たったそれだけで
気がついたら寒くなっていた。
そんなことを言うと年寄りじみていると言われそうだが、俺の感覚としてはそうだ。それに、それで良かった。
いや、良くはない。卒業研究の目途がいまだに立っていない。埋めるべき紙面は白く、充実しているはずの俺は空漠で、そして時間だけが無常に過ぎ去っていく。
室内は、言われなければそれとわからないLED照明のおかげで窓の外とは別世界かのように明るく、そう思うと自分だけが世界から取り残されたように心細くなってくる。迷子の子供のようだなどと埒もなく自嘲して、反響してきた自分の吐息にまた気分が沈む。
今、何時だろうか。他にいくつも方法はあるのだからよせばいいのに、スマホを手にしてしまう。
いくつかの通知が映され、しかしそれはない。当然のことなのに、自分でそうしたことなのに、がっくりとうなだれてしまう。そうしてまた、無駄に時間を過ごしてしまう。
12月16日午後7時32分、腹が減ってきたような気がしないでもない。腹が満たされれば、少しは気分も変わるだろうか。スマホをポケットに戻して腰を浮かせたその瞬間、音を消していたスマホが振動した。
ちょうどその瞬間でなければ、あるいは気づかなかったかもしれない。そのせいで最近つき合いが悪いと言われるようになってしまってもいるので、いい時に連絡が来たと少し安堵しながらもう一度スマホを手にした。いや、しようとしたと言うべきだったか。
まだ暗転していない画面に示されたそれに、スマホを取り落してしまう。あっとひと声上げて、俺は足を差し出した。サッカーボールのように蹴り上げられるわけもなく、スニーカーの甲の部分に当たって、スマホは足元に転がった。
画面には保護フィルムを貼ってあるから少しのことでは割れたりしないのだろうが、とっさのこととなると体が動いてしまうものらしい。とにかく、無事でよかった。スマホもそうだが、何よりそれが無事であることに、今度は心の底から安堵を覚えた。
忘れることのできない名前と、その名前に似つかわしくないよそ行きな挨拶の一文。タップして、アプリを起動する。寒さに指先が微かに震えたが、操作ミスはせずに済んだ。
(クリスマスプレゼントを買いたいので、一緒に来てくれませんか)
暑くて長かった夏の始まりの頃。
俺たちは明暗が分かれることとなった。今振り返ってみればその表現は正しくないのだが、その時俺にはそうとしか思えなかった。
なぜ、と思った。そう思うと負の感情が雪だるま式に肥大化していき、あれこれがみんな疎ましく感じられて、突き放すようにしてしまった。
以前であればそれでもお構いなしにつきまとってきそうなものだったが、いつの間にか遠慮というものを身につけたらしく、多分、俺が集中できるようにしてくれていた。そういうところが好感を持たれたからこその、この結果だったのだろう。
暑さが続く中、それを倦む余裕さえなく活動を続けてようやく結果を手にして、その汗が引いた時、俺は寒々とした感覚に身震いをした。
ずっと必死だったものが気抜けしたくらいのものだろうと軽く見ていたのだったがそうではなく、それはずっと側にあったはずのものがそこにない、喪失感だった。
失ったというよりも自ら捨ててしまった、そしてそれから時が経ちすぎていた。それでも、本当に大切なものならば、取り戻さなければいけない。
それなのに、俺は動けなかった。いや、動かなかった。それは俺の変な自尊心や自虐心などが邪魔をしたからなのだろう。そんな子供だからこうなったのだと思うと、余計に情けなくて動けなくて、何もしないまま時間だけが過ぎていった。そのせいで、卒業研究までも進められていない。
だから、時間に余裕などない。それでも、会いたい。
「あ、義雄くんだ」
12月18日午後5時25分、冬と言うには妙に湿り気を帯びた生暖かい風に乗って、しかしそれとは似つかわしくない屈託のない声が耳に届いた。
今さら、今でも、聞き間違えるはずもない。
声と共にその主が、春の風が俺を包むように俺の周りをぐるぐる回る。何かを確かめたかのように、うんうんとしきりに頷く。
何となくわかる気がするが、勘違いだと自分を戒める。今さら、そんなことを期待していいはずがない。
「クリスマスプレゼント、一緒に見てもらいたいの」
「彼氏にか」
「そ」
正面から俺を見て、にこりと笑う。喉が絞めつけられたようで、返事どころか笑い返すことさえできない。そんな俺のことをさほど気にかける様子もなく、彼女は真っすぐ一軒の雑貨屋へと入っていった。
入っていくにつれて女性客の比率が上がっていく。季節柄か、男連れもけっこう目にする。総じて、みんな楽しそうな笑顔を浮かべている。彼女もその一人のようで、俺だけが違うと思うといたたまれなくなってくる。
突然の感覚に声を上げそうになってしまい、かろうじて抑えこんだ。足が止まってしまいそうになったところに、手を引かれたのだった。
暖かくてとろけそうで、でもまともに息ができていないように苦しい。ひとつのショーケースの前でようやく彼女の足が止まり、俺はそこで小さく息をついた。すれ違った女性客がちらりとこちらに目をくれたが、幸い彼女の耳には届かなかったようだ。
女の子向けのピンクや白を主体にした区画の中でまだやや落ち着いた色合いを持ったそこは、テディベアのコーナーだった。こんなのに興味あっただろうかと、何度も訪れた彼女の部屋を思い出して、自分に嫌気が差す。もう、むなしいだけなのに。
手のひらサイズの薄茶色の二体ペアのものを指して、感想を求めてくる。二体の違いは胸元のリボンだけで、片方はピンク、もう片方は水色だ。どちらも淡い色合いで、大人が持っていても変ではなさそうに思える。
「こんなの男がもらって嬉しがるか?」
呆れ半分に答える。嫌味ではなくて、純粋な感想だ。
「義雄くんだったら? いらないって捨てちゃう?」
それなのに、そんな嫌味を返してくる。
「せっかくの貰い物なんだから、そんなことはしない」
嫌味を嫌味で返すのも子供っぽい。努めて、冷静に返す。
「らしい」
それなのに、俺の目を見て笑う。その上、それを手にしたままレジに向かってしまう。
俺の意見なんかどうだってよかったのか。それならばどうして俺を呼んだりなんかしたのか。不満は募るが口には出せない。今この一時だけ我慢すればいいと諦めるしかないのだろう。うきうきとレジ待ちの列に並ぶ彼女の後ろ姿を眺めながら、何度めかのため息を漏らす。
カレンダーを見ては暑さがまだ続くだろうことにうんざりしていた頃。
俺もやっと結果を手にすることができて、一日一日が過ぎることへの焦燥から解放されたことにようやく実感を覚えたある日。どこからかそれを聞きつけた彼女が、お祝いを言いに来てくれた。
早い遅いに何の意味もない。それなのに俺は、先に結果を手にしていた彼女に優位を取られているように思えて、卒業研究を理由に避けてしまった。
それは一面正しくて、だから卒業研究が終わらないうちはそのままでいられている。あるいは俺は、そのままでいたくて卒業研究を進められずにいるのだろうか。
午後6時7分、ようやく彼女の番が回ってきて、支払いを済ませて程なくビニール袋を手に提げて戻ってきた。
「プレゼントなのにラッピングはしないのか」
「あげるのは片方だけだもん。ふたりで、ひとつずつ持つの」
それは納得した。しかし、それならば今度は別に気になることがある。
「ならひとつずつ自分でラッピングするんだろ。そういうのもここで一緒に買えばよかったじゃないか」
「それも思ったんだけどね。でも、今渡したいから」
今とは何だ、相手はもう近くにいるのか、そんな相手に俺はどんな顔をすればいいのか、顔を合わせてしまったら向こうも気まずいだろう。
噴き出すように感情があふれてきて、言葉にすることさえ追いつかない。
遅れてやっと喉から声が出そうになった時、それは目の前に差し出された薄茶色のものに止められた。
「俺……?」
「そだよ。大切にしてね」
ピンクのリボンをつけたベアの黒い目が、光の加減がそう見せているのか、俺を真っすぐ見つめている。それは何を問う目なのだろうか。
「彼氏にじゃ、ないのか?」
これではない。しかしそれが何なのかわからなくて、問い返すことしかできなかった。
「彼氏でしょ。義雄くんは、私の」
呼吸が、震える。崩れ落ちてしまいそうで、両拳に力を込めて、どうにか止めようとあがく。
彼女、亜子は何の疑いもなくベアを差し出している。大切なものが、ここにある。
いいのかと、ものすごく迷った。しかし迷った時点でもう、会う前と比べたら気持ちは大きく傾いていたのだった。その勢いに抗うことは、できなかった。
「その子の名前はちびあこ。で、こっちがちびよし。ね」
この暖かい風が明日、張り出してくる寒気にぶつかって雨を降らせるらしい。
俺の手にはコンビニでパンを買った時にもらったビニール袋があって、袋の口からピンクのリボンのベアが顔をのぞかせている。ふわふわした毛に包まれたちびあこは、寒さに震えたりはしていなさそうだ。
「ごめんね。うっかり義雄くんが持って帰る用の袋とか用意するのを忘れてて」
そんなことにほっとする。置いていかれたような気がして、勝手にその印象ばかりを濃縮してしまって、実像を見失ってしまっていた。
卒業して、働いて働いて働いて働いて働かなければならなくなって、今以上に離れてしまうと思うと怖くて、離れていても側にいてくれる何かがほしかった。今年の漢字が熊になったと新聞で見てテディベアを思いついて早速さっきの雑貨屋に行って、このペアの子たちを見つけて二人で分け合うことに決めた。そう決めたらもう、25日まで待てなかった。
まくしたてるように、今までの時間を取り返そうとするかのように、亜子はしゃべり続けた。
まだ小さい子供のように、しかし俺が相槌を打つ間はそこここにあって、卒業という言葉も相まって大人になったのだと感じ入る。亜子も俺がそう思っていることを感じ取ってくれて、感慨がまた深まる。
俺からはほとんどしゃべらなかったが、それで十分だった。亜子がそこにいる、たったそれだけで、よかった。
だから、町中と比べれば暗い夜道に亜子のアパートの輪郭が見えてきた時に、違う方向へと手を引かれたのには驚いた。
驚いて、その衝撃で思い出す。
「ねえ……、覚えてる?」
思い出したからこそ、首を縦に振れない。
しかし亜子にとっては、否定しないことは肯定だった。
「キス、しよ……?」
して、ではなくて、しよう。それが当たり前の距離感。
何が俺の身をこわばらせたのか、自分でもわからない。
温度とは違う例えようのない熱が、感度を増していく。
「?」
その唇は、俺には触れなかった。
とっさに顔の前に掲げたベアに遮られた、ようだった。
熱が離れ、合間に小さな笑い声が挟まる。
「これでこの子は私。キスしたくなったら、いつだってこの子にすればいいね」
だからこの子にも、と自分のベアを差し出す。
ものすごく恥ずかしかったが、断りたくなかった。
唇が触れるだけの、子供のようなキス。
胸苦しくて、手を当てる代わりにベアを抱きしめたら、可愛いと笑われた。
感情があちこちに振れて、訳がわからないのが止まらない。亜子を見送るときも、ありきたりの挨拶しかできなかった。
午後6時59分、どういう訳か、今俺の足は大学へと向かっている。




