6℃
金曜日の夜。
藤井は仕事帰りに、居酒屋『おおきに』の暖簾をくぐった。
店内は相変わらずの賑わいで、カウンターの奥では常連らしい客が焼酎を傾けている。
藤井はカウンターの端の席に腰を下ろした。
「瓶ビール、お願いします」
大瓶とグラスが置かれる。
泡が多めになった一杯目を一気に飲み干し、ネクタイを緩めた。
図書館で会ってから一週間。
参考書は、なんとか毎日少しずつ開いている。
三十ページとはいかない。
十ページの日もあるし、五ページの日もある。
それでも、やめてはいない。
「……隣、いいですか」
振り向くと、そこには凛が立っていた。
ネイビーのジャケットに、細身のパンツ。
仕事帰りの「戦闘服」だ。
「来てくれたんだ」
藤井は隣の席に置いていた鞄をどける。
「たまたま近くを通ったので」
そう言いながら微笑む横顔が、ひどく美しく見えた。
「…油断した」
「え?」
「いや、、なんでも。…生がいい?」
「いえ、私も瓶ビール貰っていいですか」
店員に短く注文する。
グラスが置かれ、慣れた手つきで藤井が注ぐ。
凛は綺麗な比率で注がれたビールを一口飲んだ。
「はぁー」
「落ち着くだろ」
「最高ですね」
⸻
「勉強、続いてるんですか」
凛がふと聞いた。
藤井は鞄を軽く叩く。
「一応」
鞄の中には、例のテキストが入っている。
「毎日少しずつ。……横文字多すぎて頭割れそうだけど」
「やめてないんですね」
凛はそう言って、お通しのひじきに手をつける。
「自分で決めた事ぐらいや切らないと」
藤井は苦笑する。
「しがないおじさんの、なけなしの意地だよ」
凛は少しだけ視線を上げた。
「……悪くないと思います」
淡々とした口調だったが、前より少し柔らかかった。
⸻
「すみません。厚揚げとマカロニサラダ」
凛が注文する。
料理が届くと、凛は厚揚げを箸で割り、ふう、と息を吹きかけた。
その仕草は、少しだけ年相応に見えた。
「……そういえば」
凛が言う。
「この前、会社で少しだけ褒められました」
「へえ」
「前に言った上司の件。仕事量、少し調整してくれて」
「それは良かった」
藤井はジョッキを持ち上げる。
「戦った成果だな」
「大したことじゃないです」
凛は首を振る。
「あと、少し考え方を変えたんです」
一拍置く。
「……藤井さんに言われた通り」
「俺、何か言ったっけ」
「耐久力はあるんでしょう、って」
「あれは君が俺に言ったんだろ?」
「良いんですよ。本当は藤井さんに言いながら、自分に言い聞かせてたんです」
凛はそう言って、グラスを持ち上げた。
「とにかく、もう少しだけ耐えてみようと思ったんです」
カチン、と軽くグラスを合わせる。
大げさな乾杯ではない。
けれど、小さな音が二人の間に落ちた。
⸻
「次、何飲みます」
凛がメニューを見る。
「日本酒のみません?」
「日本酒か。…ま、金曜だしな」
「じゃあこれ」
凛はメニューを指差した。
「飲みやすいですよ」
「詳しいな」
「飲む機会は多いので」
徳利が届く。
凛はゆっくりと酒を注いだ。
「……藤井さん」
「ん?」
「試験、受かるといいですね」
唐突だった。
藤井は少し笑う。
「気が早いな」
「別に、」
凛はそっけなく言う。
「続けてるなら、そのうち受かるでしょう」
ほんの少しだけ、口角が上がった。
それはまだ「笑顔」と呼ぶほどではない。
けれど、以前より確かに柔らかかった。
藤井はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、とりあえず」
酒を一口飲む。
「続けてみるよ」
店の喧騒は相変わらずだった。
けれど、カウンターの端のこの席だけは、どこか静かな空気が流れていた。
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