9℃
どこにでもありそうな、無さそうな、そんな話しです。
金曜日の午後八時。
天満の路地裏にある居酒屋『おおきに』のカウンターは、一週間の膿を吐き出すサラリーマンたちで溢れかえっていた。
藤井は端の席で一人、ビールを飲んでいた。
入り口のドアに映る自分の姿。
35歳。顔立ちは整っている方だと思う。髪もきちんと整えているし、スーツも極端に古いわけではない。だが全体として、どこか疲労が滲んで見える。長い時間、同じ場所で働き続けた人間にだけ出る種類のくたびれ方だった。
「しがない」という言葉を擬人化したような男だと、自分でも思う。
野心という燃料は、気づけばほとんど使い切っていた。
「隣、いいですか」
不意に、隣の空席に冷ややかな声が落ちた。
見上げると、そこには場違いなほど整った顔立ちの女が立っていた。
ブラックのタイトなニットに、隙のない黒髪。居酒屋の赤提灯の下よりも、北浜のバーが似合いそうな、「クール系」という言葉がぴったりの佇まいだった。
「あ、どうぞ。空いてますよ」
藤井が椅子を少し引くと、彼女は軽く頷き、迷いなく言った。
「生と、冷奴」
⸻
しばらくの間、二人の間には奇妙な沈黙が流れた。
藤井は焼き鳥のつくねを少しずつ崩し、彼女は届いたビールのジョッキをまだ口に付けず、ただ真っ直ぐ前を見ている。
「……あの、お疲れ様です」
沈黙に耐えかねて、藤井が独り言のように呟いた。
彼女はゆっくりと首をこちらに向けた。
その視線は、出来の悪い報告書を確認する上司のように冷ややかだった。
「……会ったことありました?」
「えっ、いえ、全く」
「じゃあ、どうしてお疲れ様なんて言うんですか。新手の口説き文句ですか」
直球だった。
藤井は苦笑して、ジョッキを置いた。
「いや、単なる習慣ですよ。この時間、この場所にいる人間は、みんな何かをすり減らしてここに来る。だから、戦友みたいなもんかなと思って」
「戦友」
彼女は小さく鼻で笑った。
「三十代の男性って、どうしてそうやってすぐ人生をドラマチックに仕立てたがるんでしょう。私はたまたま寄っただっただけです」
⸻
彼女の名前は凛というらしい。
年齢は聞いていないが、24,5歳ぐらいだろか。
IT系の企業で働いているが、職場の「熱血」なノリが心底嫌いなのだと、彼女は少しだけ口を割った。
「君みたいな若い人が、こんな店に来るのは意外だったな」
「その言い方はお店の方に失礼じゃないですか?ここは良い店です」
凛は冷奴に醤油を垂らしながら言った。
その指先は驚くほど白い。
「藤井さん、でしたっけ。あなたは、どうしてそんなに申し訳なさそうに飲んでるんですか?」
「え?」
「さっきから隣で見てると、まるで自分がここにいることが罪だとでも思ってるみたい。『しがないおじさん』っていう役を演じてるみたいで、見ててイライラします」
藤井は言葉に詰まった。
図星だった。
若さもなく、特出した才能もなく、ただ消費されるだけの自分。それを「自虐」という鎧で守っていた。
「……手厳しいな。でも、そう見えてるなら正解だよ。実際、俺の人生なんてそんなもんだ」
「つまんないですね」
凛はそう言うと、ようやくジョッキを口に運んだ。
喉仏が小さく動く。
「でも、その『つまんない人生』をそんなに長く続けてるっていうのは、私からすれば異常なまでの耐久力です。それは自虐するようなことじゃない。……多分」
⸻
その後、二人は特に盛り上がることもなく、ただ淡々と酒を飲んだ。
凛は最後まで笑顔を見せなかったし、藤井も彼女を口説こうとは思わなかった。
一時間後。凛が先に席を立った。
「あ、これ。お近づきの印に」
「明日、二日酔いだと仕事がもっとつまらなくなるから」
そう言って、藤井はカウンターに小さな瓶を置いた。
凛はそれを見て、一瞬だけ眉を動かした。ラベルには「ウコンのパワー」と書いてある。
それは微笑みというにはあまりに微かな、氷が少しだけ溶けたような表情だった。
「……ありがとう。お疲れ様でした、戦友さん」
彼女は背筋を伸ばしたまま、騒がしい暖簾をくぐって夜の街に消えていった。
残った藤井は、彼女が去った後の空気の名残を感じながら、残りのビールを飲み干した。
「……さて、明日もまた仕事だな」
ほんの少しだけ、背筋が伸びた気がした。
はじめまして!
お読みいただきありがとございます!




