1℃
半年後の金曜日、十九時。
天満の路地裏。
居酒屋『おおきに』の暖簾は、今夜もくたびれた色で客を迎えていた。
「……ここ、やっぱり日当たりが微妙です。却下」
「いや、俺は朝からそんなに太陽を浴びたいタイプじゃないんだが」
画面をスクロールする。
「それに、こっちは少し予算オーバーじゃないか?」
カウンターの端。
いつもの席。
二人の間に置かれているのは、ビールでも厚揚げでもなくタブレットだった。
画面には不動産検索サイト。
スモウ。
2LDK・駅徒歩10分圏内
そんな条件が並んでいる。
「予算なんて、私たちの合算で考えれば端数みたいなものです」
視線を上げる。
「……昇進したんでしょう?」
「それくらいの甲斐性、見せてください」
向かいの男は苦笑した。
「昇進って言っても係長止まりだよ」
グラスを軽く持ち上げる。
「君のボーナスの方がよっぽど夢がある」
半年という時間は、確実に何かを変えていた。
かつて自分を「しがない」と呼んでいた男の顔から、その卑屈さは消えている。
代わりにあるのは、仕事に慣れた中堅社員の落ち着きだった。
DXチームの忙しさは相変わらずだ。
ただ今の彼は、それをもう泥水とは呼ばない。
自分のフィールドだと笑えるようになっていた。
⸻
「……そもそも」
グラスの氷をいじりながら彼女が言う。
「どうして私の更新時期に合わせて、あなたまで引っ越すなんて言い出したんですか」
「君が言ったんだろ」
肩をすくめる。
「一人で飲む酒が、前より味気ないって」
少し間を置く。
「それなら、飲む相手がいた方がいい」
「……それに」
タブレットを指で弾く。
「帰る方向が同じなら効率良いだろ」
「……そうですね」
即答だった。
「私の部屋」
冷たい視線。
「あなたが荷物を置いて狭く感じていたし」
小さく鼻で笑う。
「これからもっと増えそうだったし」
あの夜。
地下鉄のホームから続いた流れは、静かに境界線を越えた。
だが—
甘い言葉はない。
告白もない。
ただ、
互いの耐久力と不器用さ知った結果、
一緒にいる方が合理的だと分かった。
それだけだった。
「……ここ」
タブレットを指差す。
「キッチンが広いです」
メゾネットタイプの築浅マンションだった。
「いいな」
頷く。
「ここなら、君が仕事で荒れて帰ってきても、俺が逃げ込むスペースがある」
「逃がしませんよ」
即答だった。
少しだけ間を置いて続ける。
「朝まで付き合ってもらいます」
ほんの一瞬。
グラスの縁で口元を隠しながら、微かに笑った。
天満の喧騒の中で、
その表情を知っているのは彼だけだった。
変わるもの、変わらないもの
「戦友さん」
向かいの男は少し笑った。
「これからもよろしく」
カチン。
乾いた音がカウンターに響く。
二人の間にあった温度差は、消えたわけではない。
冷静な女。
不器用な男。
ただ今は、互いの熱を奪い合うのではなく、
同じ温度で並んでいる。
「次は」
彼女が言う。
「引っ越しの祝杯ですね」
「その前に」
苦笑する。
「内見だな」
店を出ると、冷たい夜風が二人の頬を撫でた。
駅へ向かう人混みの中、
凛は自然に藤井の腕を掴む。
離れないように、同じ歩幅で夜の街を歩いていく。
天満の赤提灯が、背中で小さく揺れていた。
お読みいただきありがとうございました!
これにて完結です!
"あの時"の話しを0℃として投稿出来たらと思っています!




