3℃
北新地駅前。
藤井は、少しだけ落ち着かない様子でスマホを見ていた。
いつものくたびれたスーツではなく、ネイビーのジャケットを羽織っている。
慣れない店に行く日は、どうしても背筋が伸びる。
画面には、仕事で聞いたばかりの横文字が並んでいた。
意味を確認する癖が、最近すっかり身についてしまった。
「……こんな時まで勉強ですか」
聞き慣れた声。
振り返ると、凛が立っていた。
黒のロングコート。
耳元で小さく光るシルバーのピアス。
「ごめん。癖みたいなもんでね」
藤井はスマホをしまう。
「……行こうか。」
⸻
店は、本通りから少し入ったビルの3階にあった。
カウンター越しの鉄板で、肉が焼かれている。
油が弾け、炎が一瞬高く上がる。
凛はその光景を眺めて、小さく言った。
「天満とは大違いですね」
誉めているのか、皮肉なのかはよく分からない。
⸻
「……で」
凛がワインを一口飲む。
「DX推進チームとやらは、どうなんですか」
「毎日が戦場だよ」
藤井は苦笑した。
「昨日も若いのとクラウドの件で揉めてね」
鉄板の上で、肉が静かに焼けている。
「スピードでは勝てないからさ。
俺は俺で、昔からやってきた泥臭いやり方を、どうやって仕組みに落とすか考えてる」
グラスを少し傾ける。
「それが、意外と面白い」
凛は黙って聞いていた。
やがて言う。
「……まあ、向いてるんじゃないですか」
ミディアムレアの肉を口に運ぶ。
「藤井さん、そういう無駄な試行錯誤、嫌いじゃなさそうですし」
「褒めてる?」
「半分」
「君は?」
凛は肩をすくめた。
「私の方は相変わらずですよ」
フォークを置く。
「あのミスの件は、全部片付きました。
当初の案より良い結果になったぐらいです」
「おぉ」
「今は私が回してます」
淡々とした声だった。
「流石だね」
「……タダでは転びませんよ」
けれどその表情には、以前のような尖りはなかった。
どこか落ち着いた、自信のようなものがある。
⸻
食事が終わる頃、凛の頬が少しだけ赤くなっていた。
ワインのせいか、店の照明のせいかは分からない。
「……藤井さん」
「ん?」
「今日、誘ってくれて良かったです」
少し間があく。
「あなた見てると」
グラスの縁を指でなぞる。
「必死に新しいことに食らいついてる感じがして」
視線を上げる。
「私の『完璧でいないといけない』っていう意地も、少し楽になる」
藤井は少し笑った。
「それはつまり」
「俺が不器用だから安心するってこと?」
凛は少し考える。
「半分」
グラスを持ち上げる。
「もう半分は」
佐藤のグラスに、そっと寄せた。
触れるか、触れないか微妙な距離。
「そうやって足掻いてる人が隣にいるなら」
静かな声。
「私も、もう少しここで踏ん張ってやろうって思える」
⸻
「ご馳走様でした」
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
駅へ向かう道を並んで歩く。
以前より、少しだけ距離が近い。
凛が前を向いたまま言う。
「……次は、また『おおきに』に戻りましょう」
「あれ?高い肉嫌だった?」
「美味しいですけど」
少しだけ笑う。
「肩が凝ります」
藤井も笑った。
「俺も、あそこの厚揚げの方が落ち着く」
少し考えてから言う。
「じゃあ次は」
「お互い、もう少し面白い話ができる頃に」
凛は小さく頷いた。
駅の改札で足を止める。
「……じゃあ」
少しだけ手を上げる。
「おやすみなさい。藤井さん」
凛はそのまま改札の中へ消えた。
振り返らない。
けれど、その歩き方は少し軽かった。
藤井はしばらく立ったまま、夜の駅前を見ていた。
ポケットのスマホが震える。
凛からの短いメッセージ。
『高いお肉最高に美味しかったです』
藤井は思わず笑った。
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