2℃
金曜日、二十時。
居酒屋『おおきに』のカウンターで、藤井は久しぶりに「ただの酒」を飲んでいた。
逃げ場としての酒でも、
沈まないための酒でもない。
ただ一日の終わりに、喉を潤すための一杯。
隣では、凛が揚げたての厚揚げを小さく切り分けている。
「……終わったんですね。例のプロジェクト」
「ああ。どうにかね」
藤井はビールを一口飲んだ。
「運用に乗せるところまで来た。あとは若い連中が回していくよ」
少しだけ笑う。
「自分でも驚いてる。こんな気分で酒を飲める日が来るとは思わなかった」
思ったより熱かったのか、凛は口を押さえながら相槌を打つ。
「いいじゃないですか」
ちらりと視線を上げる。
「エラ呼吸から、やっと肺呼吸に変わった感じですね」
相変わらずの言い方だ。
だが声には、以前のような棘がない。
「それ、褒めてるのか?」
「半分くらいは」
凛はまた厚揚げを口に運んだ。
少しして、思い出したように言う。
「……藤井さん」
「うん?」
「仕事が一段落したなら、次は“本気で遊ぶ”番ですよ」
藤井は眉を上げた。
「本気で?」
「ええ」
凛はさらりと言う。
「日曜日、空けておいてください」
「……急だな」
「予定あります?」
「ないけど」
「じゃあ決まりですね」
そう言ってビールを飲む。
「たまには潮風でも浴びましょう。天満の澱んだ匂いじゃない新鮮な空気を吸わないと」
少しだけ口元を緩める。
「またすぐ、ただのおじさんに戻りますよ」
⸻
日曜日。
二人はハーバーランドにあるクラフトビールの店にいた。
白いテラス席。
光を跳ね返す海。
ゆるい潮風。
タンクトップとパラシュートパンツ、デニムシャツを肩掛して。
凛は都会とは別の光をまとっていた。
そして、その手には大きなパイントグラスがある。
佐藤は苦笑する。
「昼から飲むビールってさ」
一口飲む。
「どうしてこう、背徳感と幸福感が同時に来るんだろうな」
凛はサングラス越しにちらりと見る。
「背徳感?」
小さく鼻で笑った。
「それは無能な人が抱く感情です」
「辛辣だな」
「私たちは働いたんです」
グラスを軽く持ち上げる。
「これくらい当然の報酬でしょう」
それから二人はゆっくり話をした。
仕事の話。
若いチームのこと。
凛のプロジェクトのこと。
そして—
子供の頃の夢。
嫌いな食べ物。
どうでもいい昔話。
気づけば会話は自然に続いていた。
最初に『おおきに』で顔を合わせた頃。
二人の間には常に緊張があった。
温度差。距離。警戒。
だが今は違う。
空気が少し、柔らかい。
凛の横顔も、どこか穏やかだった。
夜。
都内に戻る頃には、二人とも程よく酔っていた。
地下鉄のホーム。
ここで別れる。
それがいつもの流れだった。
「……今日はありがとう」
藤井が言う。
「いい休日だった」
帰ろうとした、その時。
「藤井さん」
呼び止める声。
凛はホームの柱にもたれていた。
瞳が、少しだけ潤んで見える。
酒のせいか。
それとも夜の湿度のせいか。
「……私」
凛が言う。
「まだ飲み足りないんです」
藤井は足を止める。
「でも」
凛は続けた。
「もう騒がしい店に行く気分じゃないの」
少しの沈黙。
そして、淡々と。
「私の家、駅から近いんです」
視線は逸らさない。
「来ませんか」
⸻
藤井の心臓が、一度だけ大きく鳴った。
三十五歳。
ついこの前まで、泥水の中でもがいていた男だ。
一瞬だけ、躊躇がよぎる。
だが凛の目には、余計なものが何もない。
誘いでも。
試しでも。
駆け引きでもない。
ただ、この夜をもう少し続けたい。
そんな静かな意志だけがあった。
藤井は小さく息を吐いた。
「……ああ」
凛は一瞬だけ黙る。
それから、
「……ふん」
いつもの調子で言った。
「女に誘わせるなんて」
そう言って歩き出す。
背中は相変わらずクールだ。
ただ、歩く速度は少しだけ遅い。
隣に並びやすいくらいに。
二人は並んで、夜の街へ消えていった。
居酒屋のカウンターから始まった
温度差のある関係は、
いま、
静かな夜の扉の向こうへ進もうとしていた。
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