第8話 消えた名を呼ぶ声
王都の北端に着いたとき、空はもう朝と夜の境を失っていた。
四度鳴った鐘は、風にのって響き続け、音そのものが痛みに似ていた。
声を持つ者たちの名が、少しずつ「音」を失いはじめている――巫女の言葉は誇張ではなかった。
通りを歩く人々の唇が、音を出さない。
声が出ないのではない。音が、世界に届かないのだ。
名前を呼ばれた子どもが、振り向けずに泣いている。
呼びかける声はあるのに、音が世界の皮膚を通過できない。
名の空白の次は、「声」の空白。
存在をつなぐ最後の糸が、ひとつずつ切られていく。
◇
巫女が祈りの杖を立て、薄く煙を立てる。
「ここは“断声の街”。名喰いが次に選んだのは、“声の記憶”よ」
声の記憶――。
それは、名を呼ぶための力そのもの。
名を覚えていても、声が届かなければ、存在は再び孤立する。
「レイナ、今度の敵は、“沈黙”そのものだ」
リヒトの声が震えている。声を出そうとするたび、音が少し遅れて空気に乗る。
世界が声を拒絶しているのだ。
私は頷き、喉に手を当てた。
「芯は言葉じゃない。名でも、声でもない。……想いは、声の前にある」
巫女が私を見る。
「そう。だからこそ、あの“輪断”の祈りを、もう一度使う。
でも今度は――“沈黙を結ぶ”祈りに変える」
彼女は古い巻物を広げた。
そこには、神代の時代の言葉で書かれた断声の呪文。
字が読めなくても、目を通すだけで鼓膜の奥が痛くなる。
「読んではいけません」
巫女が囁く。「これは、“声を奪う言葉”。読むだけで声を持っていかれる」
私は手を伸ばし、指先で巻物の端を押さえた。
「……でも、結び直すには、誰かが“読む側”に立たないと」
「レイナ!」
リヒトの声が響いた――その声さえ、途中で途切れた。
空気が音を拒んだのだ。
世界が本格的に沈黙しはじめている。
鐘はまだ鳴っているのに、その音が“聞こえない”人々が増えていく。
私は小さく息を吸い、巻物に指を滑らせた。
祈りの断片が、脳の奥に直接響く。
音ではなく、“想い”の形で伝わる。
——わたしは、呼ぶ。
——名を、声を、忘れた世界に、もう一度。
巫女が杖を掲げ、輪を描いた。
リヒトが私の肩を抱く。
「お前が読むなら、俺が“聴く側”になる」
沈黙の祈りが、世界の縁で開いた。
音のない世界の中で、ただ心臓の鼓動だけが残る。
私は目を閉じ、唇だけで祈りを唱えた。
音にはならない。けれど、リヒトの心臓が応える。
鼓動が二つ、交互に響く――それが“声”の代わり。
◇
どれくらい祈ったのか分からない。
沈黙の中で、ふと世界の底が震えた。
遠くで子どもが泣いている声が聞こえる。
声が、戻りはじめた。
巫女が祈りを終え、杖を下ろす。
「成功したわ。声の輪が、再び結ばれた」
街の人々が互いに名を呼び合う。
それは不器用な音。震える声。
けれど、確かに“届いている”。
リヒトが私を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「おかえり、レイナ。今度は、声も一緒だ」
私は笑って頷く。
「あなたの声を、二度と手放さない」
巫女が空を仰ぎ、指を立てる。
遠くで、最後の鐘が一度だけ鳴った。
それは、断絶でも再生でもない――約束の音。
世界が静かに息を吸い、
“名”と“声”が、もう一度ひとつに戻る。
次回(最終章)
第9話 約束の鐘が鳴る朝