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温度差のあるふたり  作者: 絵夢


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8/10

2℃

金曜日、二十時。

居酒屋『おおきに』のカウンターで、藤井は久しぶりに「ただの酒」を飲んでいた。


逃げ場としての酒でも、

沈まないための酒でもない。


ただ一日の終わりに、喉を潤すための一杯。


隣では、凛が揚げたての厚揚げを小さく切り分けている。


「……終わったんですね。例のプロジェクト」


「ああ。どうにかね」


藤井はビールを一口飲んだ。


「運用に乗せるところまで来た。あとは若い連中が回していくよ」


少しだけ笑う。


「自分でも驚いてる。こんな気分で酒を飲める日が来るとは思わなかった」


思ったより熱かったのか、凛は口を押さえながら相槌を打つ。


「いいじゃないですか」


ちらりと視線を上げる。


「エラ呼吸から、やっと肺呼吸に変わった感じですね」


相変わらずの言い方だ。

だが声には、以前のような棘がない。


「それ、褒めてるのか?」


「半分くらいは」


凛はまた厚揚げを口に運んだ。


少しして、思い出したように言う。


「……藤井さん」


「うん?」


「仕事が一段落したなら、次は“本気で遊ぶ”番ですよ」


藤井は眉を上げた。


「本気で?」


「ええ」


凛はさらりと言う。


「日曜日、空けておいてください」


「……急だな」


「予定あります?」


「ないけど」


「じゃあ決まりですね」


そう言ってビールを飲む。


「たまには潮風でも浴びましょう。天満の澱んだ匂いじゃない新鮮な空気を吸わないと」


少しだけ口元を緩める。


「またすぐ、ただのおじさんに戻りますよ」




日曜日。


二人はハーバーランドにあるクラフトビールの店にいた。


白いテラス席。

光を跳ね返す海。

ゆるい潮風。


タンクトップとパラシュートパンツ、デニムシャツを肩掛して。

凛は都会とは別の光をまとっていた。


そして、その手には大きなパイントグラスがある。


佐藤は苦笑する。


「昼から飲むビールってさ」


一口飲む。


「どうしてこう、背徳感と幸福感が同時に来るんだろうな」


凛はサングラス越しにちらりと見る。


「背徳感?」


小さく鼻で笑った。


「それは無能な人が抱く感情です」


「辛辣だな」


「私たちは働いたんです」


グラスを軽く持ち上げる。


「これくらい当然の報酬でしょう」


それから二人はゆっくり話をした。


仕事の話。

若いチームのこと。

凛のプロジェクトのこと。


そして—


子供の頃の夢。

嫌いな食べ物。

どうでもいい昔話。


気づけば会話は自然に続いていた。


最初に『おおきに』で顔を合わせた頃。

二人の間には常に緊張があった。


温度差。距離。警戒。


だが今は違う。


空気が少し、柔らかい。


凛の横顔も、どこか穏やかだった。




夜。


都内に戻る頃には、二人とも程よく酔っていた。


地下鉄のホーム。


ここで別れる。

それがいつもの流れだった。


「……今日はありがとう」


藤井が言う。


「いい休日だった」


帰ろうとした、その時。


「藤井さん」


呼び止める声。


凛はホームの柱にもたれていた。


瞳が、少しだけ潤んで見える。


酒のせいか。

それとも夜の湿度のせいか。


「……私」


凛が言う。


「まだ飲み足りないんです」


藤井は足を止める。


「でも」


凛は続けた。


「もう騒がしい店に行く気分じゃないの」


少しの沈黙。


そして、淡々と。


「私の家、駅から近いんです」


視線は逸らさない。


「来ませんか」





藤井の心臓が、一度だけ大きく鳴った。


三十五歳。

ついこの前まで、泥水の中でもがいていた男だ。


一瞬だけ、躊躇がよぎる。


だが凛の目には、余計なものが何もない。


誘いでも。

試しでも。

駆け引きでもない。


ただ、この夜をもう少し続けたい。

そんな静かな意志だけがあった。


藤井は小さく息を吐いた。


「……ああ」



凛は一瞬だけ黙る。


それから、


「……ふん」


いつもの調子で言った。


「女に誘わせるなんて」


そう言って歩き出す。


背中は相変わらずクールだ。


ただ、歩く速度は少しだけ遅い。


隣に並びやすいくらいに。


二人は並んで、夜の街へ消えていった。


居酒屋のカウンターから始まった

温度差のある関係は、


いま、


静かな夜の扉の向こうへ進もうとしていた。


お読みいただきありがとうございます!

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