8℃
深夜近く、土砂降りの雨。
雨宿りのために逃げ込んだオフィス街のコンビニの軒先で、彼は缶コーヒーを握りしめていた。
「……あ。この前の」
隣から聞こえた声に、藤井は肩を揺らした。
そこには、一ヶ月前と同じく隙のないコートを着た凛が立っていた。
しかしその手には、骨の折れたビニール傘が無惨にぶら下がっている。
「……あぁ、先日の、戦友さん」
「雨降らないと思ってたのに」
凛は濡れた髪を面倒そうにかき上げると、藤井の持っている缶コーヒーをちらりと見た。
⸻
「傘、壊れたんですか」
「見ての通りですよ。買ったばっかりなのに」
藤井は持っていたビニール傘を広げる。
決して大きくはないが、二人ならなんとか入れるサイズだ。
「駅まで、入れますよ。……下心じゃなくて、単なる資源の有効活用と思ってください」
「……ありがとう。助かります」
二人は並んで歩き出した。
⸻
「あの時のウコン、飲みました?」
藤井が尋ねると、凛は前を向いたまま小さく頷いた。
「飲みました。おかげで翌朝、後悔せずに済みました。……でも、あんなもの渡してくる人、初めてでしたよ。普通はLIMUとか聞くじゃないですか」
「俺みたいなのは、相手の明日の健康を願うくらいしか、やれることがないんですよ」
「それ、三十五歳の矜持ですか?」
「ただの諦めですよ」
凛は少しだけ、傘を差す藤井の手に視線を落とした。
その手は節くれ立っていて、長く社会に揉まれてきた男の重みがあった。
「私、あの後、職場で少しだけ言い返したんです」
「……へぇ」
「無理な納期を押し付けてくる上司に。『私はあなたが耐久力をテストする機械じゃない』って」
藤井は思わず吹き出した。
「それはまた……。それで、どうなったの?」
「一週間、無視されました。でも、空気が変わった。少しだけ、息がしやすくなった気がします」
⸻
駅の改札が見えてきた。
凛は傘の中から一歩外に出た。
雨に濡れるのも気にせず、藤井を振り返る。
「藤井さん」
「はい」
「あなたは自分のことを『しがない』って言いますけど、あなたのその諦め方は、誰かを少しだけ楽にする種類のものだと思います」
「……褒められてる気がしないな」
「褒めてはないです」
凛はバッグから一枚のショップカードを取り出した。
あの日の居酒屋『おおきに』のカードだった。
裏面にさらさらと何かを書きつけると、そのまま藤井の手に押し付けた。
「……気が向いたら、またあそこで」
「……名前、一回で覚えてください」
凛はそれだけ言うと、改札へ向き直った。
藤井は手の中のカードを裏返す。
そこには、小さく「凛」とだけ書かれていた。
藤井は小さく息を漏らした。
「了解です。ウコン、また持っていきます」
凛は振り返らないまま、わずかに口元を動かした。
「そうですね。あれ、意外と役に立ちましたから」
凛はそれ以上何も言わず、改札へと吸い込まれていった。
一度も振り返らない後ろ姿は、相変わらずクールだった。
藤井は手の中のカードを見つめ、それから缶コーヒーを一口飲んだ。
雨の匂いと、微かな鉄の味。
明日もまた、代わり映えのしない満員電車が待っている。
それでも、手帳に挟んだカードが、ほんの少しだけ彼の日常を軽くしていた。
お読みいただきありがとうございます!




