第7話 告白と崩壊
深く一度鳴った鐘の余韻がまだ空に残っている。
返環の輪が重なった瞬間、私とリヒトの間に通った温度は、疑いようのない“私たち”の温度だった。
けれど、巫女は言った——まだ終わっていない、と。
礼拝堂の扉の向こうから、砂を引きずるような靴音が近づく。
煙に焼けた紙の匂い。黒い影が三つ、柱の間を滑る。
先頭の影だけが足を止め、布の奥から顎を上げた。銀の刺繍。王立神殿の主祭官がつける紋。
「“空白”は聖域である。人の名は、神の思し召し以外に結ばれてはならない」
その声を、私は覚えている。
婚約の夜、祝福の言葉を告げた、あの一節。
——いや、祝福ではなかった。断絶の祈りを、祝福の衣で包んだ声。
巫女は一歩、前へ出た。薄青の外套が、黒の前でかすかに明るい。
「主祭。儀式帳の頁を焼かせたのも、あなたですね」
「空白を守ったまでだ」
主祭官は手を掲げ、細い金の輪を三つ、指の間で転がす。「名は秩序だ。戦の後、血統は乱れ、偽りの婚姻と贋の名が横行した。だから我らは“断ち切る”術を選んだ。——愛は、秩序の外で芽吹くからな」
「秩序の名で、誰かの人生を消すのは違う」
巫女の声は低く、しかし揺れなかった。「私は“返す”側に立つ」
主祭官が指をはじく。金の輪が空気を切り、礼拝堂の床に散る。
輪は転がりながら色を喪い、黒い影に変わる。影は矢になる。
狙いは、ふたり同時——私と、リヒト。
リヒトが前に出る。私は彼の腕を掴む。
「だめ。半帳が破れる」
「お前を先に、守る」
影の矢が飛ぶ。
その瞬間、巫女が香炉を傾けた。白い煙が一気に立ち、祈りの線が空中に描かれる。
矢と線が交わり、弾ける火花が床に散った。
だが、一本、抜けた。
剣のように細い影が、一直線に私の胸元へ。
——レイナ。
名を呼ぶ声が、音ではなく“温度”として胸に宿る。
それはリヒトの鼓動と重なり、私の指に力が戻る。
「二度、引いて——」
私は自分の外套の紐を引いた。祈りの結び。輪を作る。
「——ひとつ」
影の矢はその輪に絡まり、軌道を逸らす。
矢は祭壇の脇に突き刺さり、石が悲鳴のような音を立てて割れた。
主祭官の眉がわずかに動く。
「“芯”が濃い……返環は成就寸前か」
成就——。
あとは、告白だけだと巫女は言うだろう。
互いの名と、生きた時間と、世界よりも先に結ぶ言葉。
私はリヒトを振り向く。
彼の灰の瞳には、もう覆いがなかった。
私を“初めまして”ではない目で見ている。
覚えている目で、見ている。
「リヒト」
喉が震える。けれど、言葉はまっすぐ出た。
「私の名はレイナ。あなたの婚約者。あなたの、家族になるはずだった人」
彼は近づき、私の両手を取った。
掌と掌が合うところに、あの包帯の結び目の跡が触れる。
「レイナ。俺は、剣と同じくらい、君に結ばれている。
忘れさせられても、指が覚えていた。
——世界が君を“なかったこと”にしても、俺の中では、いつも“今”だった」
鐘のない静寂が、礼拝堂に降りる。
巫女が短く頷いた。
「言いなさい。名と、祈りを。世界に先んじて」
私とリヒトは視線を絡め、同時に口を開いた。
「「——あなたを愛している」」
瞬間、薬指の白い輪が熱を帯び、返環の輪が音もなく嚙み合った。
床の亀裂が逆に塞がっていく。
石が若返るように滑らかになり、香の煙が真っ直ぐ天へ上がる。
半歩、世界が整う。
主祭官が歯噛みする気配がした。
影の矢がさらに増える。
今度は狙いが“名”だけではない。輪そのもの、返環の継ぎ目へ。
巫女が杖を突き、印を結ぼうとした——そのとき。
崩れた。
礼拝堂の天井が、静かに、しかし確実に軋む音を立てた。
柱の一本が、下から割れていく。
返環の輪が世界の薄皮を張り直す力と、名喰いの“空白”が引き裂く力が、同じ場所でぶつかった。
均衡が破られ、建物が先に悲鳴を上げたのだ。
「全員、外へ!」
院長の声が石壁を震わせる。修道士たちが孤児を抱えて走る。
私はリヒトの手を離さない。
主祭官は退かない。影を増やし、矢を重ね、輪を削ろうと前へ出た。
巫女が一歩、主祭官の前に出る。顔から外套を外した。
白磁の額。夜色の髪。
——あの夜、私の額に指を置いた“声”と、同じ顔。
「あなた……!」
私の喉から、叫びが漏れた。
主祭官が笑う。「お前の“姉”だ、レイナ。王立神殿の双子の巫女。片や断ち切る側、片や結ぶ側。古い慣いだ」
巫女——彼女の瞳が私を見た。
薄く笑って、首を振る。「私は姉じゃない。……ただ、同じ声帯を割り当てられた“代”よ。祝福にも、断絶にも、私の個は要らない」
たしかに、彼女の声はあの夜の祝詞と同じ響きだった。
だが、今は違う節を持つ。
“返す”祈りの節。
「名を切り刻むのは、神の意志ではない」
彼女は主祭官に向き直った。「それは、あなたが秩序と呼んだ恐れだ」
主祭官の輪が唸る。
矢の束が放たれ、巫女へ。
リヒトが咄嗟に前へ出る。私は彼の腕をさらに引き寄せる。
「リヒト、私から離れないで。輪が割れる!」
「離れるな、と言ったのはそっちだ」
矢が迫る。
私は外套の紐を掴み、彼の掌の包帯端と、私の紐端を結んだ。
二度、引いて、ひとつ。
“ふたりでしか作れない”結び目。
矢は結び目の上で弾け、床に黒い塵を散らす。
世界が、私たちの結びを“印”として承認する。
返環の輪の継ぎ目が、さらに熱をもつ。
けれど、礼拝堂の軋みもまた増した。
石と梁が、名と名の引き合う力に耐えかね、天井の一部が崩落を始める。
「外へ!」
院長が私の背を押した。
巫女が香炉を投げ、崩れる方向を煙で“鈍らせる”。
主祭官が退路を断つように黒い輪を投げ、地面に“空白”の穴を開けた。
床が抜ける。
私とリヒトは、結び目のまま落ちた。
落下の間、世界の音が引き伸ばされ、鐘の残響だけが耳に絡みつく。
暗闇の底で、水の匂い。地下礼拝室。
冷たい水面に叩きつけられ、肺が収縮した。
暗さに目が慣れると、壁面に古い文字が刻まれているのが見えた。
「双環」「返環」の古形。
そして、その下にもう一つ、知らない文字列——「輪断」。
輪を断つための、最初の祈り。
名喰いは呪具ではなく、祈りの歪みだ。
断絶の祈りが積もり、形を持ってしまったもの。
リヒトが咳き込みながら私を引き上げる。
私たちの外套の結びは解けていない。
彼は私の頬を両手で包み、至近で囁いた。
「俺は、もう二度と手を離さない。
レイナ、聞こえるか。俺の声で、お前の名を織る。
“世界がどうあれ、俺はレイナを愛している”。
これを、輪の芯に置く」
言葉が、水より重く私の中に沈み、底を支える石になる。
私は彼の額に自分の額を寄せ、同じ高さで応えた。
「“世界がどうあれ、私はリヒトを愛している”。
これを、輪の芯に置く」
頭上で、主祭官の声が遠く響く。
彼は地上で、空白の穴を増やしている。
地下の壁に刻まれた「輪断」の文字が、薄く光る。
呼応している。——呼び水を待っている。
巫女の声が落ちてきた。
「レイナ、リヒト、聞こえる? 地下に“輪断”の古祈文があるはず。そこに“返す”言葉を重ねて。輪断の祈りを、返環の言葉で上書きするの」
私は壁に掌を当て、古い文字の凹みをなぞる。
唇が、自然に節を拾う。
遠い祖先の祈りが、血のどこかに残っているみたいに。
「名を切り離す祈りに——
名を縫い戻す祈りを重ねる。
空白に、愛の糸を通す」
リヒトが私の手に自分の手を重ね、低く唱和する。
二人の声が揃うところだけ、文字が強く光る。
上書きは“ふたり”でしか進まない。
“ひとり”では、祈りは片肺で息切れする。
上から石が崩れる音。
時間は少ない。
それでも、私たちはひとつずつ、丁寧に祈りを置いていく。
二度引いて、ひとつ——のリズムで。
やがて、壁全面の輪断の文字列が、裏返った。
断ち切る矢印が、結び直す輪に変わる。
地下礼拝室の空気が一気に軽くなる。
同時に、地上から主祭官の押し殺した呻き声。
空白が痩せたのだ。
巫女の声。「今だ、上がってきて!」
私とリヒトは、崩れた階段を駆け上がる。
地上の礼拝堂は半ば崩れ、星空が剥き出しになっていた。
主祭官は膝をつき、金の輪を握りしめている。
彼の輪はもう黒く染まらない。
空白は、祈りで上書きされた。
彼は顔を上げ、私たちを見た。
憎しみではなく、恐れの消えた目で。
巫女が静かに近づき、主祭官の手から輪を受け取る。
「秩序を守ることは、恐れることじゃない。
秩序は、“結び直す力”も含んでいる」
主祭官は目を閉じ、長い呼気を吐いた。
やがて、力の抜けた声で言う。
「……負けを、認めよう。
ただし、名喰いは一人の意思ではない。
人々が“なかったことにしたい”と思うたび、薄闇に増える」
彼の言葉と同時に、どこか遠くで鐘が二度鳴った。
王都のどこか、別の場所でまた、空白が産声を上げたのだ。
私はリヒトの掌を握り直す。
二度、引いて、ひとつ。
返環は成った。
けれど、世界にはまだ無数の“空白”がある。
崩れた礼拝堂の縁で、夜風が髪を梳く。
星は近く、冬の匂いがわずかに混じる。
リヒトが私の肩を抱き寄せ、静かに言った。
「レイナ。俺たちは、自分たちの輪を守る。
そして、目の前の“空白”に紐をかけていく。
全部は無理でも、今ここは、俺たちが結ぶ」
私は頷き、彼の胸に額を押し当てる。
鼓動が、名前を確かめ合うように打つ。
返環の輪は、もう外からはいじれない固さを持っている。
芯は二人の告白で、石になったのだ。
ふいに、院長が瓦礫の向こうから現れた。
灰の瞳が笑い、しかし口元はきゅっと引き結ばれている。
「無事でよかった。……けれど、最後の“崩壊”はまだ止まっていないの」
巫女も頷いた。
「返環によって、他所の“空白”が騒ぎ出した。波及だわ。
次に鳴る鐘は、たぶん——あなたたちの名を餌にして、もっと大きな空白を呼ぶ」
その言葉に、空がかすかに軋んだ。
星のひとつがゆっくり瞬きをやめ、暗い点になり、また光る。
遠い王都の北端から、風がひときわ冷たく吹き、二度ではなく、四度、鐘の音が重なって届いた。
世界が、新しい形の「断ち切り」を覚えようとしている。
“名”ではなく、“声”を断つやり方。
私は喉を押さえ、息を整えた。
崩壊は止めるために起きる。
結び直す者に、崩れる場所を見せるために。
「行きましょう」
私は立ち上がる。「名前を呼ぶ声が消える前に。
次の鐘の場所へ。消えた名を呼ぶ声を、もう一度、つなぐために」
リヒトが頷き、外套の結び目を固く引いた。
二度、引いて、ひとつ。
夜風の中、その小さな音がはっきりと響いた。
――――
次回 第8話「消えた名を呼ぶ声」