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温度差のあるふたり  作者: 絵夢


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5/10

5℃

火曜日の二十時。

吸い寄せられるように『おおきに』の暖簾をくぐった。


鞄の中には、昨日届いたばかりの『合格通知』が入っている。


三十五歳になってから始めた勉強だった。

大きな資格ではない。それでも、これほど誇らしい気持ちで酒を飲むのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


「……お」


いつものカウンターの端に、その背中を見つけた。


けれど、今日は何かが違う。


いつもより少しだけ肩が固い。

周囲に、触れられない空気ができている。


「凛さん、奇遇だね。……隣、いいかな」


弾む心を抑えきれず、藤井は少しだけ明るい声を出した。


凛はゆっくりと顔を上げた。

その目は、どこか焦点が定まっていない。


「……ああ、藤井さん。どうぞ」






「実はさ、これ」


藤井は我慢できずに、合格通知のハガキをカウンターに置いた。


「受かったんだ。君に背中を押してもらったおかげだ。今日は俺に奢らせてよ」


満面の笑みだった。


しかし、凛の反応は予想とは真逆だった。


彼女はハガキを一瞥すると、小さく溜息をつき、ジョッキに残っていたハイボールを一気に飲み干した。


「……おめでとうございます。良かったですね」


声に温度がない。

それどころか、どこか刺々しい響きさえあった。


藤井は差し出していたハガキを、少し気まずそうに鞄へ戻した。


「……何か、あった?」


凛は少しだけ間を置いてから言った。


「……別に。ただの、仕事のミスです」


空のジョッキを見つめたまま続ける。


「私が良かれと思ってやったことが全部裏目に出て、チーム全体に迷惑をかけました」


店員にハイボールをもう一杯注文する。


「……さっきまで上司に一時間。『余計なプライドは捨てろ』って」


彼女の指先が、空のジョッキを強く握りしめていた。



「……そんな時もあるよ。君は頑張りすぎるところがあるから」


藤井は慎重に言葉を選んだ。


「ほら、耐久力があるって、自分で言ってたじゃないか。少し休めば——」


「……励まさないでください」


凛が言葉を遮った。


その声は低く、少し震えていた。


「今の私には、藤井さんのその『成功体験』が眩しすぎて、吐き気がするんです」


グラスに視線を落とす。


「……自分が惨めで、勝手に落ち込んでるだけなんですけど」


カウンターに、重苦しい沈黙が降りた。


店内は相変わらず賑やかなのに、この端の席だけが妙に静かだった。


藤井の胸の中にあった高揚感は、ゆっくりとしぼんでいく。


励ましたい。

力になりたい。


けれど、今の自分がどれほど「無神経な成功者」に見えているかも、藤井にはわかっていた。


「……ごめん。俺、浮かれてて」


「……謝らないでください」


凛は小さく首を振る。


「余計に惨めになります」


二杯目のハイボールが置かれる。


凛はグラスを持つと、藤井とは反対の方へ少し体を向けた。


同じ席に座っているのに、二人の間には、いつもより深い溝ができていた。





藤井は注文していた厚揚げに、しばらく箸をつけられずにいた。


自分も昔、こんな夜があったはずだ。

誰かの順調さが、どうしようもなく苦しく見える夜。


それを忘れて、少し浮かれていた自分。


「……凛さん」


藤井は静かに言った。


「俺、明日も仕事なんだ」


凛は振り向かない。


「この試験に受かったからって、何か変わるわけでもない」


ジョッキを持ち上げる。


「相変わらず、しがないおじさんだよ」


一口飲む。


「……だから、その」


少し言葉を探す。


「君が明日また戦う気になるまで、俺は隣で黙って飲んでる」


凛の背中が、ほんのわずかに動いた。


「励ましも、お節介もしない」


少し間があく。


「……勝手にすれば」


小さな声が返ってきた。




結局、その夜の二人は、それ以上ほとんど言葉を交わさなかった。


店の喧騒の中で、ぬるくなった酒をゆっくり飲む。


会話のない時間は、気まずいはずなのに、どこか落ち着いていた。


店を出る時、凛は背を向けたまま、消え入るような声で言った。


「……次は」


少し間があく。


「……次は私が、機嫌がいい時に来てください」


「……おやすみなさい」


凛は振り返らずに夜の街へ消えた。


藤井はその背中を見送り、夜空を少しだけ見上げた。


人生は、なかなか思い通りには重ならない。


けれど、この苦い後味も含めて、悪くない夜だと思えた。

お読みいただきありがとうございます!

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