5℃
火曜日の二十時。
吸い寄せられるように『おおきに』の暖簾をくぐった。
鞄の中には、昨日届いたばかりの『合格通知』が入っている。
三十五歳になってから始めた勉強だった。
大きな資格ではない。それでも、これほど誇らしい気持ちで酒を飲むのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
「……お」
いつものカウンターの端に、その背中を見つけた。
けれど、今日は何かが違う。
いつもより少しだけ肩が固い。
周囲に、触れられない空気ができている。
「凛さん、奇遇だね。……隣、いいかな」
弾む心を抑えきれず、藤井は少しだけ明るい声を出した。
凛はゆっくりと顔を上げた。
その目は、どこか焦点が定まっていない。
「……ああ、藤井さん。どうぞ」
⸻
「実はさ、これ」
藤井は我慢できずに、合格通知のハガキをカウンターに置いた。
「受かったんだ。君に背中を押してもらったおかげだ。今日は俺に奢らせてよ」
満面の笑みだった。
しかし、凛の反応は予想とは真逆だった。
彼女はハガキを一瞥すると、小さく溜息をつき、ジョッキに残っていたハイボールを一気に飲み干した。
「……おめでとうございます。良かったですね」
声に温度がない。
それどころか、どこか刺々しい響きさえあった。
藤井は差し出していたハガキを、少し気まずそうに鞄へ戻した。
「……何か、あった?」
凛は少しだけ間を置いてから言った。
「……別に。ただの、仕事のミスです」
空のジョッキを見つめたまま続ける。
「私が良かれと思ってやったことが全部裏目に出て、チーム全体に迷惑をかけました」
店員にハイボールをもう一杯注文する。
「……さっきまで上司に一時間。『余計なプライドは捨てろ』って」
彼女の指先が、空のジョッキを強く握りしめていた。
⸻
「……そんな時もあるよ。君は頑張りすぎるところがあるから」
藤井は慎重に言葉を選んだ。
「ほら、耐久力があるって、自分で言ってたじゃないか。少し休めば——」
「……励まさないでください」
凛が言葉を遮った。
その声は低く、少し震えていた。
「今の私には、藤井さんのその『成功体験』が眩しすぎて、吐き気がするんです」
グラスに視線を落とす。
「……自分が惨めで、勝手に落ち込んでるだけなんですけど」
カウンターに、重苦しい沈黙が降りた。
店内は相変わらず賑やかなのに、この端の席だけが妙に静かだった。
藤井の胸の中にあった高揚感は、ゆっくりとしぼんでいく。
励ましたい。
力になりたい。
けれど、今の自分がどれほど「無神経な成功者」に見えているかも、藤井にはわかっていた。
「……ごめん。俺、浮かれてて」
「……謝らないでください」
凛は小さく首を振る。
「余計に惨めになります」
二杯目のハイボールが置かれる。
凛はグラスを持つと、藤井とは反対の方へ少し体を向けた。
同じ席に座っているのに、二人の間には、いつもより深い溝ができていた。
⸻
藤井は注文していた厚揚げに、しばらく箸をつけられずにいた。
自分も昔、こんな夜があったはずだ。
誰かの順調さが、どうしようもなく苦しく見える夜。
それを忘れて、少し浮かれていた自分。
「……凛さん」
藤井は静かに言った。
「俺、明日も仕事なんだ」
凛は振り向かない。
「この試験に受かったからって、何か変わるわけでもない」
ジョッキを持ち上げる。
「相変わらず、しがないおじさんだよ」
一口飲む。
「……だから、その」
少し言葉を探す。
「君が明日また戦う気になるまで、俺は隣で黙って飲んでる」
凛の背中が、ほんのわずかに動いた。
「励ましも、お節介もしない」
少し間があく。
「……勝手にすれば」
小さな声が返ってきた。
⸻
結局、その夜の二人は、それ以上ほとんど言葉を交わさなかった。
店の喧騒の中で、ぬるくなった酒をゆっくり飲む。
会話のない時間は、気まずいはずなのに、どこか落ち着いていた。
店を出る時、凛は背を向けたまま、消え入るような声で言った。
「……次は」
少し間があく。
「……次は私が、機嫌がいい時に来てください」
「……おやすみなさい」
凛は振り返らずに夜の街へ消えた。
藤井はその背中を見送り、夜空を少しだけ見上げた。
人生は、なかなか思い通りには重ならない。
けれど、この苦い後味も含めて、悪くない夜だと思えた。
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