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第9話 約束の鐘が鳴る朝

 夜は、思ったよりも静かに終わった。

 四度鳴る鐘も、断声の祈りも、遠くの空白も、すべてが薄明の色に溶けていく。

 東の稜線が白くほどけ、冷たい空気の奥に、パンを焼く匂いと乳香の残り香が混じる。

 世界は、まだ壊れてもいないし、完全にも直っていない。——けれど、確かに“回り始めた”。


 王都の中央広場に、簡素な壇が組まれた。

 崩れた修道院の礼拝堂から運び出した石板が、そのまま祭壇になっている。

 巫女はその前に立ち、折れた杖の先に新しい枝を結んでいた。

 結び目は、二度、引いて、ひとつ。


 広場の端に、灰色の制服の列。リヒトはその先頭で、私の手を握った。

 包帯はもういらないのに、彼は皮手袋の内側にごく細い糸を巻いている。

 “ふたりでしか作れない”印は、目に見えなくても、指の中に残る。


「怖いか?」

 彼が問う。声にはもう、遅れがない。世界が、声を受け止めてくれる。


「少しだけ。でも、それよりも嬉しい。朝がちゃんと“音”で来るのが、こんなに心強いなんて」


 巫女が壇に片膝をつき、王立神殿の紋章を外した。代わりに、灰の糸で小さな輪を作り、それを胸に留める。

「本日をもって、“断ち切る側”の権能を放棄するわ。神殿は、返す祈りの手順を公開する」

 彼女は人々に向け、つまり、私にも、リヒトにも向けて言う。

「空白を増やしたのは、器物でも術者でもない。——“わたしたちの恐れ”だった。

『なかったことにしたい』という祈りは、祈りの顔をした刃になる。

 だからどうか、忘れたいときは、忘れたふりをせず、“痛い”と言っていい。

 痛みは、結び直す糸にできる」


 広場のそこかしこで、嗚咽のような息が漏れる。

 失った名を取り戻した者、取り戻せなかった者、取り戻したくなかった記憶と向き合う者。

 誰もがいま、空白に自分の輪を投げかける場所にいる。


 壇の脇で、院長が私を呼んだ。

 灰の瞳は、夜の間一度も眠らなかったはずなのに、深い湖みたいに澄んでいる。

「手紙が届いているわ、レイナ」

 封蝋はグラナート侯爵家の紋。心臓が強く打った。


 封を切ると、薄い紙に簡潔な文字が並んでいた。

 ——“娘へ。

  すべての帳面が、朝の光と一緒に書き換わった。

  お前の名が戻り、家の食堂の席も戻った。

  しかし、セラフィナの名も消えなかった。

  彼女は、私の弟の娘で、戦禍で保護されていた。

  儀に合わせて『娘』の席に座らせたのは、神殿と家の、恐れから出た判断だった。

  すまなかった。

  帰ってきてくれるか。私たちの娘として、そして、彼女の姉として。”


 文字が滲んだ。朝の光のせいにするには、涙の温度がはっきりしすぎている。

 セラフィナは、置き換えの幻ではなかった。空白が生んだ影ではなく、私たちの恐れが寄る辺にしたひとりの少女だったのだ。

 彼女の名が消されないことに、安堵した自分を、私ははっきりと感じた。


「帰ろう」

 背後からリヒトが言う。「君の席に。そして、彼女の席の隣に」


 私は頷いた。

「でも、その前に一つだけ、ここで終わらせたいことがある」


 巫女に歩み寄る。

「返環の手順を、誰もが読める言葉で、刻んでください。修道院が崩れたとしても、誰かの胸で続くように」


 巫女は細く笑い、崩れた礼拝堂から運んだ石板の裏に、新しい刻字を始めた。

 返環の祈り——

 名は、ひとりでは名にならない。

 声は、誰かに届いてはじめて声になる。

 二度、引いて、ひとつ。

 私とあなたは、いま、ここで輪になる。


 刻む音に合わせて、王都の鐘楼が深く息を吸う。

 私はリヒトの手を取り、広場の中央に進む。

 彼の制服の肩章が朝日に鈍く光り、私の外套の裾が小さく揺れた。

 世界が見ている。けれど、世界より先に、私たちが選ぶ。


「レイナ・グラナート」

 彼が、ひとつずつ音を確かめるように呼ぶ。

「俺は、名で君を呼び続ける。

 忘れたい夜が来たら、一緒に“痛い”と言う。

 忘れられない朝が来たら、一緒に“嬉しい”と言う。

 俺の右手は剣を持つ。左手は君を持つ。

 二度、引いて、ひとつ。

 この結び目は、俺が死ぬまで守る」


 私の喉が甘く熱くなり、笑いながら泣くという器用さを、久しぶりに思い出した。

「リヒト・アーヴェント。

 私も、名であなたを呼び続ける。

 沈黙が来たら、胸で聴く。

 雑音が来たら、静けさを一緒に拾う。

 右手は針を持つ。左手はあなたの手を持つ。

 二度、引いて、ひとつ。

 この結び目は、私が生きる限り守る」


 彼は小さく頷き、私の薬指に、細い銀の輪を通した。

 儀式の夜に外された“輪”ではない。

 今、ここで結び直した輪。

 表面には小さな刻み目があり、指腹に触れるたび、二度引いてひとつの手応えが返る。


 巫女が杖を掲げ、鐘楼に合図を送る。

 王都の空に、一度だけ、深い鐘が鳴った。

 祝福の音。断絶でも、再起動でもない。——約束の音。


 鐘が止むと、人々のざわめきが戻った。

 広場の端で、泣き腫らした目の少女が、私を見つけて立ち上がる。

 金の髪飾り。まつ毛の長い影。

 セラフィナ——私の名の席に座っていた、もうひとりの娘。


 私は彼女の前まで歩き、そっと会釈した。

「はじめまして、セラフィナ。私はレイナ。あなたの——」


「お姉様?」

 彼女が先に言った。

 声は小さいのに、驚くほどよく届く。

 彼女は一度唇を噛み、それから、堰を切るように続けた。

「神殿の人に『今日からこの家の娘です』と言われて、怖くて、嬉しくて、でもずっと、席が大きすぎて……。

 本当は、ずっと、誰かと一緒に座りたかったの」


 私の視界が即席の水面みたいに揺れ、膝を折って彼女の目線に合わせた。

 手を伸ばすと、彼女は躊躇いもなく飛び込んできて、胸に顔を押しつけた。

 ——その重さは、取り戻した名にも、取り逃した夜にも、やさしく釣り合う。


 父と母が近づいてくる。

 父は、十歩手前で立ち止まり、深く頭を垂れた。

「すまなかった、レイナ。恐れに負けた」

 母は、こわばった笑顔をやっと解いて言う。

「あなたの指輪の跡を見たとき、本当は分かっていたの。

 でも、空白に名を置いてしまえば、楽だと思ってしまった。

 ……これからは、二人分、いや、三人分の席をちゃんと整えるわ」


 私は首を振る。

「今日から整えればいい。約束の朝に、間に合った」


 家族の輪郭は、こうして増えるのだと思った。

 誰かを消して整えるのではなく、席と椅子を足して、狭いなら肩を寄せる。

 恐れは、そうやって少しずつ居場所を失う。


 儀式は式として、書類は書類として、昼過ぎまで続いた。

 神殿は返環の手順を公表し、修道院は“忘却と赦しの園”から“結び直しの園”へ看板を掛け替え、騎士団は「空白に抗する協力隊」を置くことを宣言した。

 主祭官は職を辞し、巡礼に出るという。

 彼は壇の上で、短く言った。

「秩序を愛したが、恐れを選んだ。

 秩序がほんとうに求めているものは、輪の緩みを許す余白だったのだろう」


 夕刻。

 日が傾くと、街は突然、日常に占領される。

 市場の声、鍛冶の火花、井戸の笑い声。

 私はリヒトと並んで坂道を登り、王都を見渡す丘に出た。

 風に、パンと薔薇と鉄の匂いがまじる。

 遠く、修道院の跡地に足場が組まれ始めている。

 新しい礼拝堂は、円形の回廊に、外へ開いた扉を幾つも持つらしい。

 出入りの自由は、結び直しの第一歩だと、院長が言っていた。


「帰る場所が、ひとつ増えた」

 私は呟く。「家と、修道院と、あなたのいる場所と」


「それ全部、同じ意味じゃないか?」

 リヒトが軽く笑い、私の肩を抱く。

 肩越しに見える彼の横顔は、夜より朝に似合う。

 彼は胸元から細い紐を取り出し、私の手首に巻いた。

 銀の輪と、灰の糸。

 二度、引いて、ひとつ。

「忘れるな。俺たちは、輪の芯に言葉を置いた。

 “世界がどうあれ、俺はレイナを愛している”。

 この言葉は、剣でも、祈りでも、法律でも、誰にも外せない」


「じゃあ、私からも返すわ」

 私は彼の手首に同じように糸をかけ、結ぶ。

「“世界がどうあれ、私はリヒトを愛している”。」


 小さな音がして、糸が締まる。

 当たり前の音なのに、鐘に似て聞こえる。

 約束の鐘は、塔の上だけで鳴るのではない。

 こうして、ふたりの手の中で、何度でも鳴らせる。


 丘を下りかけたとき、背後から名を呼ぶ声がした。

 「レイナ様!」

 振り向くと、修道院の子どもたちが駆け上がってくる。

 頬を紅くして、息を切らせながら、手紙の束を突き出す。

 「街のひとたちから! “名前が戻ったよ”“声が届いたよ”って!」

 封筒のひとつを開くと、滲んだ文字で、こう書かれていた。

 “忘れたくないことを、忘れたくないと言える朝をありがとう”——


 喉の奥が熱くなる。

 私はリヒトと目を合わせ、笑う。

 笑うことが、こんなにも“音”になる。

 こんなにも輪を締め直す。


 日が落ちかけた空に、一番星が灯った。

 それを合図みたいに、王都の鐘が一度だけ鳴る。

 断絶の二度でも、恐れの四度でもない。

 ——約束の一度。

 今日を結び、明日へ渡す、静かな橋の音。


 私は彼の手をもう一度握り直す。

 二度、引いて、ひとつ。

 この手応えを、忘れない。忘れられない。

 どんな空白がまたどこかに生まれても、

 私たちは、目の前の輪から結び直していける。


 世界は、完全ではない。

 けれど、私たちの輪は、完全である。

 その確信が胸の中央で丸く灯り、夜気の中でやわらかく燃え続けた。


 そして、約束の鐘が鳴る朝は、

 明日も、明後日も、何度でもやって来る——。


 ——完。

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