じられなかったのだ。
「そんな卑屈なお姉様が嫌いでした」
嫌いだったことなど無いはずなのに、嫌い。完璧なはずの妹から出る、意味不明な言葉。
「……どっちなのよ」
私には、それだけ言うのが精一杯だった。
エレナなら……。
そのとき、ふと、悪い癖が出てきた。
……いや、もう大丈夫だ。本人が目の前にいるのだから。
エレナは絵が見たいと言っていた。なら、私に出来ることは一つしか無い。
◇
その夜。
私は父とエレナに頼んで、鏡の前で三人で並んでもらった。
エレナは楽しそうな顔をしていた。
「お姉様の絵がまた見れるなんて……」
「人の心を読む、といわれているそうだな。確かに……」
父はまじまじと私の手つきを眺めていた。
不器用で言葉が足りなくて、私は何度も傷ついた。けれど今は違う。昔よりしわが増えた険しい顔。その目の奥には、かすかな後悔。そして愛情。愛されているとは思わなかった。
だが、実家に帰って確信した。
あの険しい顔の奥にあったのは、無関心ではなかった。言葉にすることが出来なかっただけの後悔と愛情だった。
エレナは……この子は昔と変わらないわね。
昔はこの違和感を説明できなかった。愛されているなんて微塵も思えなかった。だから私は馬鹿にされていると思った。ただ、目を背けているだけだった。まさに、裏切られる前に同盟国を斬ろうとするあの国王のように。
私はただ、筆を走らせる。
書きたいものは何でも書いてきた。山も、花も、人の心も描けた。
でも、家族は今までで一番難しい絵だ。
描けなかった。私には家族なんて想像できなかった。いや、したくもなかったのかもしれない。もし描いてみて、自分の想像どおりだったら。本当に愛されていなかったら。
そんなことを恐れていた。
「完成しました」
二人に絵を見せる。
父はただ、私の努力の結晶をまじまじと見ていた。
エレナはやっと見れた、と少し目を潤ませていた。
自分でも一心不乱で何を描いていたのか、あまり覚えていない。
本当に、相変わらず下手だ。色もムラがあるし、輪郭もなんかガタガタ。絵描きとしてはダメダメな絵だ。
そこに描かれていたのは、完璧な家族ではなかった。
父も、エレナも、私も。みんな少し不器用で、少し寂しくて、それでも互いを想っている。
それが、今の私にはちゃんと見えた。
私は筆を置いた。
結局、私はこの人たちに愛されていたのだ。
「……帰ってきて、よかった」
その景色は、昔の私にはぼやけて見えた。でも今は、どこまでも、きれいに鮮明に映っていた。
ああ、やっと描けた。
『家族』
終
お読みいただきありがとうございました!!




